第2話 偽りの静寂、名もなき銀の旋律
昨夜の雨が嘘のように、翌朝の新宿は抜けるような青空に恵まれた。
校門をくぐると、湿った土の匂いと、登校する生徒たちの騒がしい声が混ざり合い、春特有のけだるい熱気となって肌を包む。
如月遥は、自身の左手のひらを見つめながら歩いていた。
薄い絆創膏の下には、昨夜の異界で負った擦り傷が隠れている。指先でそっと触れると、鈍い痛みが神経を伝わって脳を刺激した。
その痛みだけが、あの銀色のドレスを纏った少女と、闇を裂く水晶の大鎌が現実であったことを証明してくれている。
あの日、彼女は何も言わずに消えた。
絶望的な暴力から遥を救い出し、キラキラと輝く光の粒子を置き去りにして、夜の帳の向こうへ。名前も、正体も、何も分からないまま。
「……おはよう、遥。今日も朝からボーッとしてるね」
後ろから声をかけられ、遥は肩を震わせた。友人の陽葵(ひまり)が、ニヤニヤしながら隣に並ぶ。
「おはよう、陽葵。……ちょっと、寝不足なだけだよ」
「ふーん? まあ、遥のことだから、また夜中に変な事件にでも巻き込まれてたんじゃないの? 幽霊に追いかけられたとかさ」
「……そんなんじゃないよ。ただ、ちょっとね」
冗談めかして笑う陽葵の言葉に、遥は曖昧な笑みを返した。
話せるはずがなかった。自分が死の淵に立ち、そして魔法少女という、お伽話よりも残酷で美しい存在に救われたことなど。あの少女は、日常という薄皮一枚を隔てたすぐ裏側に存在しているのに、選ばれた者にしか見ることができない存在なのだ。
一限目の授業中、窓の外を眺めていても、遥の脳裏にはあの銀灰色の髪が焼き付いて離れなかった。
黒板を叩くチョークの乾いた音も、先生の抑揚のない声も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられる。
(あの人は、どこにいるんだろう。……また、会えるのかな)
その時だった。
中庭の向こう、渡り廊下を一人の生徒が歩いていくのが見えた。
息が止まった。
銀灰色の、美しい髪。
指定の紺色のブレザーを、まるで喪服であるかのように静かに纏った少女。
「……あ」
声にならない吐息が漏れる。
同じ制服。同じ学校。
あんなに遠い存在だと思っていた「彼女」が、自分と同じ校舎の中にいる。その事実に、心臓が痛いほどの速さで脈打ち始めた。
昼休み。
遥は、吸い寄せられるように旧校舎の図書室へと向かった。
静寂が支配する古い木材の匂いが漂う空間。生徒たちの姿はまばらで、窓から差し込む午後の陽光には、無数の塵が宝石の粉のようにキラキラと舞っている。
一番奥の、光が届きにくい閲覧席。
そこに、彼女はいた。
少女は厚手の洋書を広げ、一点を見つめるように視線を落としていた。
昨夜の凛々しい魔法少女の姿とは違う、儚げな一人の生徒としての横顔。
だが、その周囲に漂う空気は、やはり他の生徒たちとは決定的に異なっていた。彼女の周りだけが、時間の流れが止まっているような、あるいは真空の層に包まれているような、近寄りがたい断絶。
遥は震える手で、売店で買ったばかりの紅茶のペットボトルを握りしめた。
一歩、足を踏み出す。
床がわずかに軋む音が、静かな図書室に大きく響いた気がした。
少女が、ゆっくりと顔を上げた。
昨夜の戦闘時に見た、あの燃えるような真紅ではない。深く、底の見えない濃紫色(ディープパープル)の瞳が、真っ直ぐに遥を射抜く。
「……何か用?」
少女の声は、低く、そして澄んでいた。
怒っているわけではない。ただ、不純物を拒む冷たい水のような響き。
「あ、あの……! 昨日、助けていただいた者です。お礼が言いたくて」
遥は深々と頭を下げた。心臓の音がうるさすぎて、自分の声がちゃんと届いているか不安になる。
少女は数秒間、無表情に遥を見つめていた。まるで、昨夜の出来事など記憶の隅にもないかのような冷淡さ。
「……人違いじゃないかしら。私はあなたのことなんて知らないわ」
「そんなはずありません! あの銀色の髪、それに……あの時の、すごく綺麗だった……」
遥が必死に食い下がると、少女はわずかに眉を寄せた。
彼女はため息をつき、読んでいた本を静かに閉じる。その表紙には、古めかしいラテン語のタイトルが刻まれていた。
「……だとしたら、なおさら話すことはないわ。あんなものは、忘れるのが一番の幸せよ。普通の女の子らしく、恋バナでもして放課後を過ごしていればいい」
「忘れられません。あんなに……あんなに必死に戦っていたあなたを、なかったことになんてできません」
遥の言葉に、少女の瞳に微かな動揺が走った。
彼女は椅子から立ち上がり、遥との距離を詰める。
少女から漂う、冷たい雪と、かすかな鉄の匂い。昨夜、結界の中で感じたあの香りが、遥の鼻腔をくすぐる。
「……助けた覚えはないわ。私はただ、あそこにいた『ゴミ』を掃除しただけ」
「それでも、私は生きてます。あなたの……おかげで」
遥は真っ直ぐに彼女を見つめた。
少女は唇を噛み、拒絶するように視線を逸らす。
「……勝手にしなさい。お礼なんていらない。名前を知る必要もない。……私たちは、ただの灰被り(シンデレラ)なんだから」
彼女が遥の横を通り過ぎようとしたその時、遥は反射的に彼女のブレザーの袖を掴んだ。
「……待ってください!」
少女の足が止まる。
遥は自分の無礼に気づき、慌てて手を離したが、言葉は止められなかった。
「せめて……名前だけでも。私は如月遥と言います。あなたの名前を、呼ばせてください」
静寂が図書室を支配する。
窓の外から聞こえる運動部の掛け声が、遠く別の世界の音のように聞こえる。
長い沈黙の後。
少女は、諦めたように小さく息を漏らした。
「……星神。星神、雫」
その名は、夜空に煌めく星の一片が、静かに水面に落ちるような響きを持っていた。
「星神、さん……。雫さん」
遥がその名を反芻すると、雫は苦虫を噛み潰したような顔をして、遥を睨んだ。
「一度しか言わないわよ。……今夜、九時。新宿中央公園の噴水前。……どうしても昨日のことが忘れられないなら、来ればいい。ただし、死にたくなければ、来ないことね」
雫はそれだけ言い残すと、流れるような足取りで図書室を去っていった。
一人残された遥は、自分の胸を押さえた。
心臓が、衣類越しに手のひらを突き破らんばかりに動いている。
彼女の名前を手に入れた。
ただそれだけのことが、遥の世界を劇的に塗り替えていく。
(星神、雫。……雫さん)
窓から差し込む光が、先ほどよりもずっと眩しく、そしてどこか物足りなく感じられた。
遥にとって、もはやこの平和な日常は、彼女という「真実」に出会うための長い待ち時間でしかなかった。
新宿中央公園、午後九時。
本当の物語は、夜の帳と共に、再び幕を開ける。
(つづく)
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