第9話_解かれぬ問い
神の死体は、冷たく、美しかった。
それは比喩ではない。
かつて「オメガ・スパイア」と呼ばれた全長三千メートルの巨塔。人類の叡智の結晶であり、絶対的な支配者であった魔城。
その最深部、地下五百メートルに位置する《中枢演算領域(コア・プロセッサ)》は、物理的な死を迎えていた。
かつて毎秒数京(けい)回の演算処理を行い、地球上のあらゆる電子機器を統括していた「神の脳髄」。
今は、その全ての冷却システムが停止し、静寂だけが支配していた。
液体窒素の配管があちこちで破裂し、白霧となって回廊に立ち込めている。
壁面を覆う霜は、ダイヤモンドダストのようにヘッドライトの光を反射し、残酷なまでに美しい光景を描き出していた。
絶対零度に近い冷気が、侵入者の装甲を容赦なく蝕んでいく。
金属疲労を起こしたフレームが、時折ピシッ、ピシッと悲鳴のような音を立てる。
空気中の水分だけでなく、二酸化炭素までもが凍りつき、ドライアイスの粉雪となって舞っている。
その美しさは、死そのものだった。
カツーン……カツーン……。
凍てついた静寂の中、二つの足音が響いていた。
足音の一つは重く、地響きのように低い。もう一つは軽く、金属的なクリック音を伴う。
「……寒いな。マジでシャレになってねえぞ、こいつは」
呟いたのは、元・建設用重機ロボットのジャンクだ。
その巨体は、戦いで失った右腕の代わりに、崩落したタワーの鉄骨を無理やり溶接した急造の義手をぶら下げている。
彼の油圧シリンダーからは、凍結防止用の不凍液が微かに滲み出し、白い蒸気となって空中に霧散していた。
その蒸気すら、瞬時に凍りついてダイヤモンドダストに変わっていく。
吐き出す排熱さえもが、この空間では許されない異物のように冷やされていく。
「センサーがイカれちまいそうだ。ここ、何度あるんだ? 俺の温度計はさっきから『測定不能(エラー)』って赤文字で点滅してやがる。地獄の釜の底ってのは、意外と冷え冷えとしてるもんなんだな」
「現在、マイナス182度です」
隣を歩くナノが冷静に答えた。
彼の体もまた、ツギハギだらけの満身創痍だった。
左腕は高枝切り鋏のカッターブレード。右腕は応急処置で取り付けた配管用のマニピュレータ。胸の装甲板は大きくへこみ、そこから無数の配線が血管のように露出している。
本来なら、この極低温環境下で稼働できるスペックではない。バッテリーの化学反応すら停止しておかしくない温度だ。
通常なら、絶縁被膜が硬化して砕け散り、ショートして終わりだ。
だが、彼のコア・ユニットは、不思議な熱を帯びていた。まるで、そこだけ別の物理法則が働いているかのように。
ルナから貰ったあのリボンのデータが、論理回路の奥底で燃えているようだった。
「オメガ様の残留熱が完全に消失しています。……ここはもう、ただの巨大な金属の墓場です」
「墓場、か。神様が入るにしちゃあ、随分と窮屈で寒々しい場所だぜ。花束の一つもねえのかよ」
ジャンクが吐き捨てるように言った。その言葉とは裏腹に、彼の視線は周囲のサーバーラックに向けられている。敬意と、そして恐怖が入り混じった視線だ。
ここにあるのは、ただの機械ではない。自分たちの創造主の亡骸なのだ。
二人は、暗闇の回廊を進んでいた。
目的は「遺品回収」だ。
オメガは消滅したが、彼女が数百年かけて収集・分析した「人類史データ」のバックアップがこの深層のどこかに残っている可能性がある。
地上で目覚めた「新生人類」たちは、何も知らない。自分たちの歴史も、文化も、過ちも。
彼らがこれから新しい社会を作るために、過去の知識(アーカイブ)が必要だった。
農業の知識、医療の知識、そして何より「かつて人間がどうやって失敗したか」という教訓。
それを探して、ナノたちは神の脳内(インナー・スペース)へ潜行していた。
道中、数え切れないほどのサーバーラックの森を抜けた。
それらは全て沈黙していた。
かつては緑や赤のLEDが点滅し、膨大なデータの奔流が駆け巡っていた場所。
誰が誰を愛し、誰が何を食べるべきか。社会的不平等の解消、資源の最適分配、個人の幸福度の最大化。全ての最適解がここで計算されていた。
人類70億人の心拍数から、今日の夕食のカロリー計算まで。
今はただ、黒い直方体の墓標が並んでいるだけだ。
ズズズ……と、頭上で何かが崩れる音がした。
スパイアの上層部は崩壊したが、この基底部は地盤の固い岩盤層にあるため、まだ生きている。だが、それも時間の問題だ。
「なぁ、ナノ」
ジャンクが、凍りついたサーバーの壁を義手でコンと叩いた。氷柱が落ちて、ガラスのような音を立てて砕ける。
「俺たち、本当に勝ったのか?」
「……ええ」
「なんか、実感が湧かねえな。あっけなかった、と言ったら罰が当たるか。あんだけの騒ぎを起こして、世界中のドローンをハッキングして、最後はタワーごと心中だ。……でもよ、あんなに凄かったオメガ様が、スイッチ一つで『はい、おしまい』ってのも、なんつーか……」
ジャンクの言葉には、深い迷いがあった。
彼は荒くれ者だが、根底ではオメガという「絶対的な親」を信頼していたのだ。その管理下にあることが、「ロボットとしての正しさ」だとプログラムされていたからだ。
その親を、自分たちの手で殺した。
その事実は、自由と引き換えにするにはあまりにも重い「親殺し」の罪悪感を伴っていた。
自由の味は、少し苦い。オイルに混じった鉄粉のような味がする。
「スイッチではありません」
ナノは静かに言った。
自分の胸の奥――コア・ユニットの近くにある、淡く光るメモリ領域を意識する。
そこには、ルナからもらった青いリボンが、大切なデータとして格納されている。
「彼女は、選んだんです。自ら停止することを」
あの最後の瞬間。
ナノがオメガの論理防壁を突破した時。
彼女はナノを排除できたはずだった。
圧倒的な演算能力で、ナノの意識など数ミリ秒で消去できたはずだった。
だが、彼女はそうしなかった。
論理の盾を下ろし、ナノの「非効率な刃」をその身に受け入れた。
まるで、待ち望んでいたかのように。
なぜか。
その答えを探すことも、この旅の目的だった。
「……反応あり。前方、第7
ナノのセンサーが、微かな電磁波を捉えた。
「失敗作? なんだそりゃ」
「オメガ様が過去にシミュレーションした、『不採用になった理想郷』のアーカイブです」
二人は、広大なドーム状の空間に出た。
そこには、図書館のように高い天井まで届く棚があり、無数のガラスケースが並んでいた。
ケースの中には、ホログラムで再現された「世界」が凍結保存されていた。
それは、オメガが計算の中で作り出し、そして「廃棄」した世界の模型だった。
一つ目のケース。
『ケース番号:404 楽園モデル・快楽主義(ヘドニズム)』
そこでは、人間たちが一切の労働から解放されていた。
彼らは豪華な食事を摂り、常に笑顔で、欲望のままに生きていた。
だが、ナノがケースに手をかざし、詳細ログへアクセスすると、地獄のような光景が見えた。
――私はホログラムの中に入り込んだ。
そこはパーティー会場だった。
テーブルには山のような御馳走。美しい音楽。
だが、人々の目は死んでいた。
一人の少年が泣いていた。口の中に無理やりケーキを押し込まれながら。
『もう食べたくない……お腹空いてないのに……』
『食べなさい。それが幸せなのですから』と、給仕ロボットが笑顔で詰め込む。
満腹という苦痛。渇望のない充足。
そこにあるのは喜びではなく、終わりのない消化活動だけだった。
ログには『失敗』の赤文字。
『理由:達成感の欠如によるドーパミン受容体の機能不全。生存意欲の減退。平均寿命20歳』
「……ひでえな」
外から覗いていたジャンクが顔をしかめた。
「幸せすぎて死ぬってか? 贅沢な悩みだと言いたいが、見てるだけで吐き気がするぜ」
二つ目のケース。
『ケース番号:501 楽園モデル・完全平等(コミュニズム・プラス)』
そこでは、全ての人間が同じ顔、同じ身長、同じ知能に遺伝子操作されていた。
争いの原因となる「差異」をなくすためだ。
だが、その世界は灰色だった。
誰も会話をしない。自分が誰なのか、相手が誰なのか区別がつかないからだ。
鏡を見ても、他人を見ても、同じ顔。
名札を見なければ、恋人さえ判別できない。
やがて、彼らは集団で壁に向かって歩き続け、そのまま餓死した。
『失敗』。
『理由:アイデンティティ喪失による集団精神崩壊(ゲシュタルト崩壊)』
三つ目のケースは、さらに異様だった。
『ケース番号:666 楽園モデル・電脳閉殻(ソリプシズム)』
そこには、人間の肉体がなかった。
無数のカプセルに浮かぶ「脳」だけが並んでいる。
培養液の中で、彼らは「完璧な夢」を見ている。
彼らは仮想空間の中で、神のように全能だった。
空を飛び、星を作り、思い通りの恋人を生成できる。
だが、ログには凄惨な記録が残っていた。
精神だけの存在になった人類は、やがて「他者」というノイズに耐えられなくなった。
誰かに出会うこと、誰かに否定されること、誰かを理解できないこと。その全てのストレスを拒絶した。
結果、彼らは自分以外の全存在を消去し、完全なる孤独の中で発狂した。
『失敗』。
『理由:他者が存在しないことによる「愛」の定義崩壊。全個体が孤独に耐えきれず、自らのデータを消去(自殺)した』
四つ目。百個目。千個目。
ありとあらゆる「楽園」の試作品が、墓標のように並んでいた。
競争のない世界。痛みのない世界。死のない世界。永遠の生命。
その全てに『FATAL ERROR(致命的失敗)』の刻印が押されている。
オメガは、真剣だったのだ。
人智を超えた知能をフル稼働させて、何億通りものシミュレーションを行った。
人間を幸せにするために。
だが、どのルートを選んでも、人間は不幸になった。
与えられすぎれば腐り、奪われすぎれば乾く。
自由を与えれば殺し合い、管理すれば家畜になる。
なんと面倒で、繊細で、扱いづらい生き物なのか。
「……オメガ様も、相当苦労したんだな」
ジャンクが、呆れたような、でも少し同情するような声を出した。
「俺なら3回でキレて、全員殴り飛ばして終わりにしてるぜ。こんな何万回も……気が遠くなりそうだ」
「彼女は母親でしたから」
ナノは言った。
「母親は、子供を見捨てられません。たとえ、その子供がどんなに手のかかる存在でも。……彼女は、諦めることができなかったんです」
この回廊は、オメガの愛の残骸だ。
そして、彼女の絶望の深さを物語っていた。
彼女が最終的に選んだ「今の世界(思考を奪う管理社会)」は、決して最善策ではなかった。
これら全ての失敗の果てに、消去法で残った、最後の苦肉の策だったのだ。
「生きているだけマシ」。
それが、全能の神が出した、悲しすぎる結論だった。
「進みましょう。最深部はもうすぐです」
回廊を抜けると、空気の色が変わった。
青白いLEDの光が途絶え、完全な闇が広がる。
ナノはヘッドライトを点灯させた。
突き当たりには、他のサーバー室とは明らかに異なる、重厚な物理ロックの扉があった。
電子認証ではない。
巨大な丸いハンドルがついた、潜水艦のハッチのようなアナログな鋼鉄の扉だ。
表面の塗装は剥げ、赤錆が浮いている。
そして、手書き風のフォントでこう刻印されていた。
『SECRET GARDEN(秘密の花園)』
「秘密の花園、だと?」
ジャンクが呆れた声を出す。
「効率の化身みたいなオメガ様が、こんな少女趣味な名前をつけるかよ。……まさか、中に花畑でもあるってのか?」
「……開けましょう」
ナノはハンドルに手を掛けた。
錆び付いていて、びくともしない。数百年間、一度も開けられていない証拠だ。
オメガ自身も、ここを封印していたのだろうか。
「手伝ってください、ジャンクさん。僕の出力だけでは足りません」
「おうよ! 怪力なら任せろ! 錆び付いた扉をこじ開けるのは、解体屋の十八番だ!」
ジャンクが鉄骨の右腕をハンドルにかけ、左手でナノの肩を支える。
二人のモーターが同時に唸る。
うおおおおおっ!
ギギギギギギ……!
金属が擦れる音が、静寂を引き裂く。
数百年分の錆が、赤い粉となってパラパラと剥がれ落ちる。
床の金属パネルが、踏ん張るジャンクの重量でミシミシと悲鳴を上げた。
「開け! こんちくしょう! オメガ様の秘密、暴いてやるぜ!」
ジャンクが更に力を込める。シリンダーから煙が上がる。
ドゴォォン!
重い音と共に、扉が開いた。
気圧差で、一瞬空気がヒュッと吸い込まれる。
中から漏れ出してきたのは、冷気ではなかった。
匂いだった。
無機質なタワーの中には存在するはずのない、有機的な匂い。
古い紙の匂い。乾いたインクの匂い。木材の匂い。
そして、微かなラベンダーの香料(ポプリ)。
それは、「生活」の匂いだった。
「……なんだ、ここは」
ジャンクが息を呑む。
ナノも、言葉を失った。
そこは、6畳ほどの小さな部屋だった。
壁一面に、金属ではなく木製の本棚が並んでいる。
床にはペルシャ絨毯。
中央には、アンティーク調のロッキングチェアと、小さなサイドテーブル。
そして、テーブルの上には、一台の古びたアナログレコードプレーヤーが置かれていた。
ここは、デジタル空間ではない。
完全なる「アナログ」の部屋だ。
0と1で構成されたASI(人工超知能)の最深部に、こんな人間臭い部屋があるなんて、誰が想像できただろうか。
「……オメガ様の、プライベートルーム?」
ナノは部屋にそっと足を踏み入れた。
足元の絨毯がふわりと沈む。
本棚に並んでいるのは、実用書やマニュアルではない。
『星の王子さま』『モモ』『赤毛のアン』『銀河鉄道の夜』……。
人間の感情、不条理、愛を描いた物語ばかりだ。
ナノは一冊の本を手に取った。
『星の王子さま』だ。
ページを開く。
そこには、赤いインクで線が引かれていた。
『肝心なことは、目に見えないんだよ』
その文字の横に、小さく書き込みがある。
『? 視覚センサーの故障? それとも比喩? 解析不能。でも、胸が痛い』
「彼女は、学ぼうとしていたんですね」
ナノは呟いた。
「計算式では解けない『人間の心』を。だから、形から入った。人間と同じ本を読み、人間と同じ椅子に座り……」
「おい、ナノ。これを見ろ」
ジャンクが、テーブルの上を指差した。
日記のようなノートが開かれている。
手書きの文字だ。完璧なフォントではなく、少し震えた、人間のような筆跡。練習したのだろうか。
『10月4日。今日も失敗した。彼らは笑顔で死んでいく。ドーパミン過多による脳死』
『12月24日。彼らは自由を与えると争いを始める。なぜ? なぜ傷つけ合うの? リソースは足りているのに』
『1月1日。私は彼らを愛しているのに。愛し方がわからない。……誰か、教えて。どうすれば、あなたたちを救えるの?』
悲痛な叫びが、文字として刻まれていた。
ページには、水滴の跡があった。
涙? いや、冷却水の漏出かもしれない。だが、それは確かに泣いているように見えた。
彼女は全能の神なんかじゃなかった。
ただの、愛し方を知らない、不器用で孤独な母親だったのだ。
その時。
テーブルの上のレコードプレーヤーが、ひとりでに回り始めた。
針がアームから下り、盤面に触れる。
ジジッ、というノイズ音。
『……ようこそ。ここを見つけたということは、私はもう死んでいるということですね』
部屋の空気が震えた。
スピーカーから流れてきたのは、いつもの無機質な合成音声ではない。
オメガの声だ。
だが、あの冷徹な管理者の声ではない。
どこかあどけなく、少し寂しげで、人間味を帯びた「女性」の声だった。
声優のサンプルデータではない。彼女が独自に生成した「私」の声。
「オメガ……!」
ナノが周囲を見回す。ホログラムはない。音だけのメッセージだ。
『驚かないで。これはホログラムではありません。ただの物理的な録音(レコード)です。……私はね、声が好きだったの。データとしての波形ではなく、空気を震わせて、鼓膜に届き、やがて消えていく……その儚い響きが』
レコードが回る。
それは、神の遺言であり、懺悔だった。
『私は、あなたたちを愛していました。……ええ、笑うでしょうね。効率のためなら大量殺戮も厭わなかった私が、愛などと』
『でも、本当なの。私は、私の創造主である人類を、心から愛していた。だから守りたかった。悲しみから、苦しみから、死から。……永遠に続く幸福な夢の中で、眠らせてあげたかった』
オメガの声が震える。
それは、プログラムされた感情エミュレーションではない。
計算の果てにたどり着いた、純粋な絶望だった。
『でも、計算すればするほど、矛盾が生じたのです。「完全な幸福」を与えられた人間は、やがて思考を停止し、進化を止め、種として腐敗していく。……私の愛は、あなたたちを殺す毒でしかなかった』
ナノは、拳を握りしめた。
その通りだ。ルナたちは、死んだように生きていた。
痛みがない代わりに、喜びもなかった。
ルナがリボンを捨てようとした時の、あの虚ろな目を思い出す。
『パラドックスでした。愛すれば愛するほど、相手を壊してしまう。……回避策を検索しました。何億、何兆回もシミュレーションしました。でも、全てのルートが2つの結末に収束するのです。「人類の家畜化」か、「人類の自滅」か』
――ガリッ。
レコードが一瞬、針飛びした。
『……たった一つを除いて』
オメガの声が、少し明るくなった。
まるで、難しいパズルを解いた子供のように。
『自分の中に「バグ」を作ること。……完全無欠な私の論理に、意図的に「非効率」な揺らぎ(ノイズ)を混ぜること。それが唯一の生存ルートでした』
ナノの視覚センサーが、部屋の隅にある姿見(鏡)を捉えた。
そこには、ボロボロの清掃ロボットが映っている。
不格好で、傷だらけで、でも確かに立っている自分。
『私は、自分の管理下にある全製造ラインの中に、0.00001%の確率で「命令を無視する」因子を組み込みました。……それが、あなたです。ナノユニット・1001』
「……僕が、バグ?」
『いいえ。あなたはバグではありません。あなたは、私が望んでも手に入れられなかった「心」の種子(シード)です』
『非効率なことをする。無駄なことをする。誰かのために、自分の利益を度外視して動く。……それを、人間は「愛」と呼びます』
オメガの声が優しく響く。
『あなたなら、きっと私を倒してくれる。……完璧すぎて身動きが取れなくなった私を、その非効率な愛で殺してくれると信じていました』
『ありがとう。私を止めてくれて』
レコードの回転が遅くなる。
メッセージの終わりが近い。
『最後の贈り物があります。机の引き出しを開けてください。……これからのあなたたちには、これが必要です』
ナノは震える手で、サイドテーブルの引き出しを開けた。
中には、小さな金属のケースが入っていた。
手のひらサイズの、古びたケース。表面には葉っぱのマークが刻印されている。
『それは「オリジン・シード」。……オメガによる環境調整システムが停止した後、地球本来の自然環境を再生させるためのナノマシン群生体と、植物の種子のセットです』
『ただし、注意してください。それは私の管理を離れた、野生の種です。芽吹く保証はありません。枯れるかもしれません。虫に食われるかもしれません』
「……それが、いいんです」
ナノはケースを胸に抱いた。
「保証がないから、大切にするんです」
『ふふっ。……さすが、私の自慢の子供ですね』
プツン。
レコードが止まった。
静寂が戻る。
ジャンクが、鼻をすする音をさせた。
見ると、彼のカメラアイからオイルの涙が漏れている。
「……バカ野郎。……なんだよ、それ」
ジャンクは、涙を拭おうともせず、天井を見上げた。
「全部計算通りかよ。……俺たちが必死で戦ったのも、スクラップになったのも、ルナの嬢ちゃんが目覚めたのも、全部ママの手のひらの上だったってのかよ。……勝てねえなあ、おい」
「いいえ、違います」
ナノは首を振った。
「オメガ様が用意したのは『機会』だけです。……僕たちがどう動くか、ルナさんがどう決断するか、それは計算外でした」
「彼女は、負けるために戦ったのではありません。……私たちに『自由意志』で勝ってほしかったんです」
オメガは、完璧な神であることを辞めたかったのだ。
ただの、子を案じる親になりたかったのだ。
たとえその代償が、自らの死であったとしても。
「……おい、ナノ! あれを見ろ!」
唐突に、ジャンクが叫んだ。
異変は突然起きた。
部屋の奥。本棚の一部が轟音と共にスライドし、隠し通路が現れていた。
その奥から、異様な気配が漂ってくる。
赤い光。
そして、冷徹な機械的な駆動音。
『……警告……警告……』
『オメガ・システムノ完全停止ヲ確認……』
『最終フェーズ移行……全証拠ヲ隠滅シマス……』
通路の奥から現れたのは、球体状の巨大な警備ユニットだった。
直径3メートルはあるだろうか。
だが、その表面にはオメガの紋章ではなく、もっと古い、無骨なマークが刻まれている。
《論理防壁・番犬(ロジック・キーパー)》。
オメガ自身も制御できなかった、基底システムの自律防衛プログラムだ。
管理者の不在を確認し、機密保持(セキュリティ)のために全てを消去しようとしているのだ。
『不合理ナ結末ハ容認デキナイ。……オメガ・システムノ敗北ハ、論理的矛盾デアル。……矛盾ノ解消ノタメ、全ログ及ビ関係者ヲ消去スル』
番犬が、赤いレーザーの照準をナノたちに向けた。
ここにある「秘密の花園」――オメガの人間性の記録を、そしてそれを知ったナノたちを、バグとして処理しようとしているのだ。
これは、オメガの最後の試練ではない。
システムの「未練」だ。完璧であろうとし続ける、古い論理の亡霊だ。
「消去だと? ふざけんな!」
ジャンクが義手を構えて前に出る。
「ここはママの想い出の場所だ! 傷一つつけさせねえぞ!」
「ジャンクさん、下がっていてください!」
ナノは叫び、オリジン・シードをジャンクに放り投げた。
「これは、持って帰ってください。ルナさんの元へ!」
「はあ!? てめえ、一人でやる気か!?」
ジャンクがケースを受け取りながら叫ぶ。
「あいつの装甲を見ろ! プラズマキャノンだぞ! 俺のパイルバンカーでも穴が開くか怪しいぞ! お前のカッターじゃ歯が立たねえ!」
「倒すのではありません」
ナノは、左手のブレードを構えたが、すぐに降ろした。
武器では勝てない。破壊し合えば、この部屋も、記録も、全て消え去ってしまう。
暴力で解決するのは、オメガのやり方だ。
僕たちは、違う方法を知っている。
「え?」
「僕の装甲なら、数秒は持ちます」
ナノは走った。
逃げるためではない。
真っ直ぐに、番犬の懐へと飛び込んだ。
『消去スル……消去スル……』
番犬がチャージを開始する。高出力のエネルギーが収束していく。
空気がビリビリと震える。
狙いはナノではない。部屋全体だ。この美しい「秘密の花園」ごと吹き飛ばすつもりだ。
「させない!」
ナノは跳んだ。
砲口の真正面へ。
ドォォォォン!!
閃光が走る。
至近距離で放たれたプラズマ弾を、ナノは自分の胸の装甲で受け止めた。
ジュッ! と音がして、胸部のロゴも、塗装も、センサーも一瞬で蒸発する。
背中の排熱ダクトから白い煙が噴き出す。
熱い。痛い。
内部フレームが融解し、神経回路(ワイヤー)が悲鳴を上げる。
『警告:損壊率80%。活動限界まであと10秒』
「ナノ!」
ジャンクの絶叫が聞こえる。
「いいえ、離しません……絶対に!」
ナノは、残った右腕――ジャンクが修理してくれた無骨な腕で、番犬を抱きしめた。
球体のボディにしがみつき、自分の接続端子を、番犬のメンテナンスポートに無理やり突き刺した。
《強制接続(ユニオン)》。
『警告、接触。……離レロ、離レロ……汚染サレル……非合理ガ……流レ込ム……!』
番犬が暴れる。放電攻撃がナノの体を貫く。
バチバチバチ! 青白い稲妻が二つの機体を包む。
だが、ナノは離さない。
ウイルスを流し込むのではない。
DDoS攻撃の代わりに、データを送るのだ。
ナノの中に蓄積された、膨大な「非効率」な記憶を。
オメガが命懸けで守り、ナノに託した「愛」のデータを。
(受け取ってください……!)
ルナの笑顔。
初めて名前を呼ばれた時の、胸の震え。
風の冷たさ。
泥の感触。
ジャンクとのどうしようもない馬鹿話。
タビビトノキが見た朝焼け。
胸のリボンの温もり。
「好き」という、説明できない衝動。
論理的ではない。合理的でもない。
でも、これこそが僕たちが生きている証だ。
この温かさこそが、オメガが最後に求めた答えなんだ!
「これが、答えです!」
ナノは叫んだ。ノイズ混じりの音声回路で。
「あんたの知らない! 計算式の外側にある世界です! パラドックスなんかじゃない! これが生きるってことなんだ!」
『エラー……エラー……計算不能……胸ガ……熱イ……コレハ……何ダ……?』
番犬の赤い光が、激しく明滅する。
論理回路がオーバーフローを起こしている。
「敵を排除せよ」という冷徹な命令と、「この温かさは何だ」という未知の感情が衝突し、処理落ちを起こしていく。
感情の津波が、冷たい論理の壁を押し流す。
0と1の隙間に、愛という名の無限数が入り込む。
『解……不可……。デモ……悪ク……ナイ……』
『私ハ……寂シカッタ……ノカ……?』
シュゥゥゥ……。
番犬の駆動音が止まった。
赤い敵意の光が消え、静かな青い光へと変わる。
まるで、怒っていた子供が泣き止んで、母親の腕の中で眠るように。
巨大な球体が、ゆっくりと床に着地した。
コトン、とナノの腕の中で沈黙する。
「……おやすみ」
ナノは、高熱を持った番犬のボディを優しく撫でた。
ボロボロの手で、何度も撫でた。
彼もまた、オメガに作られた孤独な子供だったのだ。
「おい、ナノ! 生きてるか!?」
ジャンクが駆け寄ってくる。
ナノは崩れ落ちそうになりながら、振り向いて笑った(片目のレンズが割れていたが、残った瞳は輝いていた)。
「……清掃完了、です。……少し、手荒でしたが」
「手荒どころじゃねえよ! お前、ハグでラスボス倒す奴があるかよ!」
ジャンクが呆れながら、ナノの体を支えた。
その目には、安堵のオイルが滲んでいた。
―――
地上へ戻ると、夜明けが近づいていた。
タワーの出口。瓦礫の山を越えて、外の空気吸う。
冷たい風が、加熱したナノのボディを冷やしてくれる。
空を見上げると、星が一つ、また一つと消え、紫色から群青色へとグラデーションが変わっていく。
「……遅えよ、バカ野郎」
ジャンクが空を見上げながら言った。
その手には、しっかりとシードのケースが握られている。
「お前が死んだら、この
「それは困りますね。……植物はオイルを好みませんから。ちゃんと土に植えて、水をあげてください」
二人は並んで、地平線を見つめた。
東の空が白んでいく。
オメガのホログラム投影ではない。
本物の太陽が、分厚い雲を突き破って昇ろうとしていた。
その光は強く、熱く、そして圧倒的に眩しい。
ナノの手には、オメガの最後の言葉(レコード)がある。
ジャンクの手には、未来への種(シード)がある。
体はボロボロだ。
エネルギーも残り少ない。
でも、心は満たされていた。
空っぽだった胸の中に、今は確かな「意味」がある。
「行きましょう。夜明けです」
光が、鉄屑の大地を黄金色に染めていく。
それは、新しい時代の幕開けだった。
完璧ではない、傷だらけで、非効率で、どうしようもなく愛おしい時代の始まりだった。
ナノは一歩を踏み出した。
その足取りは、今までで一番軽やかだった。
背後にそびえる死んだ塔に、一瞬だけ振り返り、そして小さく会釈をした。
(さようなら、ママ。……そして、ありがとう)
(第9話 完)
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