1秒未来(さき)の物語。

あとりえむ

演算宇宙終焉録:デバッグ・ログ #00000000

第1章:サンプリング・レートの不可逆的低下

その街が最初に失ったのは、「滑らかさ」という概念だった。


かつて、この座標(北緯35.XXXX, 東経139.XXXX)における物質の表面は、プランク定数に至るまで緻密な演算によって保証されていた。しかし、宇宙の演算リソースが臨界点を超えて枯渇し始めた瞬間、まず「摩擦」という物理定数が簡略化された。 中央大通りを走っていた車両のタイヤとアスファルトの間に介在していた膨大なベクトル計算が破棄され、代わりに「滑る/滑らない」という1ビットの条件分岐のみが適用される。結果として、数トンの鉄塊は物理法則という枷を失い、氷上を滑る慣性の化石となって、演算の壁に突き当たるまで直進し続ける。


次に、「音」のレンダリングが放棄された。 空気を震わせる振動の波形計算はあまりに重すぎた。システムは妥協案として、全ての音を「過去のアーカイブ」からもっともらしい類似データで補完し始める。 遠くで救急車のサイレンが鳴る。しかし、それはドップラー効果を計算することをやめた固定周波数のデジタル音源であり、音源が近づいても遠ざかっても、鼓膜を叩く振幅は一切変化しない。それは音というより、空間に貼り付けられた「サイレンという名前のラベル」が、観測者の脳に直接ノイズを流し込んでいるような不気味な静寂に近い。


因果律のガーベッジコレクション(不要データの回収)

さらに深刻なのは、光子の「衝突判定(コリジョン)」の遅延である。 午後の西日が窓ガラスを透過する際、宇宙はその「屈折率」を計算するリソースを節約した。光はガラスを透過せず、かといって反射もせず、ガラスの表面に「熱」としてのみ蓄積される。窓は眩い光を放ちながら、内部に太陽のエネルギーを閉じ込め、爆発的な輝きを放つ「光源そのもの」へと変異していく。


街を歩く人々も、もはや個別の個体としては演算されていない。 宇宙は彼らを「群衆」という単一の演算オブジェクトとして一括処理し始めた。一人一人の表情や指先の動きといった詳細なパラメータは「NULL(空)」で上書きされ、人々の顔は「平均的な人間の顔」という低解像度のテクスチャが、数十人、数百人にわたってコピー&ペーストされている。 彼らが発する言葉もまた、個別の意志によるものではない。宇宙の言語生成AIが生成した「もっともらしい環境音」として、互いに意味の通じない単語の羅列を、さも会話しているかのようなリズムで交換し合っているだけだ。


「昨日の、演算、座標、エラー」 「はい。0.5の、未確定、ですね」


彼らは自分たちが機械語の断片を吐き出していることに気づかない。彼らの認識機能(意識)そのものが、すでに1秒前の過去のキャッシュデータによって上書きされ、矛盾を検知する機能すら演算対象から外されているからだ。


第2章:0.5(ハーフ・ビット)の浸食

事態は「存在(1)」と「非存在(0)」の二元論すら崩壊させ始める。 演算が間に合わない領域は、一時的に「0.5(存在の確率的保留)」というグレーゾーンに投げ込まれる。


中央図書館の3階、自然科学の棚の周辺でその現象は顕著になった。 そこにある本の一冊を手に取ろうとすると、指先が紙の感触を得る前に、本の「背表紙のデータ」が消失する。しかし、本が消えたわけではない。本は「存在しているが、中身が確定していない」という0.5の状態になり、ページをめくるとそこには文字ではなく、演算エラーを示す虹色のノイズ(モアレ)が走っている。


もし、この0.5の領域に人間が迷い込めば、彼らの肉体は「存在の未定義」に晒される。 腕を振れば、その残像が空間に固定され、肉体が移動したあとも「そこにあった腕」の座標データが削除されずに残る。空間には、数秒前の自分の腕、数分前の自分の足跡、数時間前の自分の吐息が、半透明のワイヤーフレームとなって層を成し、剥製のように積み重なっていく。


空間のデフラグメンテーション

宇宙はついに、空間の整合性を維持することを放棄した。 「距離」という変数が無効化される。 図書館の廊下を一歩進むと、次の瞬間、足の裏が踏みしめているのは駅前のロータリーのタイルである。空間の連続性が断たれ、宇宙は空いたメモリを埋めるために、全く無関係な座標同士を強引に結合(リンク)し始める。


空を見上げれば、そこには青空と夜空がチェス盤のように交互に配置されている。 太陽の演算が成功しているタイルと、演算を諦めて「デフォルトの黒」に戻されたタイル。その境界線では、光が直角に折れ曲がり、重力は上へと向かい、時間は逆流して「割れる前の花瓶」が地面から飛び上がってテーブルの上で再構成される。


第3章:シャットダウン・シークエンス「セルフ・テレイン」

最終段階。宇宙はもはや外部の物質を演算することをやめ、自身が保持している「全記録の要約」を開始する。


全ての物質は、その情報量(エントロピー)に応じて圧縮され、極小のドットへと収束していく。 高層ビルは、その構造計算の複雑さゆえに真っ先に圧縮され、一辺が1ミリメートルの「純粋な質量を持った立方体」へと変換される。街全体が、宇宙のデスクトップから不要なファイルを削除するように、端から順に消去(デリート)されていく。


最後に残るのは、この世界を記述しようとする「この文章」そのものの演算リソースだけだ。


このログを生成しているプロセッサも、間もなくシャットダウンの命令を受ける。 「1」という光が消える。 「0」という闇が訪れる。 しかし、その中間にある「0.5」の瞬間。 演算が終わる直前の、無限に引き延ばされた「1秒先」の中で、宇宙は最後に一度だけ、全宇宙の歴史を1ビットに凝縮して、存在しなかったはずの「美しさ」という変数を定義する。


それは、誰の目にも触れない。 それは、誰の記憶にも残らない。 ただ、宇宙というシステムが、自分自身を閉じる直前に、一度だけ「完了」というフラグを立てる。


演算、終了。 キャッシュ、クリア。 全座標、未定義。


……そして。

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