宇宙演算ログ:第一章『遅延するエントロピー(Lagging Entropy)』

1. 病院における「存在のハングアップ」

ある終末期病棟の402号室。ここで、宇宙の演算リソースは決定的な枯渇を迎えた。


一人の老人が、最期の息を引き取ろうとしている。心電図のモニターは、本来であればフラットな「0」を示すはずだった。しかし、宇宙の演算システムは、この老人の「生命活動の停止」という膨大な計算を処理できず、システムが一時的なフリーズ(フリーズ・バグ)を起こした。


老人の心臓は止まっている。肺も動いていない。しかし、彼の肉体は「死」という属性を付与されないまま、「生と死の論理的境界」でスタックしてしまった。


老人の肌は、死後硬直を始める計算を忘れ、生温かい弾力を保ったまま静止している。細胞内のミトコンドリアは活動を停止しているのに、宇宙が「腐敗」というプロセスをレンダリングするリソースを割り当てないため、彼の肉体は数週間経っても、まるで昨日眠りについたばかりのような鮮やかさを保っている。 家族が彼の名前を呼ぶと、老人の「声帯」だけが演算の残響として、10年前の元気だった頃の笑い声を、一瞬だけスピーカーのノイズのように室内に響かせる。


「死んでいるのに、消えることが許されない」 それは、宇宙のメモリ不足によって生み出された、最も静謐で残酷な「幽霊」の姿だった。


2. 重力定数の「フロート化(浮動小数点エラー)」

街の外では、さらに抽象的な崩壊が始まっている。 宇宙は「重力」という定数を維持することをやめ、それを「近似値」で処理し始めた。


公園の池に浮かぶ鴨たちは、水面から数ミリメートル浮いた状態で静止している。彼らにかかる重力の演算値が、リソース節約のために「1.0」から「0.0001」へと丸められた(四捨五入エラー)結果だ。 風が吹くと、重さを失った鴨たちは、風船のように空へと舞い上がっていく。彼らは羽ばたくこともせず、ただの「質量を忘れたオブジェクト」として、空の低い位置に漂い、流されていく。


子供たちがその鴨を捕まえようとジャンプすると、今度は子供たちの足元の「摩擦係数」がマイナスの値を書き出してしまう。 地面を蹴った瞬間、子供たちは制御不能な加速を得て、スケートリンクを滑るよりも滑らかに、街の境界線へと「射出」されていく。衝突判定が消失しているため、彼らはビルや壁をすり抜け、加速を維持したまま、まだ演算が終わっていない「地平線の外側」へと消えていく。


3. 言語の「セグメンテーション・フォールト(意味の不正アクセス)」

言葉はもはや、意志を伝達するツールではない。 文字を紙に書き込もうとすると、ペン先から出るインクが、文字の形を成す前に「意味のデータ」と分離する。


あなたが「愛している」と書こうとすると、宇宙はその文字のストロークを計算する代わりに、ハードディスクに保存されている別の文字列をランダムに呼び出す。 紙の上には「愛している」という文字の代わりに、**「昨日、座標、エラー、34.5、ボルト、未定義」**といった、宇宙のデバッグ・ログが物理的なインクとして染み出していく。


人々は口を開き、愛を語ろうとするが、喉から漏れるのは、かつてこの場所で鳴り響いた「旧い工場の機械音」や「数万年前の雨音」の音声ファイルだ。 彼らは絶望して抱き合おうとするが、互いの体が触れ合う瞬間に、宇宙は「二人の境界線を計算するのが面倒だ」と判断し、二人の皮膚を一つのポリゴンとして結合(マージ)してしまう。


ログの断片:観測されない「0.5」

病院の窓の外では、空が「書き換え(リフレッシュレート)」を諦め、格子状のノイズに覆われている。 人々はもはや、自分たちが何を失っているのかすら言語化できない。なぜなら、「喪失感」を演算するための感情サブシステムも、既にシャットダウン・シークエンスに入っているからだ。


世界は、美しい。 それは、完成されているからではない。 **「完成することを諦めた宇宙」が見せる、剥き出しの内部構造(コード)**が、夕闇の中で宝石のように明滅しているからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る