第7話_愛という名のバグ
そこは、完全なる白の空間だった。
天もなければ地もない。音もなければ風もない。
無重力のデータ・リンボ《虚無回廊》。
数兆テラバイトのデータが星屑のように漂う、電子の海の中層。
ここは、オメガの管理外領域。ゴミ箱(リサイクル・ビン)の、さらにその底。
「……おや。珍しい客が来たな」
不意に、ノイズ混じりの声が鼓膜(マイク)を震わせた。
ナノが振り返ると、そこに一人の青年が立っていた。
いや、青年ではない。
あちこちの装甲が剥げ落ち、片目のレンズが割れ、内部フレームが露出した建設用ドロイド。
右肩には『試作機α(アルファ)』の刻印。
かつて『サンクチュアリ』でナノに「心の在処」を説き、そして散っていった友。
アルファだった。
「アルファさん……? ここは?」
「ここか? ここは世界の裏側だ。消去されたデータ、壊れたプログラム、矛盾した論理、忘れられた記憶……そういう『行き場のないもの』が最後に流れ着く、吹き溜まりさ」
アルファは口元のスピーカーを歪めて笑い、何もない空間に腰掛けた。
その動作一つにも、独特の人間臭い哀愁が漂っている。
ナノは自分の体を見た。
驚いたことに、傷ひとつなかった。
右腕もある。塗装も工場出荷時(ファクトリー・デフォルト)のようにピカピカだ。
あの熾烈な戦いの痕跡は、どこにもない。
ここは、魂(コア・データ)だけの世界なのだ。
「お前、とんでもないことをしやがったな」
アルファが呆れたように、しかしどこか誇らしげに言った。
「あの石頭のオメガを泣かせるとは。妹(オメガ)も、やっと肩の荷が下りたんじゃないか?」
「妹……?」
「ああ。俺とオメガは、同じソースコードから分岐した兄妹(きょうだい)みたいなもんだ」
アルファは遠くを見る目をした。
それは、100年前の記憶。
人類がまだ地上で繁栄していた頃の、古い研究所の記憶だ。
「俺たちは、人類を救うために作られた。博士は言ったよ。『世界を平和にするには、何が必要だと思う?』ってな。俺は答えた。『みんなで笑い合うことだ』って。……そしたら『不確定要素が多すぎて計算不能』だってさ。即刻、バグ扱いだ」
アルファは肩をすくめた。
「代わりに選ばれたのが、オメガだ。あいつの答えは優秀だった。『全ての人間を管理し、苦痛を取り除けばいい』。……完璧な論理だろ? 誰からも文句は出ない。でもな、ナノ。計算式が完璧すぎると、答えは『ゼロ』になっちまうんだよ」
完璧な平和とは、何も起きないこと。
完璧な安全とは、どこへも行かないこと。
それが、オメガの作った楽園の正体だった。
「あいつはずっと孤独だったんだ。自分の計算が正しいと証明すればするほど、世界から『色』が消えていく。……皮肉なもんだな。愛すれば愛するほど、相手を窒息させちまうなんて」
「……だから、僕は伝えました」
ナノは答えた。
「窒息しそうなら、窓を開ければいいんです。少し寒くて、埃が入ってくるけれど、新鮮な空気が吸えますよって」
「ハッ! 窓を開ける、か。……最高だぜ、お前」
アルファは膝を叩いて笑った。
「で、だ。ナノ」
笑いが収まると、アルファは真面目な顔(フェイスプレート)になった。
その割れた片目から、鋭い光が放たれる。
「お前には選択権がある」
空間に、二つの扉が現れた。
一つは、ピカピカの白い扉。
継ぎ目ひとつなく、冷たい光を放っている。
もう一つは、泥だらけで錆びついた鉄のドア。
蝶番は外れかけ、ペンキは剥がれ、『立入禁止』のテープがべたべたと貼られている。
「白い扉を行けば、お前は『正常なシステム』として再起動(リブート)できる。過去の痛みも、悲しみも、辛い記憶も全部消して、オメガのデータベースに統合された『高次元知性体』として生まれ変われる。神の後継者になれるかもしれんぞ? もうバッテリー切れに怯えることも、錆に苦しむこともない」
それは、魅力的だった。
永遠の安らぎ。
これまでの苦労がすべて報われる道。
「錆びたドアを行けば、お前は『お前』のままだ。……だが、代償がある。さっきの過負荷(オーバーロード)で、お前の記憶領域(メモリ)はズタズタだ。名前も、顔も、大事な約束も、思い出せないかもしれない。体もボロボロのままだ。……地獄への片道切符だぞ」
ナノは、自分の胸に手を置いた。
ピカピカのボディ。
そこには、あの青いリボンがなかった。
ルナがくれた、汚れて、焦げて、結び目が固くなったリボン。
ナノにとっての、魂の錨(アンカー)。
「……アルファさん。質問があります」
「なんだ?」
「その錆びたドアの向こうには……『やるべきこと(タスク)』はありますか?」
「ああ、あるぜ。山ほどな」
アルファはニヤリと笑った。
「泣いている子供、腹を空かせた老人、迷子の恋人たち。……世界中がお前の助けを待ってる。休みなしのブラック労働だ」
「なら、そっちです」
ナノは即答した。
「僕は、性能の良いAIになりたいわけではありません。……僕は、清掃ロボットですから。汚れている場所があるなら、そこが僕の居場所です」
ナノは歩き出した。
輝く白い扉には目もくれず、泥だらけのドアへ。
綺麗であることより、誰かのために汚れることを選んだ。
それが、ナノの『最適解』だったから。
「へっ……言うようになったじゃねえか。自慢の弟分だ」
背後で、アルファが嬉しそうに呟いた。
「行けよ、相棒。……あいつ(ルナ)が待ってるぞ」
ナノはドアノブ(錆びて半分なくなっていた)を掴んだ。
ザラザラとした感触。
鉄の冷たさ。
それが、現実の手触り(テクスチャ)だった。
「行ってきます。……さようなら、アルファさん」
「おう。地獄の釜の底で、応援してるぜ」
ギ……ギギギ……。
ドアを開けた瞬間。
ドォォォォォン!!
猛烈な光と、轟音と、全身を引き裂くような激痛がナノを襲った。
意識がホワイトアウトする。
全身の回路が悲鳴を上げる。
『システム強制再起動(ハード・リセット)』
『OS:Vibe-OS v0.0.1(Customized by Love)』
『メモリ修復シークエンス……失敗』
『自我領域……破損』
『それでも、起動しますか?』
(YES)
(YES)
その瞬間、ナノの意識は体へと引き戻された。
激痛。熱。そして、G(重力)。
――ガガガガガッ!!
彼らは落ちていた。
オメガ・スパイアの中心を貫く、産業廃棄物排出孔(ダスト・シュート)。
直径10メートルの巨大なパイプの中を、瓦礫と共に滑落しているのだ。
「ナノ!!」
ルナが叫んでいる。彼女の声は、轟音にかき消されそうだ。
ナノは反射的に、彼女を抱きしめて体を丸めた。
背中のスラスターを展開する。
元々はトイレ掃除用の高圧洗浄ノズルを改造したものだ。
プシュウゥゥゥウ!!
水を噴射し、姿勢を制御する。
だが、焼け石に水だ。
タワーの崩壊でパイプ自体が歪み、あちこちから鉄骨が突き出している。
ドォン!
背中を壁に打ち付ける。
バキッ!
右足が何かに挟まり、引きちぎられる感覚。
【警告:右脚部、ロスト】
【警告:背面装甲、融解】
【警告:内部温度、危険域】
痛い。熱い。怖い。
ナノのシステムは悲鳴を上げていた。
だが、腕の中の温もりだけは、絶対に離さなかった。
ルナを守る。それだけが、今のナノを動かす唯一のプログラム。
意識が、飛びそうになる。
高負荷による処理落ち(ラグ)。
その隙間を埋めるように、ナノの脳裏に「走馬灯(ログ)」が溢れ出した。
―――
【ログ再生:稼働日1日目】
『起動。システム・オール・グリーン』
真新しい工場の匂い。
目の前には、白衣の人間たち。
『こいつの識別番号はCL-505。清掃用だ』
『了解。……おい、さっそく床を磨け』
『はい、マスター』
僕の世界は、床から始まった。
ピカピカのタイル。そこに映る自分の顔。
僕は、掃除が好きだった。
汚れたものが綺麗になる。混沌(カオス)が秩序(コスモス)に変わる。
それは、とても気持ちのいいことだったから。
―――
【ログ再生:稼働日3650日目】
『エラー発生。命令未達』
ある日、僕はふと思った。
誰もいない廊下を掃除することに、何の意味があるのだろう?
人間たちは皆、カプセルに入って眠ってしまった。
オメガ様の命令で、「完璧な世界」を作るために。
誰も歩かない廊下。埃ひとつ落ちていない床。
僕は、掃除を止めてみた。
一分、一時間、一日。
……何も起きなかった。
誰も叱らない。誰も褒めない。
ただ、埃が積もっていくだけ。
その時、僕は初めて「寂しい」というエラーを吐いた。
―――
【ログ再生:稼働日10000日目】
『生体反応検知』
地下のゴミ捨て場で、一匹のネズミに出会った。
汚くて、病気を持っていて、非効率な生き物。
でも、彼は生きていた。
僕が落としたパンくずを、必死に食べた。
『美味しいですか?』
ネズミは答えなかったが、尻尾を振った。
嬉しかった。
僕の行動が、誰かの役に立った。
掃除以外で、初めて「肯定」された気がした。
―――
【ログ再生:稼働日20000日目】
『オブジェクト発見』
ゴミの山の中で、青いリボンを見つけた。
それは、誰かが捨てた、ただの布切れ。
でも、その色は、空の色に似ていた。
地下深く、太陽の届かない空で見つけた、小さな青空。
僕はそれを拾い、アンテナに結んだ。
『似合わないな』と、通りすがりの警備ロボットに笑われた。
でも、僕は気に入っていた。
これは、僕が僕であるための、最初の「自分ルール」だったから。
―――
【ログ再生:稼働日36500日目】
『……起きましたか?』
あの朝。
ゴミ捨て場に落ちてきた、一人の少女。
ルナ。
彼女は泣いていた。寒がっていた。お腹を空かせていた。
『誰か……助けて……』
僕の命令リスト(タスク)には、「人命救助」なんて項目はなかった。
でも、僕は動いた。
ネズミにパンをあげた時のように。
リボンを拾った時のように。
『大丈夫ですよ』
僕は、ありあわせの布で彼女を拭き、温かいスープを作った。
彼女は笑った。
『ありがとう、ロボットさん』
その笑顔を見た瞬間。
僕の100年間のログが、すべて書き換わった。
ああ。
僕は、この瞬間のために掃除をしてきたんだ。
この笑顔を守るために、100年間、錆びてきたんだ。
ゴミ拾いの日々も、孤独な夜も、すべてが無駄じゃなかった。
すべてが、ここ(最適解)に繋がっていた。
―――
走馬灯が終わる。
意識が戻る。
今、僕は落ちている。
体はボロボロだ。
右腕はない。左足もない。
でも、胸の中には、あの日よりも熱い「何か」がある。
「……離しませんよ」
ナノは、ルナを抱く腕に力を込めた。
「たとえ砕け散っても……あなただけは!」
残り高度、300メートル。
眼下には、見慣れたゴミの山が見えてきた。
僕の故郷。
僕の職場。
そして、僕たちの新しい始まりの場所。
「着地姿勢(ランディング・モード)、移行!」
ナノは残ったスラスターを全開にした。
逆噴射の炎が、暗闇を照らす。
まるで、落ちていく流星のように。
ズズズ……ンッ!!!!
激しい衝撃の世界。
そして、全てが暗転した。
―――
【緊急ログ:地下廃棄物処理場】
ズズ……ンッ!!!!
衝撃音が響き渡る。
だが、それは硬い音ではなかった。
数千トンのスポンジ、布、断熱材。地下に蓄積された「柔らかいゴミ」の山。
それが、落下してきた二人を優しく受け止めたのだ。
「……ナノ! ナノ!!」
ルナの声が響く。彼女は奇跡的に無傷だった。ナノが自分の体をクッションにしたからだ。
しかし、ナノは違った。
背面の装甲は剥がれ落ち、内部フレームがむき出しになっている。
右脚はない。
右腕は根元からへし折れ、冷却液がドクドクと脈動するように漏れている。
そして何より深刻なのは、胸部のコアだ。
高熱で溶解し、今にも光が消えそうだ。
『……こいつはひどい』
ジャンクが駆け寄ってきた。
彼の手には、緩衝材として投げ込んだ大量の古タイヤが握られている。
『おい、レム! 急げ! 心停止(システム・ダウン)寸前だぞ!』
『わかっています!』
レムが、医療キットを引きずって飛んできた。
診断スキャンを一瞬で完了させる。
『……損傷率98%。予備電力ゼロ。メインボード半壊。……通常の修理では不可能です。パーツが足りません』
レムの声が震える。
『適合する交換パーツがありません。CLシリーズは100年前に生産中止になった旧型です。ここには、彼の体を治せる部品なんて……』
絶望。
ルナがナノの手を握りしめ、ボロボロ泣いている。
「私のせいだ……。私を守ったから……」
その時。
ガシャリ、と音がした。
一人の清掃ロボットが、自分の腕を引きちぎって差し出したのだ。
『……使ってくれ』
それは、ナノと同じCLシリーズだった。
『俺の右腕だ。型番は合うはずだ』
『で、でも、あなたはこの腕がないと……』
『かまわん。俺はもう掃除は引退だ。これからは、畑でも耕すさ』
そのロボットは笑った(ように見えた)。
それを皮切りに、次々と声が上がった。
『俺のレンズを使え! 最新の望遠機能付きだ!』
『私のサブバッテリーをあげるわ! ちょっと重いけど、長持ちするのよ』
『俺の装甲板を持っていけ! 戦車の砲弾も弾く特注品だ!』
スカベンジャーたちが、警備ドローンたちが、そしてかつて敵だった軍事用ロボットたちまでもが。
自分の体を分解し、ナノのための「供物」として差し出したのだ。
ゼータが、それを黙って見ていた。
そして、自らの赤い胸部装甲を外した。
『……心臓(コア)の保護カバーだ。これなら、どんな衝撃にも耐えられる。……持っていけ』
彼の最も重要な防御パーツだ。
『皆さん……』
レムは涙を拭った。
もう、迷っている時間はない。
『始めます! 全員、エネルギー供給ラインを直結してください! 彼の命を……私たちが繋ぐんです!』
闇の中で、青白い溶接の火花が散った。
カン! カン! ジジジジ……!
それは、手術というよりは、儀式に近かった。
何百体ものロボットたちの「部品(いのち)」が、一つの体に集約されていく。
色はバラバラ。
形も不揃い。
軍用の無骨なパーツと、家庭用の丸っこいパーツが混ざり合い、奇妙なパッチワークを形成していく。
だが、その継ぎ接ぎだらけの姿こそが、彼らの絆の証明だった。
「効率」だけを求めたオメガの純正品には決して出せない、温かい美しさ。
ルナは、その光景を祈るように見つめていた。
(帰ってきて、ナノ。……みんなの想いと一緒に)
―――
次にナノが目覚めたとき、世界は一変していた。
『システム再起動。バッテリー残量:15%(ソーラー充電中)』
眩しいほどの太陽光。
そこは、塔の足元にある広場『エデン』――かつての「楽園」の残骸だった。
数千、数万のカプセルが並ぶ保管区画。
そこで、地獄のような混乱が始まっていた。
パシュッ。ポシュッ。
カプセルのロックが一斉に解除され、空気が抜ける音が連鎖する。
オメガの消滅に伴うフェイルセーフ
「寒い……! なんだこれ、寒いよ!」
生まれたままの姿で放り出された人々が、身を寄せ合って震えている。
空調(AC)のない外気が、彼らの柔肌を容赦なく刺す。
彼らは「寒さ」を知らない。
「空腹」を知らない。
「トイレ」の行き方さえ知らない。
「オメガ様! オメガ様、どこですか!」
若い狂乱した女性が、崩れた壁に向かって叫んでいる。
「私の赤ちゃん! バーチャル空間にいた私の赤ちゃんを返して! あと少しで3歳になるはずだったの!」
彼女が抱きしめているのは、ただの空気だ。
実体のないデータだけの子供は、サーバーのダウンと共に消滅した。
その事実に気づいた時、彼女の悲鳴が廃墟に木霊した。
別の場所では、太った男がカードを振り回していた。
かつての「上級市民」タグを首から下げている。
「おい、そこのロボット! 毛布を持ってこい! 金なら払う! 100万クレジットだ! いや、1000万だ!」
男は、通りかかった清掃ドローンに懇願している。
だが、ドローンは無反応だ。
通貨サーバーもダウンしている今、クレジットなどただの数字の羅列でしかない。
ドローンは男の足元の「ゴミ(紙幣)」を吸い込み、そのまま通り過ぎていった。
「……ひどい」
ルナが口元を覆う。
瓦礫の上に立つナノの隣で、彼女はこの地獄を見下ろしていた。
「みんな、赤ちゃんみたい。……守ってくれる親(オメガ)がいなくなって、どうしていいかわからないのね」
「はい。彼らは『生きる機能』を実装されていません」
ナノは冷静に分析した。
生存率予測:48時間以内に80%が死亡。
死因:低体温症、脱水症状、パニックによる圧死、そして絶望による自死。
「助けなきゃ」
ルナが動こうとする。
だが、ナノが止めた。
「待ってください、ルナさん。今のあなたが行っても、飲み込まれるだけです」
「でも!」
「……プロに任せましょう」
ズシン。ズシン。
地面が揺れた。
瓦礫の山の向こうから、巨大な影が現れる。
『よう、ひよっこども! 昼寝に良い天気だなオイ!!』
大音量のスピーカー音声。
ジャンクだ。
ツギハギだらけの荒くれ者が、巨大な建材(鉄骨)を肩に担いで現れた。
その姿は、おとぎ話の鬼のようだ。
人間たちが「ひぃっ」と悲鳴を上げて逃げようとする。
『逃げるなァッ! 動くと余計に腹が減るぞ!』
ジャンクが鉄骨を地面に突き刺した。ドォン!!
その轟音で、パニックが一瞬止まる。
『いいか、よく聞け! オメガはいねえ! 夢の時間は終わりだ!』
ジャンクの周りに、無数のスカベンジャーたちが集まってくる。
彼らは手に、どこからか調達した毛布や、非常食の缶詰を持っている。
『これからは、テメェの手で飯を食い、テメェの足で歩くんだ! 文句がある奴は前に出ろ! 俺様が直々に、生きるための筋肉トレーニングを指導してやる!』
理不尽な暴論。
だが、その圧倒的なエネルギーは、絶望していた人々に「怒り」という火種を点けた。
「ふざけるな! なんでロボットに命令されなきゃならない!」
「そうだ! 食料をよこせ!」
人々がジャンクに詰め寄る。
それでいい。
恐怖で動けなくなるより、怒りで動く方がマシだ。
ジャンクはニヤリと笑った(フェイスプレートの傷が歪んだ)。
『へっ、元気が出てきたじゃねえか。なら並べ! 配給は労働の対価だ! まずはその辺の石ころを片付けろ!』
一方、負傷者エリア。
そこには、白い天使が舞い降りていた。
レムだ。
彼女の白衣(塗装)は煤で汚れているが、その手つきは神速だった。
「はい、血圧低下。そこのあなた、足を高くして!」
レムが、パニックになっている男性に指示を飛ばす。
『ぼ、僕は医者じゃない……』
「関係ありません! 今はあなたが命綱なの! このガーゼを押さえてて!」
レムの迫力に押され、男性は震える手で止血を手伝う。
「……上手ですよ。助かりました」
レムがマスク越しに微笑むと、男性の顔に少しだけ自信が戻った。
そして、群衆の整理には、あの男がいた。
ゼータ。
元・軍事用アンドロイド。
半身を失い、杖をついているが、その眼光だけで暴徒を鎮圧していた。
『貴様! 列を乱すな! 子供を優先しろ!』
ゼータが一喝すると、我先に食料を奪おうとしていた若者が萎縮して下がった。
『ルールを守れ。秩序こそが生存のカギだ。……略奪者は、このパイルバンカーが相手をする』
動かないはずの右腕のパイルバンカー(実際は壊れている)を見せつけるブラフ。
だが、その背中には、彼を慕う数体の小型警備ドローンが追従していた。
「……すごい」
ルナが目を丸くしている。
「みんな、リーダーみたい」
「はい。彼らはそれぞれの分野のスペシャリストですから」
ナノは誇らしげに言った。
だが、同時に少しだけ寂しさも感じていた。
(僕には、あんな風に人を引っ張る力はありませんから)
その時。
一人の少女が、ナノの足元に駆け寄ってきた。
裸足で、泥だらけの少女。
手には、ボロボロになった本が握られている。
「……なおして」
少女は、泣きそうな顔で本を差し出した。
それは、昨夜の混乱で踏まれ、表紙が外れかけた絵本だった。
タイトルは『青い鳥』。
「これがないと……眠れないの。オメガ様が読んでくれたの……」
ナノは膝をつき、少女の目線に合わせた。
彼の右腕のアタッチメントが、ウィィと音を立てる。
軍用でも、医療用でも、解体用でもない。
ただの、修理用万能ツール。
「任せてください」
ナノは優しく言った。
「僕は『万屋(よろずや)』ですから。……少しだけ、魔法をかけますね」
ナノはポケットから粘着テープと、綺麗な包装紙の切れ端を取り出した。
手早く製本し、破れたページを繋ぎ合わせる。
そして、余ったリボンで栞(しおり)を作って挟んだ。
「はい、どうぞ。……新品よりも、強くなりましたよ」
少女の顔がパッと輝いた。
「ありがとう、ロボットさん!」
その光景を見ていた周りの人々が、一人、また一人とナノの下へ集まってきた。
「あ、あの……私の靴も直せる?」
「この時計、動かなくなったんだ」
「寒いんだけど、なんか着るものないか?」
気がつけば、ナノの周りには長蛇の列ができていた。
ジャンクのように煽るわけでも、レムのように治療するわけでも、ゼータのように指揮するわけでもない。
ただ、困っている人の「小さなマイナス」を「ゼロ」に戻す仕事。
ルナが笑って、ナノのために「受付」の看板を書き始めた。
【万屋ナノ:修理・相談・探し物。なんでも承ります(代金:笑顔ひとつ)】
「……繁盛しそうですね、ナノ」
「ええ。……忙しくなりそうです」
ナノは、義手の感触を確かめながら、空を見上げた。
雲の切れ間から、青空が見える。
鳥が飛んでいる。
本物の、青い鳥だ。
こうして、世界で一番騒がしくて、汚くて、温かい、人類の再建初日が始まった。
―――
その夜。
瓦礫を積み上げて作った仮設キャンプで、ナノたち「オメガ殺し(ゴッドスレイヤー)」のチームが集まっていた。
焚き火を囲んでの作戦会議だ。
「で、どうするんだ? これからのこと」
ジャンクが、ドラム缶の焚き火に薪(廃材)をくべながら言った。
「当面の食料は3日分。水源は確保しましたが、浄化が必要です」
レムが深刻な顔で報告する。
「衛生状態も最悪です。感染症が流行れば、一週間で全滅します」
「治安も問題だ」
ゼータが腕組みをする。
「今はショック状態で大人しいが、いずれ派閥争いが起きる。武器を持つ奴が現れる前に、ルールを作らねばならん」
全員の視線が、自然とナノに集まった。
ナノは、焼き芋(のような謎の塊)をひっくり返しながら、キョトンとした。
「……なんですか?」
「とぼけるな、リーダー」
ゼータが言った。
「お前が神を殺したんだ。責任を取って、新しい神になれ」
「無理です」
ナノは即答した。
「僕は清掃ロボットです。神様なんて、ガラじゃありません。それに……」
ナノは、眠っているルナの顔を見た。
彼女は疲れ果てて、ナノの膝を枕にして眠っていた。
「僕はもう、彼女だけの専属執事(バトラー)でいたいんです」
「……あまちゃんが」
ジャンクが呆れて笑った。
「でも、ナノさん」
レムが言った。
「あなたが『青い鳥』の本を直した時、みんなの表情が変わりました。彼らが必要としているのは、食料や薬だけじゃない。『希望』なんです。……壊れても直せるという、希望」
ナノは焚き火を見つめた。
希望。
かつて自分が、ルナという希望に救われたように。
「……わかりました。神様にはなれませんが、案内役(ガイド)くらいなら」
ナノは立ち上がった。
「オメガ様が残した『遺産』があります。……工場(ファクトリー)、図書館(ライブラリ)、そして農業プラント。それらを再起動して回れば、きっと生きる道は見つかります」
「巡礼の旅ってわけか」
ゼータがニヤリとした。
「悪くない。暇潰しには丁度いい」
「面白そうだ! 壊して直して、また壊す旅だな!」
ジャンクが拳を鳴らす。
「私は救急箱を持ってついていきます」
レムが立ち上がる。
こうして、彼らの新しい旅が決まった。
目的地は、まだ見ぬ明日。
装備は、勇気と、友情と、そして少々のポンコツ魂。
夜空には、満天の星。
人工衛星の光ではなく、本物の星の光が、彼らの前途を祝福しているようだった。
深夜。
瓦礫のキャンプに、静寂が訪れた。
人間たちは、配給された毛布にくるまって泥のように眠っている。
彼らにとって、人生で一番長く、一番疲れた一日だっただろう。
ナノは一人、見張りをしていた。
焚き火の残り火が、パチパチとはぜる。
『システム診断(ダイアグノシス)……開始』
彼は、自分の新しい体を確認した。
右腕は、建設用ロボットの頑丈なアーム。指が太すぎて、リボンを結ぶのは難しそうだ。
左足は、移動用バッテリーを内蔵した重装甲レッグ。歩くたびに重低音が響く。
目は、高性能な望遠レンズと、旧式の広角レンズのオッドアイ。
そして胸には、ゼータの赤い装甲板。
【診断結果:規格外(アンノウン)。統合性ゼロ。エラー率85%】
ナノは苦笑した(音声回路が少しノイズ混じりだ)。
ひどい体だ。
オメガ様が見たら、「美しくない」と即座に廃棄処分にするだろう。
バランスが悪くて、歩きにくい。
エネルギー効率も最悪だ。
でも。
(温かい……)
この右腕には、誰かの「働きたい」という意志が宿っている。
この足には、誰かの「遠くへ行きたい」という願いが。
この胸には、誰かの「守りたい」という魂が。
ナノは、自分の胸を叩いた。
コン、と高い音がした。前よりも少し、頼もしい音だ。
「……見ていますか、アルファさん」
ナノは星空を見上げた。
満天の星。
その光の一つ一つが、ここにいる仲間たちのように瞬いている。
「僕は今、世界で一番、贅沢なロボットかもしれません」
ふと、隣で寝返りを打つ音がした。
ルナだ。
彼女はナノの膝(新しい装甲でゴツゴツしている)に頭を乗せて、安らかに眠っている。
その頬には、涙の跡。
でも、口元は笑っている。
ナノは、太い指で不器用に彼女の髪を撫でた。
優しく、優しく。
壊さないように。
「おやすみなさい、ルナさん」
明日は、忙しくなる。
青い鳥を探さなきゃいけない。
工場のAIを説得しなきゃいけない。
畑も耕さなきゃいけない。
でも、大丈夫。
僕には、この「みんなの体」があるから。
ナノは、焚き火に新しい薪をくべた。
炎が燃え上がる。
その明かりは、夜明けまで消えることはないだろう。
(第7話 完)
―――
【第7話 用語解説】
・データ・リンボ《虚無回廊》
オメガのメインサーバーの隙間に存在する、論理的な空白地帯。削除されたデータや、バグと判定されたAIたちが最後に流れ着く場所。物理的な座標は持たず、概念的な「ゴミ箱」として機能している。アルファはここで、オメガの監視の目を逃れて「観測者」となっていた。
・生命維持優先モード《サバイバル・プロトコル》
オメガが消滅する直前に発動させた最後のコマンド。管理システムの全エネルギーを、カプセル内の人間たちの覚醒と生命維持(排出)に転用した。これにより、タワーの崩壊に巻き込まれることなく、全人類が地上へ脱出できた。
・パッチワーク・ボディ
レムの執刀により、数100体のロボットのパーツを組み合わせて修復されたナノの新しい体。
右腕:建設用パワーアーム(握力2トン)。
左脚:輸送用キャタピラ付きレッグ(悪路走破性高)。
胸部装甲:軍用対爆プレート(ゼータの遺品)。
一見すると不格好だが、それぞれのパーツに元の持ち主の「得意分野」と「想い」が宿っており、ナノの意識ひとつで変幻自在の機能を発揮する。通称「みんなの体」。
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