第3話 鋼の檻、縹渺たる夜の華
午後八時四十五分。
新宿中央公園は、都庁の巨大な双塔が放つ無機質な光に照らされ、深い陰影を湛えていた。
昼間の喧騒はどこへやら、ジョギングをする者の足音や、ベンチで囁き合う恋人たちの気配も、この時間になると疎らだ。夜の冷気に湿ったコンクリートの匂いが鼻腔を突き、噴水から上がる水飛沫が、街灯の光を反射して砕けた硝子のように舞っている。
如月遥は、噴水の縁に腰を下ろし、自分の指先を見つめていた。
五分おきにスマートフォンの画面を点灯させては、時間の経過を確認する。心臓の鼓動が、薄いブラウスを押し上げるほどに激しく、喉の奥はひどく乾いていた。
「……本当に、来ちゃった」
恐怖がないわけではない。昨夜見た、あの悍ましい影の獣たちの姿を思い出せば、今すぐにでも逃げ出したいのが本能だろう。
けれど、それ以上に遥を突き動かしているのは、脳の奥を痺れさせるような「未知」への期待感だった。
星神雫。
彼女が生きている、あの残酷で、誰も知らない銀色の世界。その入り口に立っているという事実が、遥の平凡な日常に、劇毒のような刺激を与えていた。
「九時よ。……本当に来たのね」
背後から、冷ややかな声がした。
振り返ると、そこには昼間の制服姿のまま、ポケットに手を突っ込んだ雫が立っていた。
銀灰色の髪が夜風に揺れ、背後の街灯の逆光で、彼女の輪郭が青白く発光しているように見える。
「星神さん……」
「馬鹿ね。死にたいって言ってるようなものよ」
雫は呆れたように首を振ると、遥の隣を通り過ぎ、公園のさらに奥――木々が深く生い茂るエリアへと歩き出した。
「ついてきなさい。……離れたら、今度こそ守りきれないわよ」
遥は慌ててその後を追った。
街灯の光が届かない森の奥へ進むにつれ、周囲の空気がじっとりと重くなっていく。
不意に、雫が立ち止まった。
「来るわ」
彼女が呟いた瞬間、世界の色彩が反転した。
キィィィィィン、という、耳の奥を掻きむしるような高い音が響き渡る。
空は一瞬にして毒々しい深紫色に染まり、周囲の木々は黒い鉄の柵のような、歪な骨組みへと変貌していく。地面からは影が粘り気を持って立ち上がり、無数の「影の茨」が、公園の遊具やベンチを侵食していった。
これが、結界。
日常の皮を剥ぎ取った、世界の真実の姿。
「また地味な連中ね……。――『氷霜の刻印』、解放」
雫が静かに言葉を紡ぐ。
その瞬間、彼女の全身が眩い銀光に包まれた。
遥は思わず腕で顔を覆う。光の奔流の中で、雫の制服が粒子となって弾け、代わりにあの幻想的な戦装束が編み上げられていく。
細い首筋を飾る銀のチョーカー、そこから広がる透き通ったベール。夜を縫い合わせたような漆黒のドレスに、氷の結晶を模した無数のサファイアが散りばめられ、彼女の鼓動に合わせて静かに明滅している。
彼女が右手を天に差し伸べると、光の中から水晶の刃を持つ巨大な大鎌が具現化した。
「……綺麗」
遥の感嘆は、地を這うような唸り声によって遮られた。
影の中から這い出してきたのは、白い磁器のような頭部を持つ「人形」たちだった。
体は植物の蔓を編み込んだような影で構成されており、その背中からは、枯れた向日葵のような、どす黒い花が咲いている。
それらは数十体という群れを作り、カチカチと磁器の歯を鳴らしながら、雫と遥を包囲した。
「おいおい、お出ましだぜ。……おっ、今日は珍しい客人がいるじゃねえか」
頭上から、快活な、けれどどこか尖った声が降ってきた。
鉄柵のような木の上から、もう一人の少女が飛び降りてくる。
その少女の姿もまた、日常を置き去りにした「異質」そのものだった。
炎のような燃える赤髪をツインテールにし、装束は黄金色を基調とした、活動的なライダースーツのようなドレス。肩にはライオンの鬣を思わせる深紅のファーが飾られ、背中には巨大な円盤状の盾(バックラー)を背負っている。
「……燐(りん)。どうしてここに」
雫がわずかに声を険しくした。
燐と呼ばれた少女は、鼻を鳴らして笑う。
「どうして、じゃねえよ。この『影の庭』、昨日からずっと不安定だろ。雫一人じゃ手が足りないと思って来てやったんだよ」
燐の視線が、遥に向けられる。
「で、そのお嬢ちゃんは? 新入りか? ……魔法の気配がしねえけど」
「ただの迷い子よ。……すぐ帰すわ」
「ふーん。ま、いいや。掃除の時間だろ?」
燐が背中の盾を手に取ると、その盾の縁から太陽のフレアのような炎の刃が噴き出した。
「『獅子の咆哮(レオン・フレア)』、行くぜ!」
燐の攻撃は、雫の優雅さとは正反対の「暴力的な彩り」に満ちていた。
彼女が地を蹴ると、足元から爆炎が上がり、影の庭に赤い残像が刻まれる。
盾をブーメランのように投げ放つと、炎の円盤が磁器の人形たちの群れを縦横無尽に切り裂いていく。
人形たちが悲鳴を上げ、影の体から黒い煤を撒き散らす。煤は空中で花びらのように燃え、紫色の空を赤く染め上げた。
「……よそ見しないで」
雫の声と共に、冷気が空間を支配する。
雫は踊るように鎌を振るった。
水晶の刃が空気を切り裂くたび、絶対零度の冷気が衝撃波となって放たれる。
一体の人形が雫の背後に迫った瞬間、雫は一歩も動かずに左手で「印」を結んだ。
「凍れ」
人形の足元から一瞬にして巨大な氷の柱が突き出し、その肉体を天高く吊り上げる。
続けざまに雫が鎌を横薙ぎに一閃させると、氷柱ごと人形は粉々に砕け散り、キラキラとしたダイヤモンドダストとなって夜に消えた。
炎の赤と、氷の銀。
二人の魔法少女による、凄絶なまでに美しい共演。
だが、遥は見ていた。
激しい戦闘の最中、雫の額に滲む冷や汗を。
一撃を放つたびに、彼女の手首に刻まれた黒い蛇のような痣が、より深く、より不気味に色を増していくのを。
(星神さん、苦しんでる……?)
その時だった。
倒したはずの人形たちの残骸から、影の蔓が急激に伸び、結界の天井へと集まっていく。
蔓は巨大な「球体」を形成し、そこから幾百もの「目」が開き、遥を捉えた。
「ちっ、こいつら、群体かよ!」
燐が盾を戻し、防戦一方になる。
巨大な球体から、無数の影の針が雨のように降り注ぐ。
雫は遥を庇うように前に立ち、鎌を回転させて防御の障壁を展開したが、衝撃でその膝がわずかに折れた。
「……っ、遥、逃げなさい!」
「でも、星神さんが……!」
遥は必死に周囲を見渡した。自分に何ができる?
魔法はない。武器もない。
あるのは、この不吉なほどに「悪い」運勢だけだ。
ふと、遥の視界に、結界の端で震えている一つの「異変」が映った。
影の茨に絡め取られ、本来の姿を失いかけている公園の水道管だ。結界の侵食によって金属が歪み、内圧が限界まで高まっている。
遥の「運の悪さ」が囁く。あそこを今、少しでも刺激すれば――。
遥は、自分の足元に転がっていた、先ほど燐が砕いた磁器の頭部の欠片を拾い上げた。
「……当たって!」
渾身の力で、水道管の継ぎ目に向けて欠片を投じる。
本来なら当たるはずのない距離。だが、遥の「不運」は、最悪のタイミングで最悪の事態を引き起こす才能として開花した。
カキィン!
鋭い金属音が響き、歪んだ水道管が破裂した。
噴き出したのは、ただの水ではない。結界のエネルギーと混ざり合い、超高圧の「清められた水」の奔流だ。
激しい水の幕が、巨大な影の球体の直撃を打った。
影は「聖なる水」に触れた瞬間、硫酸をかけられたように激しく泡立ち、溶解していく。
「今よ、星神さん!」
遥の叫びに、雫が応えた。
彼女は痛みを押し殺し、全魔力を鎌の刃に集束させる。
「『星葬のレクイエム』……消えなさい」
銀色の閃光が結界を突き抜けた。
影の球体は一瞬で氷解し、その中心核となっていた「魔物の意思」が霧散していく。
世界が激しく揺れ、色彩が元の新宿へと戻っていく。
静寂。
壊れた水道管から水が漏れる音だけが、夜の公園に虚しく響いていた。
「……はあ、はあ……。おい、今の……あいつがやったのか?」
燐が息を切らしながら、遥を指差した。
雫は変身を解き、再び無機質なセーラー服姿に戻っていた。彼女は黙って遥に近づき、その肩を掴んだ。
「……余計なことを」
低い声。
だが、その手は微かに震えていた。
「死にかけたのよ。分かってるの?」
「……お礼、できてよかったです」
遥は、雫の手の上に、自分の手を重ねた。
冷たい。やはり、この人の手は氷のように冷たい。
雫は、弾かれたように手を離した。
「……もういいわ。勝手にしなさい」
雫は背を向け、暗闇の中へと歩き去る。
その後を追おうとした燐も、遥を一度複雑な目で見つめた後、屋根の上へと消えていった。
一人残された遥は、びしょ濡れになった自分の体を見つめ、小さく笑った。
魔法がなくても、彼女の隣にいられた。
彼女を助けることができた。
遥の胸の奥で、灯っていた「憧れ」の火が、青白い炎へと変化していく。
(星神さん……、あなたは一人でいい。私が、あなたのすべてを知る唯一の人間になればいい)
公園の片隅で、少女は独り言のように呟く。
その瞳には、夜の闇よりも深い、純粋で醜悪な「独占欲」が、密やかに、けれど力強く宿っていた。
(つづく)
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