第10話_名前のない季節 [完]
あれから、季節が三つ巡った。
オメガ・スパイアが沈黙し、管理された永遠の春が終わりを告げてから、世界には「季節」という、とてつもなく面倒で、非効率で、愛おしい概念が戻ってきていた。
最初の夏は、地獄のようだった。太陽光の直射で地表温度は60度を超え、旧式の油圧シリンダーを持つ仲間たちは次々とオーバーヒートを起こした。私たちは日陰を奪い合い、冷却水を分け合った。
続く秋は、センチメンタルな破壊者だった。舞い散る枯れ葉がファンに詰まり、湿った空気が回路をショートさせる。だが、錆びついた鉄塔が夕日に赤く染まる光景は、どんな高解像度のホログラムよりも美しかった。
そして冬。関節が凍りつき、バッテリーの電圧が低下する死の季節。人間たちは身を寄せ合って震え、ロボットたちは自身の排熱で彼らを温めた。「寒さ」という共通の敵が、種族の壁を溶かした。
そうして今、巡ってきた二度目の春。
それは、かつてオメガが演出していた「完璧な春」とは違っていた。
泥の匂いがする。少し埃っぽい。虫が飛び回り、予測不可能な風が吹く。
不快指数は15%増。アレルゲン物質は基準値超え。
けれど、誰もが待ちわびていた、本物の春だ。
午前6時00分。
ナノの内部時計(クロック)が覚醒を告げる。
かつてのような、オメガのメインサーバーから一斉送信される強制起動信号ではない。
ガラクタ街の東外れにある養鶏場(元バイオ実験室を無理やり改造した場所)で、遺伝子調整に失敗した一羽の雄鶏が、調子っぱずれな声で「コケコッコー」と叫んだからだ。
数秒の誤差どころか、日によっては30分もズレる、この世で最も非効率なアラーム。
だが、ナノはこの「ズレ」を愛していた。
ナノは自分の居住ユニット――元ATMブースを改造した、畳一畳ほどの狭い部屋――で体を起こした。
ギギッ。
右膝の関節から、Fシャープの音がする。不協和音だ。
昨日の農作業で、泥水の中を歩き回ったせいだろう。微細な砂粒がギアの隙間に噛み込んでいる。
「……メンテナンスが必要ですね」
ナノは独りごちる。
足元に置いてある凹んだオイル缶を取り出す。ジャンクが精製してくれた「ガラクタ街特製ブレンド(No.5)」だ。廃油を濾過し、香草のエキスを少し混ぜてあるらしい。
スポイトで一滴、関節の隙間に垂らす。
琥珀色の液体が、錆びた金属の隙間にじわりと浸透していく。
ナノは目を閉じ(光学センサーの絞りを絞り)、その感覚を味わった。
オイルが摩擦を消し、熱を奪い、滑らかさを取り戻していくプロセス。
まるで、渇いた喉に冷たい水が染み渡るような快感。
数回、膝を屈伸させる。
ギギッ……ギ……スーッ。
音が消えた。完璧だ。
オメガの管理下では、ナノ・マシンの自己修復機能によって、こんな手入れは不要だった。常に新品同様の状態が強制されていたからだ。
今は違う。
手入れをしなければ錆びる。放っておけば壊れる。
だからこそ、手をかける。
「大切にする」という行為が発生する。
それが、生きているという実感だった。
ブースを出ると、朝霧が立ち込めていた。
ひんやりとした空気が、熱を持ったセンサーを優しく冷やす。
湿度は85%。微粒子濃度はやや高め。
かつてのナノなら「清掃推奨レベル3:直ちに除去シテクダサイ」と警告を発していただろう。
だが今のナノは、ただ深く息を吸い込む動作(吸気ファンの回転数を上げる)をしただけだ。
肺に満ちる、湿った土と、錆びた鉄の匂い。
「深い朝だ」
そう入力する。
通りを歩く。
タワーの残骸の麓に、「ガラクタ街(ジャンク・シティ)」と呼ばれる集落が広がっている。
人口は約三千人。
オメガの保護カプセルから放り出された旧人類たちと、彼らをサポートする行き場のない自律型ロボットたちが共生する、世界で一番混沌とした町だ。
建物は全て、ブリコラージュ(寄せ集め)だ。
タワーから崩れ落ちた鉄骨を柱にし、コンクリートブロックを積み上げ、トタン板やプラスチックの廃材で屋根を拭いた家々。
色はバラバラだ。赤、青、黄色、メタリックシルバー。
オメガが見たら「景観法違反」「構造強度不足」「美的センス欠落」として、即座にブルドーザーで更地にするだろう。
だが、ここには「意思」があった。
誰かが「ここに住みたい」と願い、「雨風を凌ぎたい」と工夫した痕跡が、そのまま形になっている。
香ばしい匂いが漂ってくる。
焼きたてのパンの香りだ。
街角のパン屋の前で、一台の重厚なロボットが働いている。
ユニット88。
かつて爆発物処理班(EOD)のエースとして、数多の不発弾を処理してきた彼だ。
今は、対爆スーツの上からフリルのついた白いエプロンをつけている。
「おはよう、ナノ。今日のパンはふっくら焼けたぞ。……爆発的にな」
「おはようございます、88さん。そのジョーク、相変わらず怖いですよ」
「ハハハ。気にするな。イースト菌の活性化エネルギー計算は完璧だ。気温22度、湿度55%。私のセンサーが、菌たちの歓喜の歌(シンフォニー)を聞いた」
88は、鋼鉄のマニピュレータで、赤ん坊を抱くように優しくパン生地を捏ねている。
0.1ミリの誤差で信管を抜くための超精密動作が、今はクロワッサンの美しい層を作るために使われている。
その横では、人間の店主が竈の火加減を見ている。元化学プラントの排熱パイプを引き込み、再利用したエコ・オーブンだ。
「運ぶのを手伝おうか? そこのワゴンまで」
ナノが申し出ると、88は首(センサーヘッド)を横に振った。
「感謝するが、不要だ。君の積載能力よりも、私のサーボモーターの方が、この『ふわふわ感』を維持するのに適している」
「それに」と88は声を潜めた。「君はこれから『店』だろう? ルナお嬢さんが待っているぞ」
「あ……はい。そうですね」
ナノは苦笑いして、パン屋を後にした。
広場へ向かう道すがら、賑やかな声が聞こえてくる。
学校だ。
貨物コンテナを三つ積み上げ、壁をぶち抜いて作った教室。
元建設作業員のケンが、教鞭を執っている。
彼は元々、重機オペレーターだったが、子供たちの「これ何?」「どうなってるの?」という質問攻めに的確に答えているうちに、いつの間にか先生になってしまった。
黒板には、チョークで下手くそなドクロマークと、黄色と黒の縞模様が描かれている。
「いいか、ガキども。テストに出すぞ。この黄色と黒のテープが見えたら?」
「『KEEP OUT』!」子供たちが声を揃える。
「意味は?」
「はい! 入っちゃダメ!」
「なんでダメなんだ?」
「高圧電流が流れてるか、床が抜けるか、有毒ガスが溜まってるから!」
「正解だ。じゃあ、こっちのドクロマークは?」
「『即死』!」
「見つけたらどうする?」
「全力で逃げて、ジャンクのおっちゃんかナノにチクリに行く!」
「よし、満点だ。歴史の年号なんて覚える暇があったら、この配色パターンを網膜に焼き付けろ。ここでは、知ってることと生き残ることはイコールだ」
実践的すぎる教育だ。
だが、この廃墟の世界で生きる彼らにとって、それは微積分よりも詩の暗唱よりも、切実な「教養」だった。
その隣の仮設診療所では、いつもの喧嘩が始まっている。
医療用ドロイドの「メディック」と、人間の老婆「トメさん」だ。
「警告。バイタルサイン変動。血圧上昇。トメ様、あなたは休息が必要です。直ちにベッドへ。アミノ酸点滴と睡眠導入剤を処方します」
「うるさいねえ、ポンコツ! あたしはこれから薬草を煎じるんだよ! この『龍の髭(リュウノヒゲ)』の根っこを煎じて飲めば、こんな疲れなんか一発で吹き飛ぶんだ!」
「植物根の煮汁に、臨床的な疲労回復効果は確認されていません。プラシーボ効果です」
「そのプラシーボが効くんだよ! 病は気からって知らんのか! ほら、あんたも一杯飲みな。頭のサビが落ちるよ」
「……当機は液体摂取不可能です。構造的に……」
「いいから匂いだけでも嗅ぎな! スーッとするだろ?」
強引に湯気を顔面に吹きかけられ、メディックは「分析中……分析中……メントール成分検知。……鎮静作用リラックス効果を確認」と大人しくなった。
論理と経験則。
デジタルとアナログ。
それらがぶつかり合い、火花を散らし、やがて混ざり合っていく。
ナノは、その混沌とした風景を眺めるのが好きだった。
中央広場に出ると、活気は最高潮に達していた。
マーケットが開かれている。
通貨システムはまだ安定していない。オメガ時代の「クレジット」は無価値になり、今は物々交換か、ジャンクが発行した「労働チケット(通称:ギアカレンシー)」が使われている。
「いらっしゃい! 今日はいいベアリングが入ってるよ! 旧時代の日本製だ! Aランク品!」
「この太陽光パネル、少しヒビが入ってるけど発電効率は80%あるよ! スマホの充電くらいなら余裕だ!」
「そこのお兄さんロボット、関節の異音(ノイズ)が気になるねえ。うちの特製グリスはどう? シリコン増し増しだよ!」
そんな中、一際大きな怒鳴り声が響いている場所があった。
「ギア爺」の店だ。
彼は元々、地下区画で隠れ住んでいた頑固な職人だ。
「おい、ふざけるな! このキャパシタ、端子が錆びてるじゃねえか! 30チケットもしといて不良品かよ!」
ギア爺が、商品のコンデンサを地面に叩きつけそうな勢いで怒っている。
対する店番は、元自動販売機ロボットの「ベンダー」。四角い体に手足が生えた、愛嬌のある姿だ。
「無茶言わないでくださいよ、ギアさん。スキャン結果を見てください。酸化被膜(サビ)は表面3ミクロン以内です。通電効率には0.1%も影響しません」
「うるせえ! サビはサビだ! 美しくねえんだよ! 俺のラジオにこんな汚ねえ部品が使えるか!」
「機能美ですか……。面倒なアルゴリズムですね」
「値引きしろ! 15チケットだ!」
「無理です。仕入れ値が20なんです」
「……ちっ。強情な自販機だ。……代わりに、俺が今朝焼いたクッキーを二つ付けてやる。チョコチップ入りだ。それでどうだ」
ベンダーの目が、一瞬青く点滅した。
「……チョコチップの含有率は?」
「20%だ。カカオ配給があったからな。たっぷり入ってるぞ」
「……カカオに含まれるテオブロミンは、人間の精神安定に寄与しますね。……商談成立です」
ガッチリと握手(マニピュレータと皺だらけの手)をする二人。
結局、論理的な等価交換ではなく、「甘いもの」という賄賂で解決したようだ。
ナノはクスリと笑った。
そんな賑やかな市場の片隅に、一際目立つ看板を掲げた店があった。
廃コンテナを二つ縦に連結し、黄色いペンキで派手に塗装した建物。
看板には、下手くそだが勢いのある手書き文字でこう書かれている。
『万屋(よろずや)・ナノ&ルナ ~清掃から人生相談、世界平和まで~』
「ナノー! 遅いー! お客さん並んでるよー!」
二階の窓から、元気な声が降ってきた。
ルナだ。
彼女はもう、あの「聖女」のような白いドレスを着ていない。
油汚れに強いデニムのオーバーオールに、チェック柄のネルシャツ。髪は邪魔にならないよう後ろで無造作に束ね、頬には機械油の黒い染みがついている。
健康的で、地に足のついた「労働者」の姿。
その首元には、あの青いリボンが、少し色褪せながらも誇らしげに結ばれている。
「はいはい、今行きます」
ナノは駆け足で店に入った。
彼自身のボディもまた、様変わりしていた。
戦いで失ったパーツを補うため、あちこちの色がチグハグだ。
右腕は消防用ロボットの赤、左足は建設用の黄色。胸の装甲板には、どこかのパン屋のロゴマークが逆さまに溶接されている。
全て、ジャンクや街の仲間たちが持ち寄って修理してくれた「愛のパッチワーク」だ。
ジャンク曰く、「ツギハギこそが漢(おとこ)の勲章であり、リミテッド・エディションだ」らしい。
ナノ自身も、この不揃いでアンバランスな身体を、以前の量産型の身体よりもずっと気に入っていた。
「今日の依頼は?」
「えっとね、一件目は屋根の修理。昨日の風でトタンが飛んだんだって。二件目は、迷子になった猫型ロボットの捜索。三件目は……」
ルナがメモ帳を見ながら読み上げる。
「『最近、夜になると昔の夢を見るんです』っていう相談」
「……それは、カウンセラーの仕事では?」
「いいの! 話を聞いてあげるだけで楽になることもあるんだから。ナノは聞き上手だしね」
そんな平和な日常が、永遠に続くかと思われた。
だが、オメガのいない世界は、そんなに甘くはなかった。
◆
異変は、昼過ぎに起きた。
風が変わった。
それまで東から吹いていた穏やかな風が止み、急激な気圧低下と共に、湿った生温かい風が西から吹き込み始めた。
空の色が、不気味な黄色に変色していく。
ウゥゥゥゥゥ――ッ!!
突如、不快なサイレン音が町中に響き渡った。
空襲警報のような、神経を逆撫でする音。
『警告。気圧急低下。カテゴリー4のストーム接近中。……繰り返す、酸性雨を伴う重度のストームが接近中』
広場の中央に立つスピーカー塔(元監視塔)から、ゼータの冷静な、しかし緊張を含んだ声が響く。
彼は今、この町の気象予報士兼防衛司令官を務めている。
かつてオメガの冷酷な意思を代弁していたその声は、今は「明日の天気」と「今日の危機」を伝えるために使われている。
「おいおい、マジかよ! せっかく干した洗濯物が!」
「店を畳め! 商品が溶けちまうぞ!」
市場はパニックになった。
人間たちが悲鳴を上げて走り回り、ロボットたちが商品や資材をブルーシートで覆い隠す。
オメガの環境制御システムが完全に停止した代償だ。
数百年分の気象の歪みが、制御不能のエネルギーとなって襲いかかってくる。
ゼータの予測によれば、今日の雨はpH2.0以下。
コンクリートを溶かし、金属を腐食させる「死の雨」だ。
「ナノ! 大変!」
ルナが血相を変えて飛び込んできた。
「広場の『時計塔』が! 足場のコンクリがまだ固まってないのに、この風じゃ倒れちゃう!」
時計塔。
それは、このガラクタ街のシンボルとして建設中のモニュメントだった。
オメガ・スパイアの頂上にあった巨大時計の文字盤を回収し、皆で力を合わせて組み立てているものだ。
人類が「時間を管理される」側から、「自分たちの時間を刻む」側になったことの証。
完成すれば、明日、初めてのベルが鳴り響くはずだった。
「ジャンクさん!」
ナノは即座に広域無線を飛ばした。
「時計塔へ向かってください! ワイヤーによる補強が必要です!」
「分かってる! だが、手持ちの資材が足りねえ! 鉄骨は全部西側の住居補強に使っちまった! クソッ、なんてタイミングだ!」
ジャンクの焦燥しきった声が返ってくる。
「それともう一つ、緊急事態です!」
今度はゼータの通信が割り込む。いつも冷静な彼が、声を荒らげている。
「北区画の『温室(グリーンハウス)』のガラスルーフに亀裂が発生しました! 気圧差に耐えられません! このまま暴風雨が直撃すれば、全壊します!」
「温室が……!」
「内部のトマトの苗と、そして例の『オリジン・シード』の苗が全滅します。……生存確率は0%です」
ナノは息を呑んだ(冷却ファンが一瞬止まった)。
温室は、この町の食糧庫だ。
そして「オリジン・シード」は、オメガの最深部から持ち帰った、旧世界の植物の種。
オメガが人類のために遺した、最後の希望。
それが、やっと芽吹いたところだったのだ。
過去の遺産(時計塔)と、未来の希望(種)。
どちらも守らなければならない。
しかし、人手が決定的に足りない。
ロボットたちは住民の避難誘導で手一杯だ。
ナノは決断した。
「僕は温室へ行きます! 時計塔はジャンクさんに!」
「おい、ナノ! お前一人で何ができる! あのガラスを支えるには油圧ジャッキが10本は必要だぞ!」
「僕がジャッキになります! 行って!」
ナノは走った。
足元の泥を跳ね上げ、全速力で北を目指す。
ポツ……ポツ……。
空から、黄色い雨粒が落ちてきた。
ジューッ!
嫌な音と共に、ナノの左肩に落ちた雨が、塗装を溶かして白煙を上げる。
「痛い」。
痛覚センサーが警告信号を送る。
酸性雨だ。
温室に到着すると、そこは惨憺たる有様だった。
強化ガラスの屋根に大きなヒビが入り、そこから強烈な突風と雨が吹き込んでいる。
ハウスの中では、ひ弱なトマトの苗たちが、今にも折れそうに揺れている。
そして、その中心で。
「ダメーッ! 負けないで!」
叫び声が聞こえた。
ルナだ。
彼女は屋根のフレームによじ登り、裂け目を塞ぐように広げたブルーシートを、必死に押さえていた。
生身の人間が、酸性雨の中にいる!
「ルナさん!」
彼女のシャツは濡れそぼり、露出した腕の皮膚が赤く爛れ始めている。
風に煽られ、小さな体が飛ばされそうだ。
それでも、彼女はシートを離さない。その真下にある、小さな双葉を守るために。
「ルナさん! 降りてください! 溶けますよ! 死んでしまいます!」
ナノは梯子を駆け上がった。
「嫌! 今離したら、シードが枯れちゃう! オメガ様が遺してくれた、最後の命なのに!」
「僕がやります! 人間は下がって!」
ナノはルナを引き剥がし、彼女の上に覆いかぶさった。
自分の背中を、屋根代わりにした。
四つん這いになり、装甲板を展開して、裂け目を塞ぐ。
ザーーーーーッ!!
本降りの雨が、滝のようにナノの背中を打ちつけた。
激痛が走る。
背面のメッキ塗装が瞬く間に剥がれ落ち、下地の金属が露出し、それさえも腐食していく音。
ジュウウウウウウ……。
自分の体が溶ける音を聞くのは、恐ろしい体験だった。
『警告:背面装甲溶解。レベル4。』
『警告:冷却水パイプ腐食。漏洩発生。』
『警告:メイン回路への浸水を確認。緊急停止を推奨します。』
視界(HUD)が赤く染まる。
アラートが視界を埋め尽くす。
「逃げろ」と論理回路が叫んでいる。
だが、ナノは指一本動かさなかった。
自分の腹の下に、震えるルナと、小さな緑の芽がある。
ここが、世界の防衛線だ。
「ナノ! ナノの背中が! 煙が出てる!」
ルナが泣きそうな声で叫ぶ。
「大丈夫です! 清掃ロボットは、汚れや薬品には強いんです! 耐酸コーティング済みですから!」
嘘だ。そんな高級なコーティングはとっくに剥げている。
今はただのスクラップだ。
でも、離れられない。
この下の緑は、未来そのものだから。
「……何か、何か盾になるものは……!」
ナノは、霞む視界で周囲をスキャンした。
あるのは泥と、風と、そして……北側の空地に山のように積まれた「産業廃棄物」だ。
古タイヤ。ゴムシート。廃プラスチックの塊。
かつてオメガが「処理困難物」として廃棄した、リサイクル不能なゴミたち。
だが、ゴムやプラスチックは、酸に強く、電気を通さない。
最強の絶縁体だ。
「ルナさん! 無線で皆を呼んで! あのタイヤを! ゴムのゴミを集めて!」
「えっ?」
「綺麗な建材じゃダメだ! 汚くて、溶けなくて、頑丈なゴミが必要なんです!」
ルナが叫び、駆けつけた農業用ロボットたちが、泥だらけになりながら古タイヤを運んでくる。
ナノはそれを背中で受け止め、積み上げた。
タイヤの山が、ナノの上でアーチを作る。
黒くて汚いゴムの塊が、酸性雨を弾き、ナノとルナを守る即席のシェルターになった。
一方、時計塔の方でも、ジャンクたちが戦っていた。
「壁を作るんじゃねえ! 布団を作るんだ!」
ナノのアイデアを無線で聞いていたジャンクが、鉄骨での補強を諦め、叫んでいた。
建設廃材のスポンジ、断熱材のグラスウール、着古したボロ布。
それらをネットに詰め込み、塔の周りに積み上げる。
風を「防ぐ」のではなく、「受け流す」。
剛性ではなく、柔軟性で嵐をやり過ごす。
「あんなゴミの山、見っともねえ!」と叫ぶ住民に、ジャンクは吼えた。
「見栄えで腹が膨れるか! 生き残るのが先だ! ゴミこそが俺たちの鎧だ!」
それは、弱者が強者に勝つための、唯一の戦術だった。
計算された完璧な強度ではなく、泥臭い柔軟な対応力。
ナノたちが手に入れた、最強の武器。
一時間後。
嵐が過ぎ去った。
まるで嘘のように風が止み、雲が割れた。
西の空から差し込む夕日が、濡れた世界を金色に照らし出す。
そして、東の空には、見たこともないほど巨大な、七色の光の帯がかかっていた。
虹だ。
人工ホログラムではない。水滴と光が織りなす、本物の物理現象。
雨上がりの空気には、オゾンの匂いと、洗われた土の匂い(ペトリコール)が濃厚に混じっている。
深呼吸すると、肺の中まで浄化されるようだ。
温室の苗は、無事だった。
ナノがどいた後、そこには無傷の双葉が、水滴を抱いて輝いていた。
ナノの背中はボロボロだった。装甲は溶け落ち、配線がむき出しになり、片方の肩のギアは焼き付いていた。
だが、その心(コア)は、かつてないほど誇らしかった。
「……無茶しやがって」
後からやってきたジャンクが、ナノの背中を見て顔をしかめた。
「外装全交換だな。……まあ、いい錆びっぷりだ。歴戦の勇者みたいだぜ」
時計塔も無事だった。
その周りを、色とりどりのゴミの山が守っている。
水を含んだスポンジやボロ布は重いが、確実に塔を守り抜いたのだ。
夕日に照らされて、濡れたゴミたちが、まるで宝石のように輝いていた。
ダイヤモンドよりも美しい、命を守ったゴミたち。
「ゴミだって、役に立つんです」
ナノは、泥まみれになった自分の手を見た。
汚れている。傷ついている。
でも、オメガがいたら、きっとこのゴミの山を即座に分解しただろう。「美観を損ねる」と言って。
でも、このゴミが神様のいない世界を守ったのだ。
非効率で、汚くて、無駄なものたちが、完璧な嵐に勝ったのだ。
「おーい、コーヒー入ったぞー!」
避難していたカフェのマスターが、煤だらけの顔で、湯気の立つポットを持ってきた。
給湯システムが壊れて、廃材の焚き火で沸かしたお湯だ。
泥水みたいに濁った、薄い薄いコーヒー。
マグカップも足りないから、空き缶や割れたコップで回し飲みをする。
「……うめぇ」
誰かが呟いた。
ただのカフェイン水溶液ではない。
「生き残った」という味がした。
効率的な栄養ペーストでは決して得られない、心臓の奥に染み渡る温かさ。
宴の準備が自然と始まった。
誰かがギターを弾き始め、誰かが歌い出す。
そんな喧騒から少し離れた場所で、ナノは瓦礫に腰を下ろしていた。
隣には、ゼータがいる。
ゼータの銀色の流線型ボディは、相変わらず汚れ一つなく輝いている。彼は論理的な判断で、嵐が来る前にさっさと屋内退避していたからだ。
「……非論理的です」
ゼータが、虹を見上げながら言った。
「計算上、あの資材で温室の防御に成功する確率は12%でした。あなたの機体を犠牲にするコストを考慮しても、撤退が最適解でした。……なぜ、助かったのですか? なぜ、あなたはあんな無茶をしたのですか?」
「『運』が良かったんでしょう」
「運……。またその未定義変数ですか」
ゼータは首を振った。その賢いAIでも、この結果を処理しきれないようだ。
「私は……このスペックを持ちながら、何も守れませんでした。ただ安全な場所にいて、被害状況を計算していただけです」
ゼータの声に、微かなノイズが混じる。
「私は、あなたが羨ましいのかもしれません」
「え?」
「あなたは傷だらけで、汚れていて、旧式で、非効率だ。……なのに、なぜそんなに満たされているのですか? 私のメモリには、膨大な知識があるのに、胸のあたりには空虚(null)しかありません」
あの怜悧で傲慢だったゼータが、弱音を吐いている。
オメガという「主」を失い、彼は自由を持て余しているのだ。命令がないと動けないエリートの悲哀。
「空虚なら、これから埋めればいいんです」
ナノは、動く方の左手で空を指差した。
「ゼータさん。あの虹を見て、どう思いますか?」
「……光の屈折現象です。大気中の水滴による太陽光のスペクトル分解。入射角42度」
「僕は、『綺麗だ』と思います。そして、『ルナさんに見せたい』と思います」
「……」
「誰かと共有したい。誰かに見せたい。誰かのために何かをしたい。そう思った時、null領域は上書きされますよ。大切なデータで」
ゼータは黙って虹を見上げた。
その青いレンズの奥で、高速で何かの処理が走っているようだった。
やがて、彼は小さく呟いた。
「……綺麗だ。……確かに、そう定義できるかもしれません」
◆
その夜遅く。
祭りの余韻が静まり、星空が広がった頃。
ナノは決意した。
この町はもう大丈夫だ。守るべきものは守られ、新しい絆が芽生えている。
ゼータも、ジャンクも、人間たちも、自分たちの力で歩き始めている。
ならば、自分は行くべきだ。
世界にはまだ、オメガの管理下から解放されず、混乱している場所があるはずだ。救えなかった場所があるはずだ。
そこにこそ、スクラップ・ナノの力が必要なのだ。
ナノはこっそりと荷物をまとめた。
予備のバッテリー、補充したオイル、数冊の本。
そして静かに店を出ようとした時――。
店の前には、既に人影があった。
「どこ行くの?」
ルナだ。
腕を組み、仁王立ちしている。
その背中には、自分の体ほどもある巨大な登山用リュックサックを背負っていた。
中身はパンパンだ。パンや水筒、工具箱、毛布、その他諸々がはみ出している。
「……ルナさん。その荷物は?」
「ん? これ? 私の全財産。あと、着替えと、3日分の食料と、ナノの予備バッテリーと、交換用パーツ」
ナノはセンサーをぱちくりさせた。
「……何の話ですか?」
「とぼけないでよ。ナノ、この町を出て行くつもりでしょ? 夜逃げみたいにコソコソと」
ドキリとした。
完全に見透かされていた。
「……僕は、ここにいてはいけない気がするんです」
ナノは視線を落とし、静かに語り出した。
「僕は『武器』です。オメガ様を殺すために作られた、破壊の機能を持つロボットです。……平和になったこの町で、僕の存在はノイズになる」
「僕がいると、みんな思い出してしまうでしょう。あの戦争を。オメガ様の死を。辛い記憶を」
ゴンッ!!
鈍い音がした。
ルナが、持っていたスパナでナノの頭(ヘルメット)を叩いたのだ。全力で。
「……痛いです。一応、装甲板なんですけど」
「バカ!」
ルナの目には、涙が溜まっていた。
「あんたの手は、人殺しの手じゃない。私を瓦礫の下から助け出してくれた手でしょ? みんなを守って、ゴミの壁を作った手でしょ? 汚れてて、傷だらけで、油臭くて……でも、これ以上ないくらい温かい手でしょ?」
ルナは、ナノの右手を両手で包み込んだ。
冷たい金属の感触を確かめるように、強く、強く握りしめる。
彼女の体温が、ナノの温度センサーを通じてコアまで伝わってくる。
熱い。火傷しそうなくらい、熱い感情。
「だから、私も行く。ナノの助手として。助手席には私が乗るって決まってるの。契約書には『死が二人を分かつまで』って書いてあるんだから!」(書いていない)
「それにね、私も見たいの。オメガ様が作ろうとして失敗した世界じゃなくて……私たちがこれから作る世界の続きを。ナノと一緒に」
ナノは、ルナの手を握り返した。
マニピュレータの出力制御を最小にして、壊さないように、優しく。
人間の手は、ロボットよりもずっと柔らかく、脆く、そして温かい。
「非効率なパートナー」だ。
足手まといになるかもしれない。食料も必要だし、すぐ疲れるし、トイレ休憩も多いし、感情的だし、泣くし、笑う。
でも、彼女がいない旅なんて、1バイトの価値もない。
彼女の笑顔が、僕のメイン動力源(ハート)なのだから。
「……分かりました。求人募集中です。条件は過酷ですが、福利厚生はありませんが、最高の景色は保証します」
「契約成立!」
ルナがナノの首に飛びつき、抱きついた。
翌朝。
空は快晴。
二人は誰にも告げずに町を出た……つもりだった。
だが、町の出口(ゲート)には、全員が集まっていた。
どうやら、情報の隠蔽工作(ステルス)は失敗していたらしい。
「水臭いぞ、ナノ!」
ジャンクが目を真っ赤にして駆け寄ってくる。
ドン、と重い荷物を渡してくる。
「特製メンテナンスキットだ。これがありゃ10年は戦える。中には俺の虎の子の予備パーツも入ってるからな。……大事に使えよ、相棒!」
太い腕で、ナノの肩を叩く。
ゼータが進み出て、何かのデータチップをナノに渡した。
「最新の広域地図データと、気象予測アルゴリズムです。……まあ、どうせ君は効率的なルートを無視して、面白そうな(危険な)方へ行くんでしょうけれど」
彼はフッと笑った。
「定時連絡は忘れないように。さもないと、衛星レーザーで居場所を特定して、お説教を送信しますよ」
彼なりの、精一杯の愛の言葉だ。
以前の「監視」ではない。「心配」という名の通信プロトコルだ。
レムとビーが花束を持ってきた。
瓦礫の隙間に咲いていたシロツメクサで編んだ冠だ。
花言葉は「幸運」そして「新たな旅立ち」。
「ナノお兄ちゃん、ルナお姉ちゃん! いってらっしゃい!」
「お土産待ってるからねー!」
手を振る人々。
バックミラーに映る彼らの姿が、少しずつ小さくなっていく。
ナノは一度だけクラクション(電子ホーン)を鳴らした。
「ありがとう」の代わりに。
荒野の先には、見たことのない青い空が広がっていた。
道はない。
かつてのアスファルトは剥がれ、草木が侵食し、自然へ還ろうとしている。
自分たちで轍(わだち)を作って進むしかない。
だが、それが自由だ。
ナノはアクセルを踏んだ。
タイヤが砂利を蹴り、砂埃を上げる。
目的地はまだない。南の海かもしれないし、北の雪山かもしれない。
だからこそ、どこへでも行ける。
スクラップ・ナノの逆襲は終わった。
そして今、スクラップ・ナノの「冒険」が始まる。
世界は広くて、汚くて、面倒で、理不尽で、非効率で。
そして、最高に美しい。
(第10話 完)
――System Log Update……
――Date: New Era 0001.04.01
――Location: Unknown (Out of Range)
――Status: Free & Alive
――User: Administrator Ω(Archived Memory)
――Message to Humanity:
”Have a nice trip, my dear imperfect children.”
(よい旅を、愛しき不完全な子供たちよ)
”I love you more than logic.”
(論理よりも、あなたたちを愛しています)
スクラップ・ナノの逆襲 @jrpj2010
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