……次の回



映画館のドアを出た瞬間、さっきまでの暗さが一気に嘘になる。


公開されたばかりのホラー映画は、意外と人気らしく、満席に近かった。


内容も悪くなかった。

俺は好みだったけれど、もしかしたら女性ってこういうの苦手だったかもしれない。


「真白……大丈夫?」


感想を聞こうとして、やめた。

隣を歩く彼女の顔色が、あまり良くない気がする。


「大丈夫!……メイク、直してくるね」


「うん。ゆっくりでいいよ」


そう答えたけれど、彼女の背中はもう人の流れに紛れていた。


映画館のフロアは明るすぎて、さっきまで見ていた映像の輪郭が、急に頼りなくなる。


ポスターの前で足を止める。

血糊の赤がやけに作り物っぽい。


——こんな色、さっきまで信じてたのにな。


腕時計を見る。

まだ五分も経っていない。



「それ、次の回のほうが感動したかも」


低い声だった。


振り返ると、黒いコートの男がポスターを見上げている。

フードは被っていないのに、顔がよく見えない。


「……え?」


聞き返したときには、男はもう見当たらなかった。



追いかけようとして、やめた。


理由は分からない。

ただ、追いかけたら、今いる場所に戻れなくなる気がした。



「それ、次の回のほうが感動したかも」


その声が、頭の奥で何度も再生される。


感動。何に対して。

誰が。

どうして、次の回。


映画は一本しか観ていない。

同じ席で、同じスクリーンを見ていたはずだ。


なのに、まるで俺だけ、

途中で別の選択肢を踏み外したみたいだった。



——次の回。


時間の話じゃない。

そんな気がした。


腕時計を見て、意味もなく確認する。

針は、ちゃんと進んでいる。

遅れてもいないし、巻き戻ってもいない。


……考えすぎだ。


そう結論づけた瞬間、さっきより強い照明が、

映画館のフロアを現実に引き戻した。



「お待たせ!」


振り返ると、真白がいつも通りの顔で立っていた。

少しだけ、目元が赤い。


「映画、どうだった?」


——どうだった?


喉が、一瞬詰まる。


「……うん、面白かったよ」


嘘ではない。

でも、正解でもない気がした。


「びっくりするところ多かったよね」

「そうだね」


会話は続いている。

ちゃんと噛み合っている。

それなのに、さっきから俺だけ、ワンテンポ遅れている感覚が抜けない。



「でもさ」


真白が、ポスターのほうをちらっと見た。


「次の回のほうが、感動したかもね」


一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


「……え?」


聞き返す前に、彼女はもう歩き出している。


「冗談だよ。なんとなく言ってみただけ」


なんとなく。

その言葉が、さっき聞いた声と、ぴったり重なった。



歩き出して数歩。


ふと、

視界の端に“人の形”が引っかかった。


——いや、正確には、

人が立っていそうな“余白”だけがあった。


反射的に、そちらを見る。


ポスターと自販機のあいだ。

通路の邪魔にならない位置。

誰も立っていないはずの場所に、


——いた。


黒いコート。

フードを被ったまま。

顔は、こちらを向いていない。


昨日のコンビニの男と、同じ輪郭だった。


心臓が、一拍遅れて跳ねる。



「……碧?」


真白の声で、現実に引き戻される。


「どうしたの?」

「いや……」


言いかけて、やめた。


説明できない。

説明する言葉を持っていない。


もう一度、同じ場所を見る。


そこには、自販機とポスターしかなかった。



「ほんとに大丈夫?」

「うん。ちょっとぼーっとしただけ」


嘘じゃない。

でも、さっき“見た”感覚だけが、まだ視界の奥に残っている。



歩き出すと、また、視界の端に影が差した。


今度は、すぐ後ろ。


振り返る前に、低い声が、耳元に落ちてきた。


「……その反応は、違う」


声は、怒っていなかった。

呆れてもいなかった。

ただ、事実を読み上げるみたいだった。



足が止まる。


「……誰だよ」


小さく呟いた声に、返事はない。


代わりに、少し離れた場所から、声がした。



「ねえ、碧。

このあと、どこ行く?」


真白は、何も知らない顔で笑っている。


彼女の隣に立っている“現在”と、背後に立っている“何か”が、同時に存在している。


その事実だけが、やけにくっきりしていた。



「……もういいって」


思ったより、はっきり声に出ていた。


背後の“気配”に向けた言葉だった。

真白じゃない。

でも、誰に向けたのか説明するつもりもなかった。



「え?」


真白が、きょとんとした顔でこちらを見る。


「なにが?」

「いや……独り言」


それ以上、何も言わなかった。

言えば、壊れる気がした。

言わなくても、壊れるかもしれないけど。



さっきまであった気配は、もう、どこにもなかった。


振り返らなくても分かる。

いなくなったわけじゃない。

——無視されたんだ。



「ねえ」


真白が、少しだけ声を落とす。


「今日さ、無理してない?」


足が止まる。


「してないよ」

「……そっか」


納得してない返事。

でも、それ以上は踏み込んでこない。



俺は、振り返らなかった。


背後に立っていた“未来”にも、隣にいる“現在”にも。


ただ、この場をやり過ごすことを選んだ。



その選択が、いちばんよくないやつだと薄々分かっていながら。



結局、そのまま駅まで歩いた。


特別な会話はなかった。

映画の感想も、次に観たい作品の話も、当たり障りのない言葉だけが続いた。


手は、つながなかった。



改札の前で、真白が立ち止まる。


「じゃあ、またね」


「うん。また」


いつも通りの距離。

いつも通りの声。



真白の背中が、人混みに溶けていく。


見送ったあと、なぜか胸の奥が、少しだけ冷えた。



さっきまで感じていた“気配”は、最後まで、何も言わなかった。


追いかけてこない。

怒りもしない。

忠告もしない。



——それが、いちばん不安だった。



俺は、振り返らないまま、駅の出口に向かって歩き出す。


何も起きなかった。


それなのに、何かだけが、確実にずれてしまった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未選択(アンセレクト) 白峰 @shiramine00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ