1話 とある水夫の話
フィアは、確かに自分が助かるにはエルレに恐怖心を抱かせる他に道はない、と覚悟を決め、ゆっくりと口を開いた。
***
それは、とある水夫のお話。
その男はとある商船において櫂を漕ぎ、船をできる限り早く進めることを役割とする、水夫達のリーダーであった。
彼は長く水夫をやっており、その胸にはいつも、人魚の鱗を入れた小さな袋を下げていた。海で仕事をするためのお守りである。
しかしながら、船には帆がある。風の方向の都合でどうしてもうまく進むことができない時にしか彼は櫂を持つ必要がなかった。そのため、彼は普段、倉庫番や甲板掃除をして過ごすことが多かった。
しかし、その日は珍しい現象が起きていた。
船が出航してから3日。計画通りに行けば、あと2日進み続ければ次の港に辿り着く。そんな海原の只中で、その船は完全に停止した。
空は晴れ渡り、海は凪いでいる。そして、どの方角にも風が吹いていない。海の上にありながら、甲板はなんの音もない完全な静寂に包まれていた。
海に何か異常が起きている。それは確かだが、船が進まないことにはその異常から脱することはできない。
***
「『さあ俺たちの出番だ! 漕ぐぞぉてめえらぁ!』」
「ん゛っ」
フィアは、怪談を語るにあたって台詞も効果音も全て声に出している。その度にエルレに深刻なダメージが入っているのだが、語るのに夢中なフィアは気づかない。
「水夫は、9人の仲間と共にそれぞれ船の脇に伸びる長い櫂を持ち、掛け声を上げながら息を合わせて船を漕いだ」
怪談のナレーション部分は淡々と語られる。この鈴のような声がエルレの心をかき乱すが、これにもフィアは気づかない。
「しかし、船は進まない。櫂は確かに水を捉えている。それなのに、船は進まない。これでは船が、着港予定日より遅れてしまう」
エルレは元々、態度だけは敬虔なシスターであった。今はただ、その愛おしい声に耳を傾ける事に徹するのだった。
***
もしも遅れれば、櫂を持つ水夫達は減給である。本当にサボっていてそうなってしまうなら仕方がないと諦めもつくが、必死に漕いでいるのに減給処分とあっては面白くない。
水夫達はその原因を突き止めるため、船底に何かがあるとみて調査に乗り出すことにした。
方法は非常にシンプル。水夫の1人が体に紐をくくりつけ、海に飛び込んで船底を確認。1人で取り除ける障害であればそのまま取り除き、人数が必要なら応援を要請する。それだけだ。
1番若い水夫に紐をくくりつける。決して外れないように、肩、脇、腰、股に通した。腰から2本の紐を伸ばし、船の上から別の水夫達で支え、合図があれば引っ張り上げる予定だ。
「いいか、何かあったらすぐにその紐を引っ張れよ?」
男がそう言うと、若い水夫は少し緊張した面持ちで頷き、海へと飛び込んだ。
そして、飛び込んですぐ──本当にすぐだ。数秒と経たないうちに紐を引っ張られる感覚があった。それどころか、若い水夫は自らの力でロープを手繰り、まるで何かから逃げるように船に上がってくるではないか。
真っ青になった若い水夫は、甲板に上がるなり、真っ青な顔でこう叫んだ。
「大変だ! この船の中に生者がいる! そいつを殺さない限り、俺たちはこの海域から出られない!」
最初、水夫の男はそれを、タチの悪い冗談だと思ったのだ。
「おい何言ってやがる──」
──それじゃあまるで、俺たち全員死んでいるみたいじゃないか。
そう笑い飛ばそうとした。若い水夫は普段から真面目で、酒の席でも冗談の一つも言おうとしない。そんな奴が、タイミングはともかくとして、冗談を言ったのなら、年長者としてそれを笑ってやろうと。そう思った。
しかし、それよりも早く水夫達がざわつき、その騒ぎは水夫だけでなく他の船員達にも伝播した。
「生者がいるだと!?」「ずるいずるいずるい……っ!」「道連れにしろおぉぉ!」
口々に叫ぶ船員達。船内は異様な雰囲気になっていた。
「お、おい、これはどういうことだ!?」
水夫は、尚も「生者がいるぞ」と叫び続ける若い水夫の肩を掴み、その顔を覗き込んだ。
「ひっ──」
若い水夫の肩は、そこに骨があると思えないブヨブヨとした感触で、そしてヌメりと滑った──否、そのブヨブヨとした皮膚が、触れた瞬間に肩から引き剥がれたのだ。
ゆっくりと振り返った若い水夫は。顔全体がそのブヨブヨとした皮で覆われ、目が片方落ちていた。
「……お、お前……っ!」
声が上ずる。思わず腰が抜けそうになる体に力を入れ、他の船員を見る。
部下の水夫達、料理番、雇い主の商人、全員が、同じような顔で水夫を見ていた。酷いものは身体の半分がなくなり、甲板を這いずっている者までいる。
水夫は、この状態の人間を見たことがある。水死体である。船に乗る人員は、自分以外の全員が水死体のようだった。
「いたぞ! 殺せぇ!」
誰が叫んだかは分からない。だが、その声を皮切りに全ての船員が水夫に襲いかかった。ある者はサーベルで武装して。ある者は腕から飛び出た骨を振りかざして。
何がどうなったかは分からないまま、水夫は最初に襲いかかってきた若い水夫を突き飛ばした。
しかし、船に逃げる場所はない。既にほとんどの船員が甲板に出てきており、水夫は完全に包囲されている。
その時、突き飛ばした若い水夫の身体に巻きついたままの紐を見た水夫は疑問に思ったことがあった。
──なんでこいつは、船底を見て生者がいると言ったのだろう。
水夫は、考えるよりも先に海に飛び込んだ。
***
「見ると、船は光り輝く一本の鎖に海底から繋がれ、進めなくなっていた」
ああ、怖い怖い……なんて恐ろしい。
「その時、水流に流されてその鎖を掴めずにいた水夫の手を取る存在がいた。それは1人の人魚だった」
その小さな口から紡がれる声は、罪の果実よりもさらに甘美な甘い旋律。
「水夫は人魚に手を引かれ、鎖を掴む事ができたのだった」
決して身を委ねてはいけない堕落の音色。
「その瞬間、鎖がピカー! っと光って」
「可゛愛゛い゛!」
ああ、私とした事が天使様のお声を遮ってしまった!
「……?」
「気にしないで続けて。きっともう少しでしょ?」
***
水夫は、気が付いたら港町のベッドに眠っていた。
水夫が乗っていた船が別の船と衝突する事故に遭い、沈んでしまったのだ。
この時、甲板で荷物運びをしていたこの水夫だけは、偶然その荷物と共に海に投げ出され、荷物の上に身体が乗り上がった。そのまま荷物と共に流され、偶然近くを通りかかった他の船に救助されたという。
救助されたのはこの水夫だけであり、他は皆衝突時に海に投げ出され、そのまま海に沈んだと見られている。
立ち上がった水夫の胸から、お守りとして付けていた袋が落ちた。
あの時、きっと人魚が守ってくれたのだろうと考え、水夫は人魚の鱗を新しい袋に入れ、今も大切に持っている。
***
語り終えるころ、フィアからは恐怖の感情はほとんど消えていた。一緒の空間にいるうちに、気が紛れたのだろう。
結界を張るだけで、実際に危害を加えられていないという事実もあり、フィアの様子は見た目通りの幼い無邪気なものになっていた。
「どう? 怖かった?」
怪談を語り終えると、エルレは満面の笑みをその顔に讃えていた。とても怖がっているようには見えない。しかし──。
「ええ、それはもうすごく怖かった。今夜1人で眠れないかも」
エルレがそう言うと、フィアは、人間1人から得られるとは思えない魔力が貯まるのを感じた。
「わ、凄い……!」
──今までにない力が溢れる今なら、この結界を突破できるかもしれない。
そう考えたフィアだったが、その考えはいとも容易く打ち砕かれた。身体に魔力を纏い、結界が張られた扉に体当たりをしたが、結界はびくともしなかったのだ。
「ダメじゃない。そんなことで魔力を使わないで。消滅してしまうわよ?」
「あうー……」
エルレは、またもや床に落ちたフィアを抱き上げ、ベッドに戻す。巣から落ちてしまった雛鳥を戻すように優しく。
「さ、次の話を聞かせて?」
その瞳に宿る情愛の炎が自分に向いている事を、幼いフィアはまだ気付くことはない。
そして、また語り始めるのだ。信仰すべき主神フォビア様の元に戻るために。
「次の話はね──」
あくまでエルレの自己満足 鳩のまーりぃ @minuteparticle
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。あくまでエルレの自己満足の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます