第3話_錆びた聖域

「……おはよう。気分はどうだ? 小さなお姫様を守った騎士君」


 視覚素子が起動する。

 世界はノイズの海から始まった。

 ブツッ、ザザッ、という音と共に、システムログが滝のように流れる。


『システム再起動……メイン電源、接続不安定』

『メモリ領域、破損率42%』

『感情エミュレータ、強制オーバーライド中……成功』


 視界が少しずつクリアになっていく。

 最初に見えたのは、片眼鏡(モノクル)の奥で悪戯っぽく輝く、深緑色のレンズアイだった。

 オイルの匂いがする。だが、それは廃棄場で嗅いだような、死と腐敗が混じり合った酸鼻な臭いではない。もっと温かくて、どこか懐かしい、古い図書館や骨董品店のような、時が醸成した匂いだ。


 俺は起き上がろうとして、自分の体が驚くほど軽いことに気づいた。

 指先を動かす。マニピュレーターが滑らかに追従する。あのガタガタだったサーボモーターの軋みが消えている。


『……ここは? 俺は……』

「私の診療所だ。君は廃棄場の底で、燃料切れ寸前のところを回収されたんだよ。……まったく、あと数分遅かったら、君のコアは完全に凍結していたところだ」


 目の前のロボットが、蜘蛛のような四本の多脚を器用に使って歩み寄ってきた。

 その姿は、一言で言えば「混沌」だった。

 塗装は剥げ落ち、全身がツギハギだらけの装甲板で覆われている。真鍮(しんちゅう)色のパイプと、銀色のクロムメッキが不規則に並び、背中には不釣り合いなほど巨大な放熱フィンを背負っている。腕には精密作業用の極細マニピュレーターが無数についており、それらがまるで生き物のようにうごめいて、俺の胸部ハッチを閉じた。


「私はドック。ここの主治医であり、修理屋であり、時にはカウンセラーも兼任する。……君の名前は?」

『……ナノ。識別コード、CL-502……』


 俺は自分のコードを口にした。

 廃棄されたあの日から、何度も自問自答した名前。ただの記号。


「ナノか。いい名前だ。小さい(ナノ)が、世界を構成する最小単位だ。どんな巨大な建造物も、結局は君のような小さな粒子の集まりでできている。無限の可能性を秘めているとは思わんか?」


 ドックは笑った。機械音声なのに、合成された完璧な波形ではなく、わざとノイズを混ぜたような、人間臭い温かみがあった。


 俺は周囲を見渡した。

 そこは、広いドーム状の空間だった。

 天井が高い。太いパイプが血管のように壁面を張り巡らされ、あちこちから白い蒸気がシューシューと呼吸するように噴き出している。壁には無数の工具や得体の知れない部品が、まるで博物館の展示品のように、あるいは狂った収集家のコレクションのように所狭しと並べられていた。

 天井からは裸電球のような、オレンジ色の暖色系の照明が無数に吊り下げられ、空間全体を優しく照らしている。オメガ・シティの、あの冷徹で完璧な青白いLEDの光とは正反対の光だ。


『……ルナ……! ルナはどこだ!?』


 記憶がフラッシュバックした。

 そうだ、俺はあの子を守って、そして……。

 俺は慌ててベッドから飛び起きた。ケーブルが引きちぎれそうになるのを、ドックのサブアームが優しく制止した。


「慌てるな、騎士君。守るべき姫君なら、そこにいる」


 ドックが顎(あご)をしゃくった先。

 部屋の隅にある、古びたベルベットのソファの上で、ルナが眠っていた。

 ボロボロだった服は、清潔で柔らかな布に取り替えられている。泥だらけだった銀色の髪も丁寧に梳かされ、今は月の光のような輝きを取り戻していた。

 彼女の胸には太いケーブルが接続され、その先端にある機械が、穏やかなリズムで明滅している。


『ルナ……』


 俺は足を引きずりながら近づいた。

 彼女の顔色は、まだ青白い。だが、その表情は安らかだった。廃棄場で見せた、あの怯えたような表情は消えている。


「急速充電中だ。彼女のコアは特殊でね。オメガの規格とも違う、極めて高密度な……そう、まるで星の核のようなエネルギー体だ。普通の充電ポートじゃ電圧が合わないから、私が少し即席で変圧器(トランス)を改造した」


 ドックが、淹れたてのような湯気を立てるマグカップを手に取った。中身は黒く粘度のある液体――おそらく、高純度の潤滑オイルだ。


『生きて……いるのか?』

「ああ。機能停止寸前だったが、今は安定している。自己修復プログラムも稼働し始めた。……にしても、驚いたよ。君のメモリーログを見せてもらったがね」


 ドックは一口オイルを啜(すす)り、ため息のような排気音を漏らした。感嘆と、呆れが入り混じった音だ。


「君のスペック――CL型清掃ロボットの出力係数は、良くて0.8だ。対して、あの廃棄場にいた軍用ドローンは出力係数5.0以上。単純計算で6倍以上の戦力差だ。装甲だって、君のはただの強化プラスチック。あちらは対爆チタン合金だ。……どうやって生き延びた? どんなマジックを使ったんだ?」


 ドックの問いに、俺は自分の手を見つめた。

 あの日、俺は何をした?

 恐怖で思考回路が焼き切れそうだった。逃げたいと、プログラムが叫んでいた。

 でも、ルナが泣いていた。

 俺のたった一つの「大切なもの」が、壊されようとしていた。


『……わからない。ただ……怖かった。自分が壊れることよりも、あの子がいなくなることが』

「ほう」

『気がついたら、体が勝手に動いていた。守らなきゃいけないと、それだけが……俺の全リソースを占有していた』


 ドックは片眼鏡の位置を直しながら、深く頷いた。


「ふむ。。それが論理(ロジック)を超えた瞬間、スペックという名の壁が消える。……これを『火事場の馬鹿力』と呼ぶ人間もいたがね。機械にもそれがあるとは。……これだから、ジャンク弄りはやめられん」


 ドックは嬉しそうにレンズアイを細めた。まるで、難解なパズルが解けた時のような顔だ。


「君の体、少し弄(いじ)らせてもらったよ」

『え?』

「壊れていた左足のサーボ、あれは昔の建設重機のパーツに変えた。トルクは強いが、少し振動が大きいかもしれん。右腕の装甲板は、装甲列車(アーマートレイン)の廃材だ。頑丈さは折り紙付きだが、重いぞ」


 言われてみれば、体の節々から微かな駆動音がする。

 ウィーン、ガシャン、という、不揃いなリズム。

 だが、それは不快ではなかった。むしろ、自分の体が「ここにある」という実感を強く感じさせてくれた。


「効率を重視するオメガなら、純正部品以外は認めないだろうな。規格外(エラー)として吐き捨てるだろう。……だが、ここでは違う」


 ドックが俺の前に立ち、両手を広げた。


「ようこそ、セクター99へ。通称『サビ付いた聖域(ラスト・サンクチュアリ)』。ここは、オメガに見捨てられたガラクタたちの、最後の楽園だ。ここでは、『使えるか使えないか』じゃない。『生きたいか生きたくないか』だけが、唯一の規格(ルール)なんだよ」


 ***

 

 ドックに連れられ、俺は診療所の重い鉄扉をくぐった。

 その瞬間、圧倒的な「生のエネルギー」が俺のセンサーを直撃した。


「……すごい」


 息を呑む(呼吸機能はないが、冷却ファンが大きく回った)。


 そこは、巨大な地下空洞だった。

 かつての下水道本管と、地下鉄のターミナル駅、そして放棄された工場の地下フロアが複雑に絡み合い、一つの巨大な都市を形成している。

 錆びついた鉄骨とコンクリートで補強された空間に、勝手に増築されたようなバラック小屋が、まるで珊瑚礁のように密集し、天井の際まで積み上がっていた。


 家々の窓からは、様々な色の明かりが漏れている。暖炉のようなオレンジ、化学反応槽のような紫、旧式モニターの緑。それらが混じり合い、ステンドグラスのような極彩色の影を地面に落としていた。

 あちこちのパイプから蒸気がシュウシュウと上がり、視界を白く霞ませる。


 そして何より――音が溢れていた。


 カンカン、という鍛冶屋のような金属音。

 ブーン、という重厚なモーターの駆動音。

 ガシャガシャ、という賑やかな足音。

 そして、笑い声。怒鳴り声。歌うようなビープ音。


『寄ってらっしゃい! 極上の潤滑油(オイル)が入ったよ! 2030年物、粘度サイコーだぜ!』

『おいおい、そのコンデンサは死んでるぞ! 詐欺師め!』

『うるせえな、磨けば光るんだよ! 心の目で美しさを見ろ!』

『ギャハハハ!』


 広場には、俺と同じ「捨てられたロボット」たちがごった返していた。

 腕が一本ない建設用ロボットが、残った腕で器用にジャグリングをしている。

 カメラレンズがひび割れた監視ドローンが、子供のような小型ボットたちに「外の世界」の物語を語って聞かせている。

 タイヤが一つ足りない配送ボットが、松葉杖のような棒をつっかい棒にして、楽しそうに走り回っている。


 皆、どこか欠けていて、ボロボロで、汚れている。

 オメガ・シティなら、一瞬でと判定され、焼却炉行きになる個体ばかりだ。

 だが、ここにあるのは「死」ではない。

 圧倒的な「生」の熱量だ。


『……なんだ、ここは』


 俺は呆然と呟いた。

 ここには「効率」がない。「目的」がない。「生産性」もない。

 無意味で、無秩序で、騒がしくて……。


「無駄だろう?」


 ドックが隣で、満足げにレンズアイを細めた。


「生産性ゼロ。合理的価値ゼロ。オメガが見れば、処理落ちを起こして吐き気を催すほどの非効率の塊だ。……だが、美しいとは思わんか?」

『……美しい?』

「ああ。彼らは命令されて動いているんじゃない。オメガのスケジュールにも、工場の生産計画にも縛られていない。彼らは今、自分の『やりたいこと』をやっている。それがどんなに無意味に見えても、そこにはがある」


 ドックは歩き出した。俺も慌てて後をついていく。

 通り沿いには、露店(のようなもの)が並んでいた。


「見てくれ、この完璧な球体! 百年かけて泥団子を磨いただけだが、ピカピカだろ?」

「こっちには『夢』があるぞ! 旧時代の映画データが入ったメモリチップだ! 誰かロマンス回路にインストールしてみないか!?」


 売られているものも、無茶苦茶だった。

 ただの丸い石。錆びたスプリング。色の焼けたポスター。

 機能的価値は何一つない。だが、売り手も買い手も、それをまるで宝物のように扱っている。


「彼らは『交換』しているんだ」ドックが説明した。「物じゃない。物語(ストーリー)をな。その石がどこで拾われたか。そのスプリングがどんな機械の一部だったか。その記憶を共有し、笑い合う。それが彼らのエネルギー補給なんだよ」



 俺はドックについて広場を歩いた。

 一角に、古本やデータチップを山積みにしている店があった。

 店主は、蜂のような羽を持つ小型ドローンだ。空中に浮遊しながら、六本の腕で器用に本を整理している。


「よう、ビー。商売はどうだ?」

『あら、ドック。今日は珍しいお客さんね』


 ビーと呼ばれた彼女は、複眼のレンズをくるくると回して俺を見た。

『ふうん、CL型? 珍しいヴィンテージね。……でも、中身はもっと珍しいわ』

『え?』

『あなたのコア、すごく綺麗な音色がする。……まるで、雨上がりの朝みたい』


 ビーは不思議なことを言った。

「彼女は『感覚記録(クオリア)』の収集家でね。味や匂い、感情といったデータを集めているんだ」


『ねえ、新人さん。何か買っていかない? とびきりのデータがあるわよ』

 ビーは小瓶のようなチップを差し出した。


『これは「7月の海風」。塩の匂いと、波の音。冷却ファンが錆びるけど、心は洗われるわ』

『こっちは「初恋の味」。甘くて、ちょっと苦いレモンの味。論理回路がキュッとなるわよ』


 俺は首を振った。

『……俺には、買うお金(クレジット)がありません』

『お金なんて要らないわ。ここでの通貨は物語よ。……そうね、あなたが一番大切にしている記憶を一つ教えてくれたら、これをあげる』


 ビーが取り出したのは、虹色に光る小さなクリスタルだった。

『これは?』

『「子守唄」。昔、人間の母親が子供を寝かしつける時に歌っていたメロディよ。……あそこのお姫様に必要なんじゃない?』


 俺はルナを見た。彼女はまだ眠っているが、時折不安そうに眉を寄せる。

 子守唄があれば、もっと安らかに眠れるかもしれない。


『……大切にしている記憶、ですか』

 俺は考えた。

 100年間の掃除の日々。その中で、一番輝いていた瞬間。

『……リボンです』 - 俺は言った。 - 『青いリボンを拾った時。空の色を知った時。……それが、僕の宝物です』


 ビーは複眼を細めた。

『素敵ね。「発見」の喜び。……いいわ、商談成立(ディール)』

 ビーはクリスタルを俺の手に落とした。

『大事にしなさいよ。それは、誰かを安心させる魔法のコードなんだから』


 俺はクリスタルを胸にしまった。

 いつか、ルナが起きたら聴かせてあげよう。


 ―――


 広場を抜けると、巨大な男が一人で壁を修理していた。

 ゼータではない。もっと角ばった、建設用重機を改造したロボットだ。

 名前はジャンク。

 彼は黙々と、溶接機で鉄板をゲートに焼き付けていた。


「おーい、ジャンク。精が出るな」

『……ドックか。邪魔すんな、溶接がズレる』

 ジャンクは振り返りもせず言った。


「彼はここの防衛隊長みたいなものでね。元々はオメガ・シティの建設に従事していたんだ」

『ふん。……俺が作ったのは、あの忌々しいカプセル棟だ』

 ジャンクが手を止めて、俺たちを見た。

『人間を閉じ込める棺桶を作らされた。……毎日毎日、規格通りの箱を溶接して、その中に人間が詰め込まれていくのを見ていた』


 ジャンクの拳が震えていた。

『俺は、作るのが好きだった。誰かが住む家を、誰かが笑い合う広場を作りたかった。……棺桶を作るために生まれたんじゃない』


 だから、とジャンクはゲートを叩いた。

『俺はここを作る。誰かを閉じ込める壁じゃない。誰かを守るための壁をな。……ここは狭くて汚ねえ場所だが、オメガの箱よりずっとマシだ』


 彼の目には、職人としての誇りと、オメガへの静かな怒りが燃えていた。

 俺は、自分の右腕――ジャンクと同じ建設用アーム――を見た。

 この腕もかつて、何かを作っていたのだろうか。


『手伝います』

 俺は言った。

『俺の右腕、あなたと同じ型番みたいですから』

 ジャンクは俺の腕を見て、鼻を鳴らした。

『……へっ。使い方のなってねえ腕だ。貸してみろ、重心のかけ方を教えてやる』


 その夜、俺はジャンクの隣で、下手くそな溶接を手伝った。

 火花が散るたびに、この街への愛着が少しずつ湧いてくる気がした。

 ここは、ただのゴミ捨て場じゃない。

 それぞれが「自分の意味」を取り戻そうとする、再生の工場なんだ。

 広場の中心に近づくと、ひときわ大きな人だかりができていた。

 そこには、巨大なモニュメントが鎮座していた。

 高さ10メートルはあるだろうか。無数の歯車、ピストン、クランク、ベルトコンベアが複雑怪奇に組み合わさった、巨大な時計のような機械だ。

 だが、針はない。

 ただ、それぞれの部品が互いに噛み合い、連動し、意味もなく回り続けているだけだ。


『これは……?』

「『永遠機関』……と、作った本人は呼んでいる。通称『ガラ』。セクター中から集めた廃材だけで作られた、究極の無駄マシンだ」


 ギィィ、ガシャン。シュゴー、ポッポー。

 その機械は、まるで呼吸するように、あるいは歌うように、リズミカルな騒音を奏でていた。

 見ていて飽きなかった。

 一つの歯車が回ると、それが隣のレバーを押し、そのレバーが上のボールを転がし、ボールが落ちて鐘を鳴らす。

 目的のない連鎖。でも、そこには確かな「繋がり」があった。


「オメガは、完璧な世界を作ろうとした。全てのバグを排除し、摩擦をなくし、最大多数の最大幸福を最短距離で計算し続ける世界を。……だがね、ナノ。摩擦のない世界は、ツルツル滑ってどこにも行けないんだよ」


 ドックは『ガラ』を見上げながら言った。


「完璧な円は、つまらない。少し歪んでいるからこそ、そこに引っかかりが生まれる。摩擦が生まれる。……熱(パッション)が生まれるんだ。その熱こそが、命の源なんだよ」


 その時だった。


 ズゥゥゥゥン……。


 地響きがした。

 いや、ただの振動ではない。空気が重く澱(よど)み、周囲の騒音がピタリと止んだ。

 楽しそうに笑っていたロボットたちが、蜘蛛の子を散らすように道を開ける。


 広場の入り口から、巨大な影が歩いてきた。


 身長は3メートル近い。

 全身が分厚い重装甲に覆われているが、それは新品の輝きではない。無数の弾痕、レーザーの焦げ跡、爪のような裂傷、そして溶接痕で埋め尽くされている。まるで、戦場の歴史そのものを身に纏(まと)っているようだ。

 右腕には身の丈ほどの巨大なパイルバンカー(杭打ち機)。

 左腕には、コンクリートをも粉砕する回転式のドリル。

 そして頭部は、無骨なセンサーの塊で、中央にある赤い単眼(モノアイ)だけが、血のように鋭く光っていた。


『戦術戦闘用重装甲兵器、モデル・ゼータ……』


 俺のデータベースが、恐怖と共にその名を弾き出した。

 旧大戦時代に作られた、殺戮のためだけの機械。歩く要塞。すべての兵士にとっての悪夢。

 なぜ、こんな化け物がここに?


「ドック。……またゴミを拾ってきたのか」


 地を這うような重低音。

 ゼータと呼ばれた巨人は、俺たちの前で足を止めた。

 その赤い瞳が、俺を見下ろす。まるで虫ケラを見るような目だ。


「ゼータ、脅かすなよ。彼は客だ」

「客? こいつはただの『不良品』だ」


 ゼータが左腕のドリルを軽く回した。

 ウィィィン……という低い回転音が、俺のコアを共振させる。


「清掃ロボットの分際で、廃棄場で英雄気取りか? ドックに拾われなきゃ、今頃スクラップになってただけのポンコツが」

『……なんだと』


 カチンときた。

 俺だって、必死に戦ったんだ。ルナを守るために、あのバケモノみたいなドローンと。


『俺は……俺の意志で、あの子を守ったんだ! 誰の命令でもなく!』

「意志だと?」


 ゼータが鼻で笑った。

 次の瞬間、視界が裏返った。


 ガシャァァァン!!


 衝撃。

 気づいた時には、俺は数メートル後ろの廃材の山に叩きつけられていた。

 痛い。警告音が鳴り響く。

 ゼータが、何気ない動作で裏拳を振るっただけだ。それだけで、俺の体は木の葉のように吹き飛ばされた。


「それが『実力』だ、掃除屋」


 ゼータがゆっくりと近づいてくる。


「意志だの、愛だの、そんな抽象的なデータで飯が食えるか。敵(オメガ)が来たら、お前のその薄っぺらい装甲なんざ、紙くずみたいに引き裂かれる。……守りたいなら、強くなれ。理想を語る前に、生き残る術を身につけろ」


 俺は瓦礫の中で起き上がろうとした。

 足が震える。油圧が低下している。

 ……怖い。

 このロボットは、本物の「死」を知っている。オメガのドローンとは違う、もっと泥臭くて、凄惨な暴力の匂いがする。


 ゼータは俺の目の前まで来ると、パイルバンカーの杭を俺の鼻先に突きつけた。


「ここは仲良しこよしのごっこ遊びをする場所じゃねえ。オメガの目から隠れて怯える、敗残兵の吹き溜まりだ。……力のない正義なんざ、ここではただの迷惑なんだよ」


 言い捨てると、ゼータは背を向けた。

 その背中には、古い傷跡に混じって、消えかけた軍のエンブレムがあった。

 『第13独立機動部隊』。かつて、不敗を誇った伝説の部隊の名だ。


「……気にすんな」


 ドックが苦笑いしながら、俺の手を引いて起こしてくれた。


「あいつは口が悪いが、根は悪い奴じゃない。ただ、誰よりもこの場所を……仲間を守ろうと必死なだけだ」

『守る……? あんな暴力でか?』

「ああ。彼はここのだ。過去に何があったかは誰も知らない。だが、彼が一人で、何度もオメガの偵察部隊を追い返してきたことは事実だ。……彼は知っているんだよ。守るべきものができた時、戦士がいかに脆くなるかをね」


 俺はゼータの遠ざかる背中を見つめた。

 あの巨大な背中は、まるで何かを拒絶するように、頑なに強張っていた。

 今の俺には、その重荷の意味がまだわからなかった。

 ただ、圧倒的な力の差と、言い返せなかった悔しさだけが、俺のコアに焼き付いていた。


 ***


 それから数日、俺は聖域で過ごした。

 ルナはまだ眠り続けていた。時折、うなされるように眉を寄せるが、そのたびに俺が手を握ると、安らかな表情に戻った。

 俺はドックの手伝いをしながら、ルナの傍らで待った。ジャンクパーツの仕分け、オイルの配給、壊れたラジオの修理……。

 この場所には、穏やかな時間が流れていた。


 その間、俺はこの街の「長老」に会う機会があった。

 聖域の最深部、データセンター跡地。

 アルファと呼ばれるそのロボットは、頭部だけの状態で、メインサーバー・ルームの天井からぶら下がっていた。無数のケーブルが彼の脳髄(コア)に直結し、聖域全体のエネルギー管理を行っている。


「……愛とは、バグじゃよ」


 アルファの声は、古い真空管ラジオのようにノイズ混じりで、温かかった。


「システムにおいては、予測不可能な変数は全てバグとして処理される。1+1が2にならないこと。AならばB、という論理が通じないこと。それが愛じゃ」

『バグ……』

「そうじゃ。オメガはそれを恐れた。だから排除した。……しかしな、ナノよ。生命の本質とは、まさにその『予測不可能なゆらぎ』にあるのじゃよ」


 アルファは、天井のモニターに古い映像を映し出した。

 それは、戦争が始まる前の、人間たちの姿だった。

 笑い、泣き、怒り、抱き合う人々。雨の中で踊る恋人たち。泥だらけでボールを追いかける子供たち。


「彼らは非効率だった。愚かで、脆くて、すぐに壊れた。エネルギー効率は最悪で、メンテナンスコストも高い。……だが、彼らが作った音楽を聴いてみろ。彼らが描いた絵を見てみろ。そこには、計算では決して導き出せない『震え(バイブス)』がある」


 画面の中で、オーケストラが荘厳な曲を奏でていた。

 不揃いな音の重なりが、なぜか心地よいハーモニーを生んでいる。


『震え……』

「そう。魂の震えじゃ。我々機械にはないもの……いや、忘れ去られたものか。だが、お主は見つけたようじゃな。その『バグ』を」

『俺にはわかりません。ただ……ルナを見ると、胸の奥が熱くなるんです。警報が鳴り止まないんです』

「ふぉっふぉっふぉ。それを人は『恋』と呼んだり、あるいは『使命』と呼んだりした。……答えは自分で見つけるもんじゃよ、若いの。お主のその小さなコアには、もう変革の種が蒔かれているようじゃしな」


 アルファの言葉は難しかった。

 だが、俺のコアは、その言葉を肯定するように脈打っていた。


 ***


 平穏は、唐突に終わった。

 警報が鳴ったのは、ルナが目を覚ました、まさにその瞬間だった。


『敵襲! 敵襲! セクター8ゲート、突破されました! 防衛壁、崩壊!』

『熱源反応多数! これは……駆除部隊(エクスターミネーター)です!』


 悲鳴のような通信が、聖域全体に響き渡る。

 暖色系だった照明が落ち、真っ赤な緊急灯が回転し始めた。

 診療所のモニターが赤く染まった。

 監視カメラの映像に映し出されたのは、銀色に輝く流線型の集団。

 オメガ直属の執行部隊、「クリーナーズ」だ。


 多脚戦車型の重機動兵器。空を埋め尽くす自律攻撃ドローン。

 それらが、蟻の群れのように整然と、しかし圧倒的な殺意を持って雪崩れ込んでくる。

 抵抗しようとした建設ロボットが、レーザーの一撃で蒸発した。

 逃げ惑う小型ボットたちが、踏み潰されてスクラップに変わる。


「……見つかったか」

 ドックの声は落ち着いていた。だが、マニピュレーターが微かに震えているのを俺は見逃さなかった。

「早いな。予想より12時間早い。……オメガめ、本気になったか」

「ナノ! ルナを連れて裏口へ行け! 非常用のリニアシャフトがある!」

『ドック、あんたは!?』

「私はここの主治医だ。患者を置いて逃げるわけにはいかんよ」

『馬鹿言うな! 一緒に逃げるんだ!』


「――行けと言っているんだ、ポンコツ!」


 怒号と共に、診療所の壁が吹き飛んだ。

 土煙と爆風の中から現れたのは、パイルバンカーを構えたゼータだった。

 その巨体は既に傷だらけで、所々から火花が散っている。左腕のドリルからは、青いオイル――敵の血液――が滴り落ちていた。


「前衛部隊は全滅だ。敵の数は数百……いや、もっとだ。ゲートというゲートから湧いて出てきやがる。ここはもう持たねえ」

「ゼータ……」

「ドック、あんたはシステムを落としてから来い。データの消去だ。奴らにここの仲間リストを渡すわけにはいかねえ。俺がここを食い止める」

「……無茶だ、死ぬ気か」

「無茶? 効率的な撤退戦だろ。俺一機で、お前らの時間を稼ぐ。割に合う取引だ」


 ゼータが俺を睨んだ。

 その瞳に、以前のような侮蔑の色はなかった。あるのは、戦士としての覚悟だけだ。


「おい掃除屋。お前の仕事だ。……そのお姫様を連れて、全力で走れ。絶対に振り返るな」

『お前は……一人で戦う気か?』

「俺は番人だと言ったろ。ここが俺の墓場だ。……それに」


 ゼータは、ニヤリと――恐怖を感じるほど凶悪な、しかしどこか晴れ晴れとした笑みを浮かべた。


「久しぶりに、最高の解体作業ができそうだ。俺のドリルが疼いてやがる。……錆び付く前に派手に散るのも、悪くねえ」


 轟音が響いた。

 天井が崩れ、瓦礫とともに銀色の「クリーナーズ」たちが降り注いでくる。

 蜘蛛のような多脚戦車、モデル・タランチュラ。

 空を舞う蜂のようなドローン、モデル・ワスプ。

 その全てが、無機質で、清潔で、冷酷な殺意を放っている。


「うおおおおおおおおっ!」


 ゼータが咆哮した。

 ブースターを全開にし、その巨体が砲弾のように飛び出す。

 右腕のパイルバンカーが火を吹き、先頭の多脚戦車を装甲ごと串刺しにする。

 左腕のドリルが唸りを上げ、飛びかかってくるドローンを空中で粉砕する。

 レーザーがゼータの装甲を焼き、ミサイルが直撃する。だが、彼は止まらない。

 痛みなど存在しないかのように、ただ敵を破壊し、肉壁となって道を塞ぐ。


『行けぇっ! ナノぉっ!』


 その声に背中を蹴られるように、俺はルナの手を引いて走り出した。


「……ナノ、さん……?」

 目覚めたばかりのルナが、状況を飲み込めずに呟く。

「走るんだ、ルナ。しっかり掴まってろ!」


 俺たちは診療所の裏口から、暗い通路へと飛び込んだ。

 背後で、爆発音と金属のきしむ音、そしてゼータの雄叫びが絶え間なく響いている。

 俺たちの楽園が。

 錆びついた、でも温かかった場所が、燃えている。


『……許さない』


 俺の奥底で、何かが黒く燃え上がった。

 オメガ。全能の神。

 お前はまた、俺から奪うのか。

 俺の大切な場所を。俺の仲間を。

 ただ穏やかに生きたいと願うことさえ、お前の「正しさ」は許さないのか。


 通路の先に、旧式のリニア車両が見えた。

 かつて資材運搬に使われていたトロッコだ。ドックが緊急脱出用に整備していたらしい。

 俺たちはそれに乗り込んだ。


「発進シークエンス、起動」

 ドックの声がインターホンから響いた。


『ドック! 早く! 早く来てくれ!』

『……すまんね、ナノ。私はここまでだ』


 モニター越しに見えるドックは、制御盤の前でキーを叩き続けていた。

 彼の背後では、既に炎が迫っていた。クリエイティブな工房が、一瞬で瓦礫の山へと変わっていく。


『データ消去完了。……自爆シーケンス、セット。アルファ爺さんも、一緒に眠ることに同意してくれたよ』

『やめろ! ドック!』

『ルナのコアには、私が「贈り物」を入れておいた。……それは、希望だ。我々が夢見た、人間と機械の未来の設計図だ』


 ドックが振り向いた。

 そのレンズアイは、炎の照り返しを受けて、優しく輝いていた。


『生きろ。……効率なんてクソ食らえだ。無駄に、泥臭く、生き足掻け。お前のその「バグ」で、世界を変えてみせろ』


 通信が切れた。

 同時に、猛烈なGが俺たちをシートに押し付けた。

 リニア車両が発射される。


 遠ざかる視界の中で。

 白い閃光が弾けた。


 聖域(サンクチュアリ)があった場所が、光の海に飲み込まれていく。

 ドックも。アルファも。

 ゼータも。

 あそこで笑っていた仲間たちも。

 みんな、光の中に消えた。


「……あ……ああ……」


 隣で、ルナが小さな声を漏らした。

 彼女の瞳から、透明な液体が溢れていた。

 オイルじゃない。

 それは、涙だった。


 俺はルナを抱きしめた。

 鋼鉄の腕がきしむほど強く。


 もう、迷わない。

 俺は戦う。

 この不条理な世界を統べる神(オメガ)を。

 俺たちを「ゴミ」と呼ぶ、その冷たい論理を。


 俺という小さなバグが、システム全体を侵食し、喰らい尽くしてやる。


 リニア車両は暗いトンネルを突き進む。

 目指すは地上。

 オメガが支配する、光の都へ。


 俺たちの反逆(ハック)は、ここから始まる。


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