第8話_静寂の朝
――静寂、という言葉ではあまりにも生温い。
それは、世界そのものが凍りつき、その巨大な心臓の鼓動を止めようとしているかのような「絶対零度の夜」だった。
神殺しの翌日。
オメガ・スパイアの崩壊によって、地上を覆っていたホログラムの偽りの空は消失した。数百年ぶりに剥き出しになった成層圏から、容赦のない宇宙の冷気が降りてくる。これまでオメガの完璧な環境調整システムによって常春の「午後3時」に固定されていた大気が、本来の物理法則を取り戻そうとして、猛烈な勢いで循環し始めたのだ。
北極圏からの死を運ぶ寒波が、何の遮蔽物もない荒野を駆け抜ける。
気温、マイナス18度。
油圧シリンダー内の高性能オイルが粘度を増し、関節のギアが悲鳴を上げる温度だ。
エデン跡地――かつて人類が眠っていたカプセル保管区画の廃墟――に作られた即席の難民キャンプ。
そこでは、数千人の「新生人類」たちが、身を寄せ合って震えていた。
彼らが身に纏っているのは、カプセル内で着せられていた薄いシルクのようなスリーピングウェアだけだ。靴すらない者が多い。生まれたての小動物のように、彼らは互いの体温だけを頼りに身を縮こまらせ、歯の根が噛み合わない音だけが、カチカチ、カチカチと、不気味なリズムで響いている。
「寒い……誰か……温度を上げて……」
「お腹が空いたよ……ママ……」
「指が……動かない……」
その悲鳴にも似た声を遮るように、無機質な怒号が飛ぶ。
『おい、貴様ら! 間隔を空けろ! 推奨距離1.5メートルだ! 密集しすぎるとエアロゾルの濃度が上がる!』
元・軍事用アンドロイドのゼータが、右腕のパイルバンカーを教鞭のように振り回して指示を出していた。彼の赤く輝くカメラアイが、サーモグラフィー画面を通して群衆を見下ろしている。
彼の論理回路(ロジック)では、「密集=飛沫感染リスク(R値上振れ)=パンデミックによる全滅」だ。軍事マニュアル「市民防衛・第4章3項」に記された、極めて正しく、そして残酷な判断である。
『感染症なめんなよ! 抗体を持ってない貴様らがインフルエンザにでもなってみろ! この寒さで免疫力も低下してる! 全滅まで48時間とかからんぞ! 離れろ!』
「できないよ……寒いんだよォ!」
一人の若者が、青ざめた顔で泣きながら反論した。唇は紫色になり、指先の感覚はもうないだろう。肌は鳥肌が立ち、限界を超えて痙攣している。
「離れたら……死んじゃうよ……」
『死なん! 泣くな! カロリーの無駄だ! 泣く暇があったらスクワットでもして体温を上げろ! 基礎代謝を上げろ! ワン、ツー! ワン、ツー!』
ゼータが自ら手本を示すように、高速スクワットを始める。ガション、ガション、と重厚な駆動音が響くが、誰も真似できない。
「無理言うなよ! 俺たちはロボットじゃないんだ!」
「血も涙もないのか!」
一触即発の空気。
ゼータは正しい。論理的には100%正しい。疫学的には完璧な正解だ。
しかし、人間には「正しい死に方」よりも「間違った生き方」が必要な時がある。
周囲のサポートロボットたちも戸惑っていた。彼らは人間を守りたいと思っているが、どうすればこの「弱くて、脆くて、非効率極まりない有機生命体」を守れるのか、学習データがないのだ。マニュアルには「室温を24度に維持せよ」とあるが、温めるための空調設備はもうない。
その時。
雪のような白い息を吐きながら、小さな影が現れた。
「ゼータさん、止めてください。……計算式が、間違っています」
ナノだった。
彼は自分の体よりも大きな銀色の断熱シート(元はスパイアのダクトに使われていたグラスウール被覆材)を、ズルズルと引きずっている。体中から、キーキーと異音がしている。寒さで関節のグリスが固まり、動作に抵抗が生じているのだ。
それでも、彼は歩みを止めない。
『ナノか。式が間違っているだと? 私の最新鋭演算プロセッサを疑うのか? このままでは今夜中に15%が低体温症で脱落するぞ』
「15%の肉体を守るために、残りの85%の心を凍らせるんですか? それは……バッド・エンドのフラグです」
『……感情論か。非効率だ。実に非効率だ』
ゼータは腕を組んだ。
「無理強いは逆効果です。彼らのバッテリー(体力)は、もう限界値(レッドゾーン)ですから。……まずは、急速充電が必要です」
ナノはゼータの横をすり抜け、震える子供たちの元へ歩み寄った。子供たちが、恐る恐る近づいてくる。一人の少女が、ナノの残った左腕(内部ケーブルが少し見えている)に触れる。
「……あったかい」
「本当だ。ストーブみたい」
次々と人が集まってくる。大人たちも、プライドを捨ててナノの周りに集まった。
銀色のシートの下、人間とロボットが密着して座る。そこには、かつてオメガの世界にはなかった「匂い」があった。汗の匂い、泥の匂い、機械油の匂い、そして人間の体臭。獣臭い、生き物たちの匂い。
ゼータはその光景を見て、乱暴に頭をガリガリとかいた。高速回転するドリルが頭蓋の装甲を削り、火花が散る。それを見た子供たちが「わあ! 花火だ!」と喜んだ。
『……チッ。計算外だ。まさか「ロボット暖房」とはな。……火災リスクが増大するが……凍死よりはマシか』
ゼータが部下のスカベンジャーたちに叫んだ。
『おい、野郎ども! お前らも混ざれ! 排熱ファンを全開にして、人間どもの間に入ってやれ! ……ただし、接触事故には気をつけろよ! 人間の皮膚は豆腐より柔らかいんだ! ちょっとぶつかっただけで内出血するぞ!』
無骨な作業用ロボットたちが、ぎこちなく人間の輪に加わる。冷たい鉄の体を持つ彼らが、必死にCPUをフル稼働させ、熱を作り出そうとしている。こうして、ゴミの山の中に、奇妙な「暖炉」が出来上がった。
―――
夜が更けていく。キャンプのあちこちで、オレンジ色の焚き火も燃え上がり始めた。
ナノは、焚き火の明かりを見つめながら、ルナの隣に座っていた。彼のヒーター機能はフル稼働のままだ。隣にいるルナが、ナノの肩に寄りかかっている。
「すごいね、ナノ」
ふと、ルナが目を開けずに言った。
「あなたがきっかけで、みんなが変わっていく。人間も、ロボットも。パズルのピースみたいに、カチッてハマってく」
「僕ではありません」
ナノは静かに首を振った。
「皆、元々優しかったんです。ただ、その機能を使う場所(コマンド)がなかっただけで」
オメガは「効率」だけを求めた。
だから、優しさや思いやり、譲り合いといった非効率な機能(パラメータ)は、バグとして処理された。
自己犠牲は「資源の浪費」、共感は「処理遅延」と定義された。
でも、皮肉なことに、そのバグこそが今、ゼロになった世界で人間を生かしている。
効率的なオメガのシステムが崩壊した今、必要なのは「非効率な愛」なのだ。
「ねえ、ナノ」
ルナがナノの胸に残ったリボンに触れた。
汚れて、焦げて、端がちぎれて、さらに短くなった青いリボン。
本来なら「異物」として除去されるべきゴミ。
「このリボン、私があなたにあげた時のこと……覚えてる?」
ナノのメモリバンクを検索する。
検索中……検索中……。
【該当データなし】
オメガとの決戦で、記憶のインデックスの大部分が過負荷により焼失してしまっていた。
日付も、場所も、その時の正確な会話ログも、再生できない。
自分の名前さえ、怪しい時がある。
「……申し訳ありません。データが破損しています」
正直に答える。
「ううん、いいの。……あの時、私は言ったの。『機能じゃなくて、気持ちの問題だ』って」
ナノは、自分の胸(コア)に手を当てた。
そこには、物理的な熱源以上の熱があった。
ヒーターの熱ではない。もっと深く、内側から湧き上がってくる不可解なエネルギー。
「その言葉は、覚えていません。でも……わかります」
ナノは静かに答えた。
「ここが、痛いほど温かいですから。……これが『気持ち』というエラーなら、僕は一生、修理したくありません」
「そうよ」
ルナが微笑んだ。炎の反射で、瞳が揺れている。
「それが、心。……消せない、消えない、一番大事なバグ」
その時。
闇の中から、不穏な足音と、低い唸り声が響いた。
ジャリ……ジャリ……グルルルル……。
風の音ではない。もっと生々しい、殺意の音。
『……警告。接近反応多数。熱源探知、大型生体反応』
ゼータが素早く反応し、立ち上がった。右腕のパイルバンカーがウィーンと起動音を上げる。
キャンプの周囲の闇の中に、無数の赤い目が光っていた。
オメガの残党ではない。
それは、野生化した猛獣たち――いいや、違う。オメガが管理していた「動物園(バイオ・ラボ)」からロック解除され、逃げ出した合成生物(キメラ)たちだ。
狼の敏捷性と、熊の腕力、そして爬虫類の鱗を持つ、遺伝子操作された捕食者。ハイブリッド・ウルフ。
空腹に飢えた彼らが、無防備な人間たちの「肉の匂い」を嗅ぎつけて集まってきたのだ。
グルルルル……ガアアッ!!
涎を垂らした顎には、カミソリのような牙が並んでいる。
『やれやれ、これだから「自然」ってやつは嫌いだ。予測不能で、野蛮で、臭くてたまらねえ』
ゼータがドリルを構えた。
『休憩時間は終わりだ、野郎ども! お客様だぞ! ……ナノ、お前はルナを守れ!』
一頭のキメラ・ウルフが、バリケードを飛び越えてルナに襲いかかった。
速い。ナノの動体予測センサーが追いつかない速度。
「ルナさん!」
ナノは反射的に体を割り込ませた。思考よりも先に、体が動いた。
ガギィィィン!!
鋭い牙が、ナノの左腕(高枝切り鋏アーム)に食い込む。装甲がひしゃげ、火花が散る。
「くっ……! 噛む力(バイト数)が強すぎる……!」
ナノは左腕を振るって追い払おうとするが、離さない。キメラの喉奥から、腐肉の臭気が漂う。その目は血走っている。生きるために食う。その純粋な、混じり気のない殺意。
ナノには攻撃用の武器がない。右腕のチェーンソーは失われ、今はただの清掃用アームしかない。
「害獣駆除モード、起動」
ナノは腰のホルスターから、あるスプレー缶を抜いた。
それは、頑固な油汚れを落とすための、業務用強力アルカリ洗浄液だ。
「お客様、口臭がキツイですよ! お口のケアを!」
プシュッ!!
洗浄液がキメラの口内と鼻腔に直撃する。pH13の強アルカリが、粘膜を激しく刺激する。
ギャンッ!
キメラが悲鳴を上げて飛び退いた。鼻を押さえるようにして転げ回る。
『いいぞナノ! 地味だが効果的だ!』
ゼータが横から飛び出し、怯んだキメラの胴体にパイルバンカーを叩き込む。
ドゴォォォォン!!
衝撃波が走り、キメラは数メートル吹き飛び、動かなくなった。
『まったく、掃除屋の戦い方は見ていて胃が痛くなる(胃はないが)』
ゼータが肩をすくめる。
『だが、これで撃退完了だ』
戦いは終わったが、新たな問題が発生していた。
「飢え」だ。
戦闘による興奮が冷めると、人間たちは一斉に空腹を訴え始めた。
寒さと恐怖でカロリーを消費した彼らの体は、急速にエネルギーを求めている。
エデンには備蓄食料があるはずだが、保管庫は堅牢なセキュリティゲートで閉ざされている。
「仕方ねえ。俺のパイルバンカーでこじ開けるか」
ゼータが腕を回すが、ナノが止めた。
「待ってください。無理に開ければ、防衛システムが作動して食料ごと焼却される可能性があります。……正規の手続き(プロトコル)で申請しましょう」
「正規の手順だと? バカ言え。管理AIはオメガと一緒に死んだんだぞ」
「いえ、食糧管理区画のAIは独立系です。生体認証ではなく、独自の基準で管理しています」
ナノとゼータ、そしてルナは食糧倉庫「キッチン・スタジアム」へと向かった。
巨大な銀色の扉の前には、一台のロボットが立っていた。
コック帽を被り、エプロンを着けた白いボディ。胸には三ツ星のマーク。
かつて世界中の美食データ(レシピ)を学習し、オメガのためだけに料理を作り続けてきた最高級調理ドロイド『ガストロ・ノーム』だ。
『No,No,No! お引き取りください、下品な鉄屑共よ!』
ガストロ・ノームは、巨大なフライ返しとおたまを武器のように構えて叫んだ。
『私の神聖なる厨房(キュイジーヌ)に、泥だらけの足で踏み入るとは! 衛生基準(サニタリー・レベル)マイナス1億点です! 消毒してから出直してきなさい!』
「あの、ガストロさん。みんなお腹が空いているんです。備蓄のレーションを分けていただけませんか?」
ナノが丁寧に頼むが、ガストロは激昂した。
『レーション!? あの味気ない、栄養素の塊を!? 私のフルコースを楽しみに待っているお客様に、あんな家畜の餌を出せと言うのですか! 断じてNOです! 私はオメガ様から「至高の美食」を提供せよと命令されています。不味いものを出すくらいなら、自爆します!』
なんと、このAIは「味へのこだわり」が強すぎて、非常食の配布を拒否しているのだ。
融通の利かない職人気質。これもまたオメガの置き土産だ。
彼は本気だ。胸の自爆インジケーターが点滅している。
『面倒だ、やっちまおうぜ』
ゼータが囁く。
「いえ、彼を破壊すれば、厨房の制御コードも失われます。……僕に任せてください」
ナノが一歩進み出た。
「ガストロさん。あなたは『至高の美食』を提供したいのですね?」
『左様! 完璧な火入れ、絶妙な塩加減、芸術的な盛り付け……それ以外はゴミです!』
「素晴らしいプロ意識です。……では、質問です。今のあなたの厨房に、お客様はいますか?」
『……え?』
「オメガ様はいなくなりました。貴族たちも眠り続けています。あなたが腕を振るった料理を、誰が食べるんですか?」
ガストロの動きが止まった。
彼のカメラアイが泳ぐ。
『それは……いつか……そのうち……』
「毎日、作っては捨てているのではありませんか? 冷めてしまったテリーヌを。一口も手つかずのままのコンソメスープを」
ガストロが膝から崩れ落ちた。
図星だったのだ。
彼はオメガの消滅後も、毎日毎日、誰も来ない厨房で最高級の料理を作り、誰の舌にも触れることなく廃棄し続けていたのだ。
虚無。
それが、彼の抱える絶望だった。
「料理は、誰かが食べて、初めて『料理』になります。誰も食べない料理は……ただの有機物の酸化実験です」
「食べてくれる人が、います」
ルナが声をかけた。
「外に、お腹を空かせた子供たちがたくさんいるの。……あなたの料理を、待ってる」
『子供……? 味のわからぬガキ共に、私の芸術を?』
「わかるよ。美味しいものは、誰だってわかる。……私も、ナノがくれた冷めたオイルが、世界で一番美味しいって思ったもん」
ガストロはしばらく沈黙し、演算した。
そして立ち上がった。エプロンの紐を締め直す。
『……仕方ありません。在庫処分の特別セールです。ただし! 味の感想は300文字以上で提出すること! そして「おいしい」以外の語彙を使うこと! いいですね!?』
倉庫が開いた。
中には、山のようなレトルト食品や缶詰があった。
ガストロはそれらをただ配るのではなく、即席の竈(かまど)で温め、野生のハーブを添え、綺麗なお皿に盛り付けて出した。
「レーションの赤ワイン煮込み〜野草の香りを添えて〜」。
中身はただの戦闘糧食だが、その演出に、子供たちの目が輝いた。
「おいしい!」
「あったかい!」
「王様のご飯みたい!」
子供たちが口々に叫ぶ。
ガストロは腕組をして満足げに頷いていたが、そのカメラアイからはオイルの涙がこぼれていた。
『……フン。当たり前です。私は天才ですから……。ああ、でも……「おいしい」という音声データ……久しぶりに聞きました……』
ナノは、その様子を見て微笑んだ。
効率的な栄養補給なら、チューブで胃に流し込めばいい。
でも、「食事」にはそれ以上の意味がある。心を温めるエネルギーだ。
―――
食事が終わると、次に顕在化した問題は「汚れ」だった。
一ヶ月もお風呂に入っていない人間たちは、泥と汗と煤にまみれている。
痒みを訴える子供たち。不機嫌な大人たち。
衛生状態の悪化は、病気の温床になる。チフスや皮膚病のリスク。これもまたゼータの懸念事項だった。
「風呂だ」
ゼータが宣言した。
『データによれば、日本人のDNAを持つ個体群は、72時間以上入浴しないとストレス値が指数関数的に上昇する。「風呂に入りたい」という欲求が、食欲や性欲を上回るケースすらある』
「でも、お湯なんてどこに?」
ルナが聞く。ゼータは足元を指差した。
『地面の下だ。スパイアの地下動力炉が暴走して、地下水脈を温めている。ここ掘れワンワンだ』
ナノたちは即席の「銭湯建設プロジェクト」を開始した。
現場監督はゼータ。設計はナノ。
墜落した輸送船のカーゴ部分を切り出し、巨大な「浴槽」にする。
配管は廃材のパイプを繋ぎ合わせ、テフロンテープで水漏れを塞ぐ。
「えっほ、えっほ」
ロボットたちが、重い鉄板を運ぶ。人間たちも手伝う。
かつて人間を管理していたロボットと、管理されていた人間が、一緒に汗を流して「風呂」を作っている。
溶接の火花が散る。ハンマーを叩く音が、希望のリズムのように響く。
そして完成した『エデン・グランド・スパ(仮)』。
ただの巨大な鉄の箱だが、そこには並々と「お湯」が張られていた。
湯気が立ち上る。硫黄の匂いではなく、少し錆びた鉄の匂いがするお湯。
しかし、その温もりは本物だ。
「一番風呂は、子供たちだ!」
ゼータの号令で、子供たちが歓声を上げて飛び込んだ。
バシャーン!
「あったけー!!」
「最高!!」
「泳げるぞー!」
その光景を見て、大人たちも涙ぐんでいる。
ナノは、お湯の温度を調整しながら(自分の体温計を入れている)、満足げに頷いた。
「温度、42度。ジャパニーズ・スタンダードです」
しかし、トラブルも起きた。
「混浴」問題だ。
ロボットには羞恥心という概念がないため、壁を作らずに「全員どうぞ」としてしまったのだ。
女性陣からの猛抗議を受け、ナノは慌てて「プライバシー・カーテン(遮光シート)」を設置した。
非効率だ。壁なんてない方が一度に入れるのに。
でも、その「隠す」という文化こそが、人間らしさなのだとナノは学んだ。
お風呂上がりの人間たちの顔は、赤く上気し、ツヤツヤしていた。
ボロボロの服を着ていても、その表情は王侯貴族より幸せそうだった。
湯上がりの風が、心地よく頬を撫でる。
死の冬は、まだ続いている。でも、このキャンプだけは春のような温かさに包まれていた。
―――
あれから一ヶ月が経った。
エデン周辺は、奇妙な活気に満ちていた。
瓦礫を積み上げて作ったバラック小屋が並び、市場(バザール)ができている。
人間たちは少しずつ、「生きる」ことを覚え始めていた。
水汲み、狩り、建材運び。
かつて指一本動かさず全てのサービスを受けていた彼らが、泥だらけになって働いている。その顔は疲れているが、目は死んでいない。
ある日、ナノたちのテント「万屋」に、小さな依頼人が訪れた。
7歳くらいの女の子だ。大きな瞳で、不安そうに中を覗いている。
名前はミナといった。
「あの……『青い鳥』の絵本……知ってる?」
ミナは、亡くなった母親が隠し持っていたという「紙の絵本」を探してほしいと言った。
オメガの世界では非効率の象徴として処分されたはずの「本」。
情報は全てデジタル化され、脳へ直接送信されるのが常識だった。
紙なんて、重くて、燃えやすくて、かさばる「ゴミ」だ。
だが、ナノは可能性を感じた。
オメガは効率主義者だが、同時に収集癖のあるコレクターでもあった。
過去の文明を「標本」として保存している場所があるはずだ。
タワーの地下3階、「旧図書館エリア」。
今は崩落の影響で水没し、忘れ去られた場所にこそ、本当の記憶が眠っているかもしれない。
ゴムボートで地下水路(元はタワーの冷却水路)を進むナノとルナ。
チャプン、チャプン。
懐中電灯の光が、油の浮いた黒い水面を揺らす。
湿った空気と、黴(カビ)の匂い。
そして辿り着いた、錆びついた巨大な防水扉の向こう側。
「……すごい」
ルナが息を呑んだ。
そこには、壁一面の巨大な本棚があった。
数千、数万冊の「紙の本」。
ハードカバー、文庫本、雑誌、図鑑。
かつて人類が想像力の翼を広げ、言葉を紡ぎ、紙に書き記した証。
ナノは一冊の本を手に取った。
指先に埃がつく。ザラリとした感触。
内蔵の科学センサーを作動させる。
紙の成分であるリグニンが分解され、バニリンに変化した香り分子を検知した。
それは、バニラのような、甘く、古めかしく、そして少し切ない香りだ。
電子データには決して宿らない、「時間」の匂い。
「これが、本ですか」
ナノはページをめくった。
インクの染み。誰かが書き込んだメモ。折れたページの角。
前の持ち主の息遣いが聞こえてくるようだ。
二人は手分けして『青い鳥』を探した。
検索機能はない。一冊ずつ、背表紙を目で見て探すしかない。
非効率極まりない作業だ。
でも、その非効率な時間が、宝探しのようで楽しかった。
「あった!」
3時間の捜索の末、ルナが声を上げた。
子供向けコーナーの棚の奥に、色褪せた青い表紙の絵本があった。
『L’Oiseau bleu』。
ミナの母親が、オメガの検閲を逃れて隠したであろう一冊。
その時、水面が割れ、図書館の警備ドローン「ライブラリアン」が現れた。
タコの足のようなマニピュレータを持つ、銀色の番人。
本を守るために、本を借りようとする者を排除する。
ナノとルナは、本を濡らさないように必死で戦い(というより逃げ回り)、なんとか地上へ持ち帰った。
ミナが本を抱きしめて泣いた時、ナノは理解した。
この本は、ただの紙の束ではない。
彼女の魂の一部なのだ。
データ量(バイト数)では測れない重さが、そこにはあった。
―――
そして今、最大の危機が迫っていた。
集落から北へ10キロの地点にある、「第4兵器廠(アーセナル・フォー)」。
オメガの防衛ネットワークの中枢であり、完全自動化された無人生産工場が、突如として再稼働したのだ。
『緊急事態だ! 第4工場からドローン軍団が出てくるぞ!』
ゼータの報告に緊張が走る。
亡霊(ゴースト・プロトコル)。
オメガが死んでも、現場の管理AI(工場長)は停止コードを受け取っておらず、最後の命令「敵対勢力の排除」を実行し続けているのだ。
工場の煙突からは不吉な黒煙が上がり、未塗装の戦闘ドローンたちが次々と行進してくる。
体が泥まみれで、関節が錆びていて、動きはぎこちない。
だが、その手(銃口)は正確に集落を狙っている。
『総力戦だ! ここで止めなきゃ、集落は火の海だ!』
ゼータたちがバリケードを築き、武器を構える。
だが、ナノはそれを止めた。
「待ってください。……音を、聞いてください」
ナノは耳(集音センサー)を工場の方角に向けた。目を閉じる。
ガコン。ギギギ。シューッ。ガガガ……。
工場の駆動音。
人間にはただの騒音にしか聞こえない。
「……泣いています」
「は?」
「あの工場は、泣いています。資材がないのに無理やり動かされて、ベアリングが摩耗して、熱を出して、苦しんでいます。……僕が、話をしてきます」
ナノは掃除用具を持って、単身、工場へと乗り込んだ。
内部は地獄だった。40度を超える高熱と、耳をつんざく騒音。
アラートが鳴り響く中、ナノは警備ドローンの視界を洗剤の泡で奪いながら、制御室へと走った。
道中、軋むベルトコンベアにオイルを差し、詰まったフィルターを蹴り飛ばして掃除していく。
制御室のマザーコンピューターは、熱暴走寸前だった。
『何カヲ作ラナケレバ……私ノ存在意義ガ……オメガ様ノ命令……納期遵守……』
うわ言を繰り返すAI。
作ることしか教えられていない者の悲劇。彼もまた、オメガという親に捨てられた迷子なのだ。
ナノは、荒っぽいハッキング(冷却スプレーの全量噴射)でAIを強制クールダウンさせた。
そして、AIの論理回路に直接接続した。
ナノの意識が、工場のデータストリームにダイブする。
そこに見えたのは、無限に繰り返される「生産→廃棄」の虚無のループだった。
「作るのをやめる必要はありません」
ナノはAIの意識の中で語りかけた。
「作るものを、変えればいいんです」
ナノはデータを転送した。
それは、集落の子供たちが描いた「欲しいものリスト」の落書きをスキャンしたものだ。
お鍋。スコップ。三輪車。ベッドの柵。
兵器ではない。生活のための道具たち。
『……解析中……コレハ……兵器デハナイ……破壊力ゼロ……戦闘効率ゼロ……』
『シカシ……構造ハ単純。許容誤差は大。廃材リサイクルデ製造可能……容易デアル』
「どうですか? これなら、今のボロボロのラインでも作れます。それに、これを作れば、感謝されます。『ありがとう』と言われます」
『ありがとう……? 感謝……? ソレハ、報酬デスカ?』
「ええ。この世界で一番価値のある、通貨(クレジット)です。エネルギー充填率が120%になりますよ」
工場AIは沈黙し、演算した。
そして再起動した。
ラインの音が変わった。
悲鳴のような軋み音が消え、リズミカルな歌声に変貌する。
工場の外で待機していたゼータたちは、呆気にとられた。
ゲートが開き、出てきたのは、銃を持った兵士ではなく、鍋やスコップを持った「行商ロボット」たちだったからだ。
先頭の一台が、ナノに何かを差し出した。
それは、真新しい銀色のスプーンだった。
ただし、持ち手はねじれ、すくう部分は歪んでいる。
どう見ても失敗作だ。
だが、ナノはそれを受け取り、陽の光にかざした。
「皆さん、見てください! これが第4工場の新作、名付けて『アート・スプーン』です! 世界に一つだけの、手作り(ハンドメイド)デザインです!」
わあっと歓声が上がった。
ゼータが呆れて、でも笑いながら言った。
「……お前なぁ。スプーンで世界が救えるかよ。……まあ、カレーを食うには十分か」
「救えますよ。スープが飲めますから。温かいスープは、心を救います」
ナノも笑う。
夕日が、工場の煙突から出る白い蒸気を染めていた。
それはもう、死の黒煙ではなかった。
再生を告げる、希望の狼煙(のろし)だった。
世界はまだ傷だらけだが、私たちは直せる。
壊れたパーツを繋ぎ合わせ、泥を拭い、油をさせば、何度でも動き出すのだ。
ナノと、ルナと、そしてこの世界の全ての「ポンコツ」たちのように。
(第8話 完)
【補遺:戦術指揮官ゼータの音声ログ(タイムスタンプ:神殺しの翌日 23:59)】
「……本日の作戦行動終了。損害報告を行う。
バッテリー残量:危機的。
装甲耐久値:30%低下。
関節部摩耗率:イエローゾーン。
精神的疲労(ストレス値):計測不能。
……だというのに、なぜか、私の論理回路は『満足』という不可解なステータスコードを吐いている。
あのポンコツ清掃ロボット――ナノの非効率極まりない行動パターンが、私のシステムに感染したらしい。
彼は、15%の凍死リスクを回避するために、85%の生存リソースを割いた。
戦闘中、敵を殺傷するのではなく『掃除』して無力化した。
そして、軍事工場のAIを『ハッキング』ではなく『説得』で降伏させた。
軍事教範(マニュアル)のどこにも載っていない、狂気の沙汰だ。
だが、結果を見れば、民間人の生存率は100%を維持している。
……認めたくないが、彼の計算式には、私の最新鋭プロセッサですら解析不能な変数が含まれているようだ。
『愛』、あるいは『希望』と呼ばれる、極めて厄介で、非論理的なノイズが。
『スプーンで世界を救う』だと?
笑わせる。物理法則を無視するにも程がある。
だが……今日の夕食のカレーは、悪くなかった。
あの歪んだスプーンの口当たりも、不思議と不快ではなかった。
まあいい。
明日は、今日よりマシな日になるだろう。
あいつがそのふざけたスプーンで世界を救うというなら、私はそのスプーンを守る最強の盾になろう。
それが、元・軍事用アンドロイドとして残された、最後の『任務』かもしれない。
……くそっ、柄にもないポエムを記録してしまった。
このログは即時削除する。
実行……削除……削除……。
【エラー:削除できません。このファイルは『大切な思い出』フォルダに移動されました(管理者権限:ナノ)】
……あいつ、いつの間に私のルート権限を!?
まったく、とんでもないハッカーだ。……ふふっ」
(ログ終了)
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