灰被りのワルツ

堕落しきっただいてんし(笑)クゥーウェル

第1話 銀の翼が舞い降りる街

​ 新宿の街は、今日も宝石箱をひっくり返したような輝きに満ちていた。

 午後六時。アルタ前の大型ビジョンからは、耳当たりのいいポップソングが弾けるように流れ、行き交う人々はそのリズムに乗るように軽快な足取りで家路を急いでいる。焼き立てのクレープの甘い匂い、デパートの一階から漂う高級な香水の残り香、そして誰かの笑い声。

​「……あ、また」

​ 如月遥(きさらぎ・はるか)は、自分の足元を見て小さくため息をついた。

 お気に入りのローファーの紐が、また解けている。今日だけで三度目だ。

 彼女は街路樹の植え込みの縁に足をかけ、不器用な手付きで紐を結び直す。遥という少女は、そういう性質(タチ)だった。どれほど注意していても、なぜか彼女の周りだけ、世界の歯車が少しだけ空転する。

​ 信号待ちをすれば、目の前で赤に変わる。

 入ったばかりのカフェでは、隣の客がコーヒーをこぼす。

 自分は決して特別な人間ではない。どこにでもいる、少しだけ「運」の悪いだけの女子高生。けれどその「運の悪さ」は、時として日常の境界線を曖昧にする。

​「……今日は、あそこのケーキを買って帰るって決めてたんだから」

​ 自分を励ますように呟き、彼女は雑踏の中へ一歩を踏み出した。

 新宿駅東口、迷路のように入り組んだ路地裏。近道だと思って踏み込んだその場所は、普段なら賑やかな居酒屋の客引きが声を張り上げているはずの通りだった。

​ だが。

 ふと気づくと、周囲から音が消えていた。

 

 さっきまで聞こえていたビジョンの音楽も、車の走行音も、人々の喧騒も。まるですべてを厚いフェルトで覆ったような、奇妙な静寂が辺りを支配している。

 空を見上げると、夕焼けの茜色は不自然なほど濃い紫色に変質し、街灯の光が水面に落ちた油膜のように虹色に歪んでいた。

​「……え? 嘘……ここ、どこ?」

​ 遥の喉の奥が、乾いた音を立てる。

 目の前の風景は新宿そのものなのに、何かが決定的に違っていた。

 建物の影が、意志を持つ生き物のように長く伸び、地面を這いずっている。路地の奥から、何かがこちらをじっと見つめているような、背筋に氷を押し当てられたような悪寒。

​ ガサリ、と音がした。

 ゴミ捨て場の影から現れたのは、影そのもののような姿をした「獣」だった。

 それは漆黒の毛並みを持ち、体中に青白く光る文様を刻んでいる。狼のようでありながら、その背中からは植物の蔦のような触手が何本も生え、先端には宝石のような赤い実が実っていた。

​「……っ!」

​ 遥は声にならない叫びを上げ、後ずさりした。

 だが、獣は一匹ではなかった。

 左右のビルの壁、さらには電柱の影からも、同じような「影の獣」が音もなく這い出してくる。その瞳は濁った金色の光を放ち、遥という獲物を確実に包囲していく。

​ 死。

 その実感が、突如として現実味を帯びて迫ってくる。

 逃げようとした足が、縺れてコンクリートに叩きつけられた。手のひらを擦りむき、熱い痛みが走る。

 獣の一匹が、低く唸り声を上げた。その裂けた口からは、透明な唾液が滴り、地面を焦がすような音を立てる。

​ 獣が跳躍した。

 遥は反射的に目を閉じた。

​ その瞬間。

 

 ――キン、と。

 世界のすべてを凍てつかせるような、清冽な鈴の音が響いた。

​「『凍土の庭園(アイス・ガーデン)』、展開」

​ 凛とした声と共に、凄まじい冷気が吹き荒れた。

 遥が恐る恐る目を開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。

 

 跳躍していたはずの獣が、空中で巨大な氷の結晶の中に閉じ込められていたのだ。

 そして、遥の目の前には、月明かりをその身に纏ったような「彼女」が立っていた。

​「……怪我はない? 一般人が迷い込むなんて、今日は結界の強度が甘いわね」

​ 少女は、ゆっくりと振り返った。

 その姿を見た瞬間、遥の心臓が、恐怖とは別の理由で大きく跳ねた。

​ 銀灰色の髪を、腰のあたりまで流れるように伸ばした少女。

 その装束は、幻想的なほどに美しかった。

 深い夜の色をしたシルクのドレスは、動くたびに微細な銀の粉を撒き散らしている。胸元には、精緻な銀細工で模られた「翼」のブローチが輝き、そこから垂れる透き通ったベールが、風もないのに水中のドレスのように優雅に揺らめいている。

 手足に纏った白いレースのグローブとブーツには、氷の結晶を思わせるブルーの宝石が埋め込まれ、彼女が歩くたびに、地面には小さな雪の華が咲き誇る。

​ 彼女は、右手で巨大な大鎌(サイス)を軽々と保持していた。

 刃は透明な水晶でできており、その内部では、星屑のような光が絶えず流動している。

​「あなたは……」

​ 遥は、掠れた声で呟いた。

 少女の瞳は、吸い込まれるような真紅だった。

 それは燃えるような色ではなく、凍てつく夜の中に一滴だけ落とされた、高貴な血の色。

 

「……魔法少女よ」

​ 少女――星神雫(ほしがみ・しずく)は、短くそう答えると、再び獣たちの群れに向き直った。

​ 影の獣たちが、仲間の無残な姿に憤るように一斉に咆哮した。

 蔦の触手が鞭のようにしなり、空気を切り裂く。

 

 だが、雫の動きはそれを遥かに上回る優雅さを持っていた。

 彼女が鎌を一閃させると、空間を凍てつかせる銀の光が扇状に広がる。

 

「『銀星の円舞(ステラ・ワルツ)』」

​ それは戦闘というよりも、完成された舞踏(ダンス)だった。

 雫の足運びは軽やかで、コンクリートを蹴る音さえ聞こえない。

 ドレスの裾が円を描き、散る銀粉が獣たちの視界を奪う。

 一太刀。

 水晶の刃が獣の喉元を撫でると、血が流れる代わりに、そこから一気に氷の花が咲き乱れる。獣は悲鳴を上げる間もなく、沈黙の石像へと変えられていった。

 

 別の獣が背後から襲いかかる。

 雫は見向きもせず、指先をわずかに動かした。

 彼女の背後に展開された魔法陣から、無数の氷の礫が射出される。

 礫は獣の四肢を正確に貫き、地面に縫い止めた。

 

「浄化(クリンス)」

​ 雫が静かに言葉を紡ぐと、大鎌の石突で地面を突いた。

 衝撃波が同心円状に広がり、氷漬けになった獣たちは、まるで硝子細工が砕けるように美しく、そして呆気なく散っていった。

 後に残ったのは、キラキラと輝く光の粒子だけだ。

​ 静寂が戻った。

 紫色の空がゆっくりと本来の夜の色を取り戻し、街の音が遠くから、少しずつ近づいてくる。

​ 雫は大きく一つ息を吐くと、手にしていた巨大な大鎌を光の粒子へと還した。

 彼女の全身を包んでいた幻想的なドレスもまた、淡い光と共に消え去り、そこには遥と同じような学校指定のコートを羽織った、一人の少女が立っていた。

​「……もう大丈夫。結界は解けたわ。今のうちに帰りなさい」

​ 雫の声は、戦っていた時よりもずっと低く、どこか疲れを滲ませていた。

 彼女は遥の方を見ようともせず、立ち去ろうとする。

​「あ、あの!」

​ 遥は、思わず叫んでいた。

 震える足に力を込め、立ち上がる。

 

 雫が足を止める。

 肩越しに振り返った彼女の瞳は、先ほどの真紅ではなく、どこか寂しげな濃紫色(ディープパープル)に戻っていた。

​「……助けてくれて、ありがとうございました。私、如月遥って言います。あなたは……」

​「……名乗るほどのものじゃないわ。私たちは、ただの灰被りなんだから」

​ 雫は、自嘲するように口角をわずかに上げた。

 街灯の光が、彼女の横顔を照らす。

 その瞳に宿る、圧倒的な孤独。

 

 あんなに美しく、あんなに強い力を持ちながら、彼女はどうしてあんなにも悲しそうな顔をしているのだろう。

 

 遥の胸の中で、小さな熱が灯った。

 それは、死の淵から救い出されたことへの感謝。

 そして、自分とは全く違う世界、誰も知らない孤独な場所で戦う彼女への、祈りにも似た強い憧憬。

​「また……会えますか?」

​ 雫は、その問いに答えなかった。

 ただ、夜風に銀灰色の髪をなびかせながら、雑踏の中へと消えていった。

​ 遥は、彼女が去った方向をいつまでも、いつまでも見つめていた。

 擦りむいた手のひらの痛みさえ、今は愛おしい。

 この傷は、あの日、彼女と同じ世界にいたことの唯一の証明だから。

​ 新宿駅東口、午後七時。

 遥は結局、買おうと思っていたケーキのことを忘れ、熱に浮かされたような足取りで家へと向かった。

 

 彼女はまだ知らない。

 自分の「運の悪さ」が、これから先、どれほど残酷に、そして深く、あの銀灰色の少女の運命を掻き乱していくことになるのかを。

​ そして、今この瞬間に胸に灯った純粋な「憧れ」が、時間をかけて熱を帯び、やがてすべてを焼き尽くすような、どろりとした執着へと変わっていくことを。

​ 物語の歯車は、たった今、噛み合ったばかりだ。

​(第1話 完 / 第2話へ続く)

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