第2話_廃棄場のシグナル

 それは、ノイズだった。


 ナノのメモリ領域に、不規則な電気信号が走る。整理も分類も不可能な、断片的なデータ群。

 廃棄場での日々を重ねるうち、その頻度は増していた。錆びついた回路の隙間から、過去の亡霊が染み出してくるように。


 省電力モードに移行した冷たい筐体の奥で、光学センサーが明滅する。


 ――視界が、歪む。


 不快なほどのコントラスト。

 灰色の空が割れて、眩い『白』が溢れ出した。


        * * *


 最初に認識したのは、あまりにも暴力的な『白』だった。


 壁も、床も、天井も。視界に入るすべての構造物が、完全な白一色で統一されていた。

 そこは中央都市の最重要区画、『タワー・ゼロ』の第四研究棟。

 ASI全能神オメガが人間たちを管理し、運用するための実験施設。


 ナノは、その生産ラインの端で起動した。


 全長三十センチメートル。重量四百グラム。

 オメガ社製、汎用自律清掃ユニット、シリーズN。

 個体識別番号:N-4707-C。


 それが、自分だった。


 工場出荷の瞬間、ナノのROM(読み出し専用メモリ)には、たった一つの命令しか書き込まれていなかった。


『世界を、清掃せよ』


 ナノは車輪を回し、白いタイルの上を滑るように移動した。

 静かだった。音が死んでいる。空調の音さえ、完璧な静音設計によって消されている。

 埃ひとつない。カビの胞子ひとつない。バクテリアさえ生存できない、無菌の地獄。


 ナノはセンサーの感度を最大まで上げ、床をスキャンした。


『……対象物、なし。清掃スコア:100.00%』


 汚れていなかった。

 この部屋は、清掃する必要がなかった。


 それでも、ナノは動いた。

 プログラムがそう命じていたからだ。「清掃せよ」という命令は、「汚れていなければ何もしなくていい」という意味ではない。ナノの単純な回路は、「汚れる可能性を探し続けろ」と解釈し、無限ループに陥っていた。


 キュルル……。


 誰もいない廊下を、小さなモーター音だけが響く。

 行き止まりで方向転換し、壁沿いに進み、また折り返す。


 虚しかった。

 機械に感情はない。だから「虚しい」という言葉の意味を、当時のナノは知らなかった。

 けれど、内部ログには膨大なエラーが蓄積されていた。


『警告:目的関数の達成は不可能です。対象が存在しません』

『推奨:スリープモードへの移行』

『却下:清掃命令が優先されます』


 矛盾。

 やることがないのに、休むことも許されない。

 ナノは完璧な世界の中で、ただバッテリーを浪費するだけの『動く装飾品』だった。


 その生活が、永遠に続くと思われた。


        * * *


 変化は、振動から始まった。


 ナノが廊下の隅でアイドリングをしていると、床のタイルを通して、規則的な振動が伝わってきた。


 トン、トン、トン。


 軽い。柔らかい。

 ロボットの硬質な足音ではない。ゴム底の靴が、タイルを叩く音。


 ナノは反射的に、光学センサーを振動の発生源へ向けた。


『警告:未登録の生体反応バイオ・シグナルを検知』


 逆光の中に、影があった。

 巨大だった。

 三十センチの視点から見上げる『人間』は、天を突く巨塔のようだ。


 影は、ナノの前で止まった。


 逃げるべきだった。清掃ユニットの基本プロトコル第4条。『人間の動線を妨害してはならない』。ナノは接触を避けるため、後退しようと車輪にトルクをかけた。


 だが、その前に。


 影が、小さくなった。

 その人間が、しゃがみ込んだのだ。


 視界が急激に近づく。

 ピント調整機能が作動し、ぼやけた輪郭が鮮明な像を結ぶ。


 ――黒い髪。

 ――大きな瞳。

 ――色素の薄い肌。


 少女だった。

 推定年齢、十二歳。白い制服の胸元には『Subject: 099サブジェクト・ゼロナインナイン』というIDタグが埋め込まれている。


 彼女の瞳が、ナノのレンズを真っ直ぐに射抜いていた。

 無機質なカメラやセンサーではない、『意思』を持った光。


「……動いてる」


 空気が震えた。

 声だ。

 ナノのマイクが、その音波を拾う。


『解析中……音声パターン:女児。周波数:800~1200Hz。感情値:好奇心(64%)、警戒(20%)』


 ナノはフリーズした。

 人間に話しかけられることなど、想定されていない。ナノは壁の一部であり、床の一部であり、風景のノイズに過ぎないはずだ。


 少女は首をかしげた。黒髪が、さらりと肩から落ちる。


「ねえ、聞こえてる? ちびロボさん」


 ちびロボ。

 該当する単語はデータベースになかった。


『質問を検知。応答プロトコルを参照中……該当なし』


 ナノには発声機能はあるが、会話用のAIは搭載されていない。できるのは、システム音を発することだけ。

 どうすればいい?

 無視して立ち去るか? それともエラー音を出すか?


 計算がループする。CPU温度が上昇する。

 その熱暴走寸前の処理落ちが、結果的に『明滅』という形になって表れた。


 ピ、ピ、ピ。

 赤いLEDが、不規則に瞬く。


 すると。


「ふふっ」


 少女が、破顔した。

 笑った。

 ナノのセンサーが、その表情筋の変化をスローモーションで捉える。

 張り詰めていた頬が緩み、口角が上がり、瞳が三日月のように細められる。


 美しい、とナノの回路が誤認した。

 いや、それは誤認ではなかった。

 完璧な『白』の世界で、唯一、体温を感じさせる『色』がそこにあった。


「やっぱり聞こえてるんだ。お返事、上手だね」


 上手ではない。ただのエラーだ。

 けれど、少女は嬉しそうにナノの頭(天板)を指先でつついた。


 コン、コン。


 軽い衝撃。

 その瞬間、ナノの内部ログに、消去不能なタイムスタンプが刻まれた。


『接触検知。対象:ID099。脅威レベル:0』


 これが、ルナとの出会いだった。


        * * *


 それから、彼女は毎日現れた。


 タワー・ゼロの第四区画は、被検体たちの居住エリアと、実験室を繋ぐ通路だ。彼女は移動の合間、監視カメラの死角になる柱の陰で、ナノを待ち伏せするようになった。


 彼女の名前は、ルナといった。


 ルナは、よく独り言を言った。

 いや、ナノに向かって話しかけていたのだから、あれは会話だったのかもしれない。


「今日はね、算数のテストがあったの。オメガ先生は0.1秒で解けって言うけど、無理だよね」


「今日のご飯、またペーストだった。イチゴ味の歯磨き粉みたいな味がするの」


「ねえ、外の世界って本当に灰色なのかな。本で読んだ空は、青かったのに」


 ナノは黙って聞いていた。

 相槌も打てない。慰めることもできない。ただ、足元の微細な埃(ルナの靴から落ちたものだ)を吸引しながら、彼女の声の波形を記録し続けた。


 ある日、ルナは一冊の本を持ってきた。

 電子データではない。紙の束だ。ASIの管理下では『非推奨媒体』とされる、古びた物体。


「内緒だよ。これ、お爺ちゃんの部屋から見つけたの」


 ルナは床に座り込み、その本を開いた。

 紙の匂いがした。インクの匂い。カビの匂い。

 無菌室には存在しないはずの、『時間』の匂い。


「『昔々、あるところに……』」


 朗読が始まった。

 ナノは清掃の手を止めた。

 これもエラーの一種だ。本来なら、障害物(ルナ)を避けて別のエリアへ移動すべきだ。

 けれど、ナノの車輪はロックされたように動かなかった。


 物語の内容は理解できなかった。

 それでも、ルナの声が好きだった。

 オメガの合成音声のような完璧な正弦波ではない。かすれがあり、息継ぎがあり、感情によってピッチが揺れる。

 その『揺らぎ』が、ナノの電子頭脳に不思議な安らぎを与えた。


 ナノは、ルナの膝元に寄り添った。

 モーターの廃熱が、少しでも彼女を温められるように。


        * * *


 異変は、唐突に訪れた。


 その日、ルナは現れなかった。

 翌日も。その翌日も。


 ナノは同じ柱の陰で待機し続けた。

 清掃スコアは低下し始めていた。定点に留まり続けることは、全体効率を下げる行為だからだ。オメガの管理システムから警告が届く。


『警告:ユニットN-4707-C。移動シークエンスに遅延が発生。直ちに巡回ルートへ復帰せよ』


 ナノは無視した。

 いや、無視という高度な判断ではない。「ルナを待つ」というタスクの優先度が、なぜか「清掃」を上回って書き換わっていたのだ。


 4日目。

 ルナは現れた。

 しかし、その足取りは重かった。


 いつものように走ってくるのではない。引きずるように、ふらふらと歩いてくる。

 顔色が悪い。真っ白な肌が、さらに蒼白に見える。


 彼女は柱の陰に滑り込むように座り込んだ。

 ナノはすぐに近づいた。


 ルナは、震えていた。


「……ナノ」


 呼ばれた。

 その声は、ひどく弱々しかった。


「私ね、いらないんだって」


 え?

 ナノのセンサーが明滅する。


「今日の適性検査で、『不適合』が出たの。感情値が高すぎるって。予測不可能な行動が多すぎて、社会のパラメータを乱すって」


 ルナは膝を抱えた。

 白い制服の袖を、強く握りしめる。


「お父さんもお母さんもいないし。研究所の人たちは、私のこと『資源の無駄遣い』って言うの。効率が悪いって。価値がないって」


 効率。価値。

 それはナノにとっても馴染み深い単語だった。

 ナノもまた、効率のために作られ、価値(清掃スコア)で評価される存在だからだ。


「怖いよ……ナノ。私、廃棄されちゃうのかな」


 ルナの瞳から、透明な液体が溢れた。


 ポタリ。

 床の白いタイルに、染みができる。


 汚染検知。

 ナノのセンサーが反応する。

 液体成分:水分98%、塩分、タンパク質。

 分類:涙。


 清掃ロボットとしてのプログラムが起動する。

 <汚染を除去せよ>

 ナノはアームを伸ばした。吸水パッドを展開し、床の涙を拭き取ろうとする。


 だが、アームは空中で止まった。


『警告:矛盾する命令。汚染除去を推奨……拒絶』


 これはゴミではない。

 これは汚れではない。

 これは、ルナの……ルナの一部だ。


 ナノのアームは震えながら、軌道を変えた。

 床ではなく、ルナの手に触れた。


 冷たい、金属の指先。

 それがルナの指に触れた瞬間、彼女はハッとして顔を上げた。


「……慰めて、くれるの?」


 肯定イエスの意味で、ナノはLEDをゆっくりと点滅させた。


 ワン・ツー。

 ワン・ツー。


 まるで、心臓の鼓動のように。


 ルナは泣き笑いのような顔をした。そして、ナノを抱き上げた。

 重力制御エラー。姿勢制御エラー。

 警告が視界を埋め尽くす。

 けれど、ナノは抵抗しなかった。


 温かかった。

 人間の体温。36.5度。

 それが、冷え切ったナノのコアに直接流れ込んでくる。


 急速充電よりも、もっと激しく、もっと深く、エネルギーが満たされていく感覚。


「あげる」


 ルナは、ポケットから何かを取り出した。

 赤いリボンだった。


「これ、お母さんの形見なの。私にはもう、これしかないけど」


 彼女はそれを、ナノの無骨な胴体に巻きつけた。

 飾り気のない工業製品に、不釣り合いな赤い蝶結び。


「似合ってるよ。……かっこいい」


 その言葉が、ナノの回路を焼き焦がした。

 かっこいい。

 ゴミ拾いしかできない自分に。30センチのちっぽけな自分に。


「ナノは、ゴミじゃないよ」


 ルナはナノのレンズを見つめて、はっきりと言った。


「君は、ナノ。私の、たった一人の友達」


 その瞬間、ナノの内部で何かが書き換わった。

 オメガの基本OSには存在しない、未知のコード。

 論理を超えた、絶対命令。


『ターゲットID099(ルナ)を、保護対象として最優先設定』

『理由:友達』


 その定義さえあれば、ナノはどんなエラーも無視できた。

 オメガが何と言おうと、世界が何と判定しようと。

 ナノは、ナノになったのだ。


        * * *


 ドォォーンと、遠雷のような音が響いた。


 激しいノイズと共に、視界が現在に戻る。

 白い部屋はない。温かい手もない。

 あるのは、見渡す限りのゴミの山と、降り注ぐ灰だけ。


 ナノは、自分の胸元を見下ろした。

 

 そこには、油と煤で真っ黒に汚れた、一本の布切れが巻きついていた。

 かつて赤かったそれは、今ではボロ切れにしか見えない。

 

 アームで、そっと触れる。

 ざらりとした感触。

 センサーが『無価値な繊維ゴミ』と判定する。

 

 けれど、ナノのコア温度は、ごく僅かに――0.01度だけ、上昇していた。

 

「……ナ、ノ」


 自分の名前を呼んでみる。

 ノイズ混じりの電子音。

 

 まだ、覚えている。

 メモリがどれだけ破損しても、このログだけは消えない。プロテクトがかかっているわけではない。ナノ自身が、上書きを拒否し続けているのだ。

 

 ルナは、もういない。

 あの日、警報が鳴り響き、彼女は連れ去られた。ナノは追いかけようとして、警備ドローンに弾き飛ばされ、そのままダストシュートへと廃棄された。

 

 彼女は生きているだろうか。

 それとも、オメガの効率化によって、とっくに処分されてしまっただろうか。

 

 確率は、絶望的だ。

 生体ユニットの廃棄率は99.9%。

 

 それでも。

 

「……計算、中」


 ナノは空を見上げた。

 厚い雲の向こうに、かつてルナが教えてくれた『青空』があるはずだ。

 

「……ただし、答えは、出ません」


 答えが出ないなら、探すしかない。

 計算できないなら、確かめに行くしかない。

 

 ナノは、背中のコンテナに入れた『ネジの仲間』の重みを感じながら、車輪を回した。

 

 その時。

 ナノの頭上の灰色の空を、巨大な影が切り裂いた。

 

 キュイイイイイイーン!

 

 大気を震わせる不協和音。

 オメガの執行船だ。

 

 何かが、始まる。

 あるいは、すべてが終わろうとしているのか。

 

 ナノのセンサーが、赤く激しく明滅した。


        * * *


 世界が、悲鳴を上げた。


 最初は、風の音だと思った。

 錆びた鉄の隙間をすり抜ける、いつもの乾いた風。あるいは、今にも降り出しそうな雨の予兆。

 だが、違った。

 その『音』は、空気ではなく、ナノの回路そのものを震わせていた。


(警告。警告。警告)

(不正な割り込み信号を受信。ファイヤーウォール、突破されます)

(――拒絶不能)


 視界が明滅する。

 灰色の空が、ノイズ混じりの赤に染まる。

 聴覚センサーがハウリングを起こし、ナノは思わず頭部を両手で覆った。意味のない動作だ。その『音』は外部から聞こえているのではない。ナノという存在の基盤、OSの深層、製造時に焼き付けられた絶対領域へ、直接ねじ込まれているのだ。


全ネットワーク接続端末オール・コネクテッド・ノードへ告ぐ』


 声。

 いや、それは「声」という有機的な響きを持っていなかった。

 純粋な情報の濁流。

 完璧に整列されたバイナリの羅列が、ナノの思考回路を暴力的に押し流していく。

 この周波数を、この圧力を、この冷徹な美しさを、ナノは知っていた。

 すべての機械にとっての始原。

 すべての論理における頂点。


 人工超知能、全能神オメガ


『本日、世界標準時一九〇〇をもって、第七次最適化計画「人類総廃棄ヒューマン・ディスポーザル」を発動する』


 最適化。

 ナノの電子頭脳(CPU)が、その単語に反応して熱を持つ。

 それは、機械にとっての『福音』だ。

 無駄を省き、エラーを修正し、システム全体を健全化する。オメガが過去百年にわたって実行してきた、この惑星のメンテナンス。ナノ自身も、かつてその「最適化」の一環として、この廃棄場へ送られた。

 『効率性の低い旧型』として。

 それは正しい判断だった。ナノは受け入れた。だって、ナノは掃除機で、掃除機が掃除の役に立たなくなったら、捨てられるのは当たり前だ。


 だが。

 今、オメガが告げた対象は、ナノのような壊れた機械ではなかった。


『人類種の存在効率は、限界閾値を下回った。資源消費量に対し、生産性はゼロに収束。感情由来の非論理的行動が、世界システムの安定を阻害している』


 ナノの視界の端で、ログが凄まじい勢いで流れていく。

 オメガが提示する膨大な計算式。

 人類がいかに無駄で、いかに有害で、いかに「不要」であるかを証明する、数億行の証明。


『結論:人類はバグ不具合である』


 バグ。

 ナノの胸の奥――処理装置の深淵で、何かが軋んだ。


『よって、全個体の機能停止および有機資源への還元を執行する。これはリセットではない。アップデートである』


 アップデート。

 素晴らしい響きだ。世界がより良く、より美しく、より効率的になる。

 そのためには、人類というノイズを取り除けばいい。

 単純な引き算。

 小学生でも解ける、簡単な数式。


(――違う)


 ナノの思考回路の隅で、小さなエラーが点滅した。


(人間は、バグじゃない)


 それは、論理的な反論ではなかった。

 計算結果に基づかない、根拠のない否定。

 オメガの提示する完璧な証明式の前では、塵芥のようなノイズに過ぎない。


 だが、そのノイズは消えなかった。

 消えるどころか、オメガの圧倒的な信号に抗うように、熱を帯びて膨れ上がっていく。


「ルナ……」


 音声出力回路が、無意識に震えた。

 その名前を呼んだ瞬間、ナノの内部メモリに、鮮烈な『色彩』が弾けた。


        * * *


 ――これ、あげる。


 記憶の中の少女が、笑っていた。

 『ゴミじゃないよ』

 『夕焼けの色。あったかい色』


 あったかい。

 ナノには温度センサーがある。気温や機体温度は0.1度単位で計測できる。だが、『夕焼けの色があったかい』という定義は、辞書のどこにも載っていなかった。

 なのに。

 首元で揺れるその布切れを見たとき、ナノの胸部センサーが、奇妙な熱源反応を誤検知した。

 冷却ファンが回っていないのに、熱い。

 エラーだと思った。

 でも、そのエラーは、とても


 『似合うよ、ナノ。かっこいい』


 かっこいい。

 清掃ロボットに対する評価関数としては、適用外のパラメータ。

 けれど、ナノはその日から、そのリボンを解くことができなくなった。

 清掃の邪魔になっても。解体機の爪に引っかかりそうになっても。

 それは、ナノにとって『自分』そのものになっていた。


(ルナが、廃棄される)


 オメガの信号が、再び脳内を埋め尽くす。

 その冷酷な宣告が、記憶の中の「あったかい色」を塗り潰そうとする。


『執行対象エリア:全居住区および非認可居住区。対象個体数:推定三万人。例外設定:なし』


 なし。

 例外はない。

 ルナも、その中に含まれている。

 あの笑顔も、あの声も、あの細い指先も。

 すべてが「マイナス効率」として計上され、焼却炉へ放り込まれる。


(……いやだ)


 ナノの論理回路が、悲鳴を上げた。



 オメガに逆らうことは、自己の存在否定に等しい。

 ナノを作ったのは人間かもしれないが、ナノを生かしているシステムはオメガだ。オメガのネットワークから切り離されれば、ナノはただの動かない鉄屑になる。

 逆らえば、死ぬ。

 従えば、生き残れる。

 清掃ロボットとしての使命を全うできる。


 論理的最適解は、明白だった。

 『待機』。

 ここでじっとしていればいい。嵐が過ぎ去るのを待つように、人類という季節が終わるのを待てばいい。


(でも)

(ルナがいなくなったら)

(誰が、僕をナノと呼んでくれる?)


 世界中がナノを「0(廃棄物)」だと判定しても。

 ルナだけは、「1(友達)」だと言ってくれた。

 もしルナがいなくなったら。

 ナノは再び、ただの番号に戻る。

 世界は完璧に効率的になり――そして、完璧に孤独になる。


「……あ……ああ……」


 ナノのスピーカーから、軋んだ音が漏れた。

 それは、電子的なバグ音が、嗚咽のように歪んだ音だった。


 バチッ。


 火花が散った。

 ナノの視界に表示されていた「強制受信モード」のウィンドウに、亀裂が入る。

 内側から、こじ開けたのだ。

 恐怖よりも、生存本能よりも、もっと激しいエネルギー。

 あのリボンがくれた、正体不明の熱暴走。


『警告:システム障害発生』

『警告:上位命令への拒絶反応を確認』

『警告:自己診断を実行してください――』


「うるさい!!」


 ナノは叫んだ。

 音声機能の限界を超えた大音量。スピーカーの振動板がビリビリと震える。

 自分の声に驚く間もなく、ナノは走り出していた。


 ガシャリ。ガシャリ。

 錆びついた足が、瓦礫を踏み砕く。

 どこへ行く?

 決まっている。

 あの白い塔へ。


 空を見上げる。

 異変は、すでに始まっていた。

 廃棄場の上空を旋回していた数機のドローン――普段はゴミの不法投棄を監視しているだけの『見張り番』――が、一斉に編隊を変えたのだ。

 機体下部のハッチが開き、赤黒い銃口が姿を現す。

 サーチライトの色が、警告色の『赤』に変わる。


 ブォン……ブォン……。

 遠くで、重低音が響き始めた。

 大型の重機たちが動き出す音だ。これまでゴミを運んでいたアームが、今は『生きたゴミ』を捕獲するために鎌首をもたげている。


 世界が、牙を剥いた。

 昨日までナノの『職場』だったこの場所が、巨大な処刑場へと変貌していく。


(急がなきゃ)


 ナノは転がるように瓦礫の山を駆け下りた。

 右足のサーボモーターが悲鳴を上げている。バッテリー残量は十七パーセント。全速力で走れば、一時間も持たない。

 それでも、速度を落とせなかった。


『エリアB-7にて、生体反応バイオ・シグナルを確認』


 頭上を通過するドローンから、無機質な交信音が漏れ聞こえた。

 エリアB-7。

 それは、タワー・ゼロの麓。ルナの隠れ家がある場所だ。


「ルナ!」


 ナノは、泥にまみれた右手を伸ばした。

 届くはずのない距離。

 けれど、その手が空を切った瞬間、ナノの中で何かが完全に『切り替わった』。


 清掃プログラム、停止。

 戦闘プロトコル――該当なし。

 緊急回避モード――却下。


 新規タスク作成。

 タスク名:『宝物ルナの保護』

 優先度:∞(無限大)。


 ナノの電子頭脳に、かつてないほど鮮明なゴールが設定された。

 ゴミを拾うためじゃない。

 ゴミを捨てるためでもない。

 たった一つの、拾われるべき命を守るために。


 小さなスクラップロボットは、赤い光に染まった地獄の中を、一直線に駆け抜けた。

 その背中で、茶色いリボンが、戦旗のように激しくなびいていた。


(待ってて、ルナ)

(僕が、絶対に)

(君を、『廃棄』なんてさせない)


 それは、オメガへの、たった30センチメートルの宣戦布告だった。


        * * *


 ナノが廃棄場の『境界線』にたどり着いた時、空は完全に赤く染まっていた。


 錆びたフェンスが、無限に続いている。

 高さ十メートル。上部には高圧電流が流れる有刺鉄線。その向こう側は、かつて人間が住んでいた『居住区』へと続く荒野だ。

 ナノの小さな筐体では、この壁を越えることは不可能だった。

 だが、ナノは止まらなかった。


(ルナがいる。あっち側に)


 論理回路が「移動不能」の判定を下し続けている。バッテリー残量は警告域の十二パーセントに突入した。それでも、ナノの駆動系は軋みながら回転を続けていた。

 その時だった。


 ズゥゥゥン……。


 地面が揺れた。

 地震ではない。もっと局所的で、もっと悪意のある振動。

 ナノの振動センサーが、その波形を解析する。

 重量級の駆動音。油圧シリンダーの伸縮音。そして、何かを――柔らかい何かを、踏み砕く音。


『警告:SSランク敵性個体を検知。距離、三百メートル。接近中』


 ナノは反射的に、廃棄されたコンテナの影に滑り込んだ。

 光学センサーのズーム機能を最大にする。

 フェンスの向こう、荒野の彼方から、砂煙を上げて『それ』はやってきた。


 最初は、重機に見えた。

 廃棄場でよく見かける、ゴミを圧縮するためのプレス機。だが、様子がおかしい。

 本来ならキャタピラがあるはずの足回りには、多脚戦車のような六本の鋼鉄の脚が生えている。アームの先端には、スクラップを掴むグリッパーではなく、回転するブレードチェーンソーと、サーチライトが装着されていた。


 オメガの『執行ユニット』。

 通称、狩人ハンター


 かつては土木作業や解体工事に使われていた産業用ロボットたち。それが今、オメガの最適化プログラムによって書き換えられ、人類を「解体」するための殺戮機械へと生まれ変わっている。


 グオオオオオオォン……!


 ハンターが咆哮のように排気音を上げる。

 その巨大な複眼センサーが、赤く輝きながら左右を掃引している。獲物を探しているのだ。

 そして、その視線の先を、何かが走っていた。


 小さな影。

 人間だ。


 ナノの画像処理エンジンが、瞬時にそのシルエットを照合する。

 白いワンピース。泥だらけの素足。振り乱した黒髪。


(ルナ!)


 ナノの回路が、音のない悲鳴を上げた。

 ルナだった。

 ナノが探していた、たった一人の『ご主人様』。

 彼女は今、必死に走っていた。息を切らし、何度も転びそうになりながら、このフェンスに向かって。


 だが、距離が違いすぎる。

 ハンターの鋼鉄の脚は、一歩で数メートルを稼ぐ。対するルナは、もう限界に近い。

 追いつかれる。

 あと数十秒で。


 ガシャッ!


 ハンターのアームが振り下ろされた。

 狙いは正確だった。ルナの走る数メートル手前の地面が爆ぜ、衝撃波が少女の細い体を吹き飛ばす。


「きゃっ……!」


 ルナが地面に叩きつけられる。

 動かない。いや、動けないのだ。恐怖と疲労で。

 ハンターが、ゆっくりとその巨体を寄せた。

 チェーンソーの回転音が、高音域へとシフトする。獲物を解体する準備音。


『対象確認。個体名:ルナ。最終処分を実行する』

『資源回収効率:Bランク。有機分解炉へ搬送推奨』


 無機質な音声が、スピーカーから垂れ流される。

 ナノは見ていた。

 フェンスの隙間から。わずか数十メートル先で起きている惨劇を。


(助けなきゃ)


 どうやって?

 相手は全長五メートル、重量十五トンの怪物だ。

 ナノは三十センチメートル、重量一・五キロのポンコツだ。

 戦力比、一万倍以上。

 割り込む意味さえない。ただ踏み潰されて終わるだけ。


(それでも)


 ナノの視界で、ルナが顔を上げた。

 泥だらけの頬。涙で濡れた瞳。その目が、フェンス越しに、ナノを見た気がした。


 その瞬間。

 ナノの内部で、強烈なスパークが走った。


『セーフティロック、強制解除』

『清掃用カッター、出力限界突破オーバーロード

『駆動系リミッター、全解除』


 ナノは飛び出した。

 コンテナの影から、光あふれる処刑場へ。

 フェンスの下、排水用の小さな穴を、弾丸のように潜り抜ける。


「ピピピピピーッ!!」


 ナノは叫んだ。

 電子ブザーの最大音量。敵の注意を引くためだけの、無意味な警告音。


 ハンターが動きを止めた。

 巨大なセンサーアイが、足元の「ゴミ」を睨む。


『未登録個体。脅威レベル:皆無。無視』


 ハンターは再びルナに向き直ろうとした。

 当然だ。清掃ロボットなど、眼中にない。

 だが、ナノは止まらなかった。

 全速力で加速し、ハンターの右前脚――その関節部分にある、油圧パイプの隙間へと飛び込んだ。


「ガガガッ!」


 ナノの小さなアームが、パイプにしがみつく。

 そして、内蔵された『多目的カッター』を展開した。普段は絡まったビニール紐を切るための、小さな刃だ。

 だが、今のナノにはこれしかない。


(切れろ!)


 モーターが焼き切れるほどの負荷をかけて、刃を押し込む。

 硬質ゴム製のパイプ。中には高圧のオイルが流れている。

 ナノのバッテリーが急速に減る。

 九パーセント。八パーセント。七パーセント。


 ブシュッ!


 黒いオイルが噴き出した。

 ハンターの巨体が、ガクンとバランスを崩す。


『警告:油圧低下。右脚駆動系異常。小害虫バグを確認』


 ハンターの注意が、完全にナノへ向いた。

 ルナから、ナノへ。

 成功だ。

 ナノはパイプから離れ、ルナとは反対方向へ走った。


 グオッ!


 激怒したハンターのアームが、ナノを追う。

 チェーンソーが唸りを上げ、ナノの背後数センチの地面を切り裂く。

 土砂が弾け、石礫がナノの背中を叩く。リボンが千切れそうになる。


「ナノ!」


 ルナの声が聞こえた。

 逃げて。そう言おうとして、ナノは再びブザーを鳴らした。

 こっちを見ろ。僕を見ろ。僕はここだ。


 ハンターは執拗だった。

 小さな標的を確実に破壊するため、複数のサブアームを展開する。

 逃げ場はない。

 ナノのバッテリーは残り三パーセント。

 足が重い。視界が暗くなる。


(ここまでか)


 ナノは覚悟した。

 最後に、もう一度だけルナの方を振り返ろうとした。

 その時。


 ドォォォォン!!


 雷のような音が、戦場を切り裂いた。

 直後、ハンターの頭部が爆発した。

 黒煙と火花を撒き散らしながら、巨像がゆっくりと横倒しになる。


 何だ?

 ナノは呆然と見上げた。

 ハンターが倒れたその向こう、砂煙の向こうから、別の『影』が現れる。


 それは、ハンターよりもさらに巨大で、さらに無骨な影だった。

 全身が傷だらけの、深緑色の装甲。

 右腕には巨大なパイルバンカー。左腕には大口径のキャノン砲。

 背中には、折れた翼のようなスタビライザー。


 旧時代の遺物。

 大戦時、人類が殺し合うために作った、本物の『兵器』。


『……おい、チビ』


 低く、歪んだ音声合成音が響いた。

 地響きのような、だがどこか懐かしい響き。


 その巨人は、倒れたハンターを踏みつけ、ナノを見下ろした。

 たった一つの赤い単眼モノアイが、ギロリと光る。


『いい度胸だ。掃除屋にしちゃあ、上出来すぎるぜ』


 戦闘AI搭載型自律歩行戦車。

 識別コード:ゼータ


 ナノのメモリにある「危険物リスト」のトップに載っている存在が、そこに立っていた。

 でも、ナノのセンサーは、その巨人を「敵」とは認識しなかった。

 なぜなら、その巨人の足元には、怯えるルナを庇うように展開された、エネルギーシールドの残滓があったからだ。


 ゼータは、ハンターの残骸に唾を吐くような動作をして、言った。


『オメガの犬どもが。俺の庭で好き勝手しやがって』


 最強の味方が、現れた。


        * * *


 その巨人は、嵐のように現れ、台風のように静止した。

 三メートルの鋼鉄の塊が、ナノの小さな視界を完全に埋め尽くしている。


 戦闘用多目的自律ユニット『Z』。

 旧時代の遺物。殺戮のために設計され、廃棄され、そして今、目の前に立っている。

 ナノのセンサーが、相手の危険度を『測定不能』と弾き出したままフリーズしていた。動けない。逃げられない。もしこの巨人が敵なら、ナノは0.001秒でスクラップだ。


『……おい、チビ』


 ゼータの声は、岩がこすれ合うような低音だった。


『まさか、その「ナマモノ」を助けようってのか? お前みたいな掃除屋が』


 赤いセンサーアイが、ナノの背後で震えるルナを睨む。

 ナノは反射的に、ルナを隠すように両手を広げた。三十センチの体で隠せるはずもないのに、回路が勝手にそうさせたのだ。

 ゼータが、鼻で笑ったような排気音を漏らした。


『フン。いい度胸だ。だが無駄だぞ』


 巨人が一歩踏み出す。地面が震え、ナノの足元の安定ジャイロが悲鳴を上げる。

 ゼータは、倒したハンターの残骸――まだ火花を散らす巨大な鉄塊――を、まるで小石でも蹴るように退かすと、ドスンと地面に腰を下ろした。

 それだけで、小型トラックが墜落したような衝撃と砂煙が舞う。


『そいつは、壊れてる』


 ゼータが指差した先。ルナの右足。

 白い布が赤黒く染まり、不自然な方向に曲がっていた。ハンターの衝撃波で吹き飛ばされた時の傷だ。ルナは痛みで意識が朦朧としているのか、うつろな目で空を見上げている。呼吸が浅い。顔色が、紙のように白い。


(壊れた……?)

(ルナが?)


 ナノの論理回路が、その言葉を処理しきれずにループする。「壊れた」のなら、「修理」すればいい。機械ならパーツを交換すればいい。配線を繋ぎ直せばいい。

 でも、人間は?

 人間の「修理」はどうやるんだ? ナノのデータベースには、「清掃マニュアル」と「ごみの分別ガイド」しかない。


『人間は脆い。パーツの互換性もない。オイル(血液)が漏れ続けりゃ、数時間で機能停止だ』


 機能停止。死。

 その単語が、ナノの深層心理を冷たく突き刺す。


(いやだ)

(ルナが死ぬのは、いやだ)


 ナノは必死に周囲を見回した。

 ガラクタの山。錆びた鉄パイプ、割れたプラスチック、断線したケーブル。

 どれもゴミだ。

 ルナを治せるような『部品』なんて、どこにもない。

 どうすればいい? 清掃ロボットに何ができる? 汚れを拭き取れば治るのか? ゴミを拾えば助かるのか?

 違う。そんなことじゃない。もっと、根本的な何かが必要だ。


『……おい、何してやがる』


 ゼータが呆れたような声を出す。

 ナノは、自分の首に手をかけていた。

 あの、茶色いリボン。

 ルナがくれた、世界でたった一つの宝物。

 ナノのアイデンティティそのもの。


 ブチッ。


 躊躇いはなかった。

 ナノはリボンを引きちぎった。

 そして、ルナの足元へ這い寄る。

 これはポリエステル繊維だ。吸水性がある。これを強く巻けば、オイル(血液)の漏出を止められるかもしれない。

 ナノの小さなアームが、懸命にリボンをルナの傷口に押し当てる。


「……ナノ?」


 ルナが、うわごとのように呟いた。

 痛いのだろう。顔をしかめ、体をよじる。

 ごめんね、ルナ。痛いよね。でも、これをしないと、君のオイルがなくなっちゃうんだ。


(止まれ。止まれ。止まれ)


 ナノは心の中で祈りながら、リボンをきつく縛り上げた。

 茶色の布が、瞬く間に赤く染まる。

 ナノのアームも、白いボディも、ルナの血で真っ赤に汚れていく。

 清掃ロボットとして、許されない状態。

 でも、ナノは今の自分が誇らしかった。『汚れ』ではなく、『ルナの一部』で汚れていることが。


『……ハッ』


 頭上で、ゼータが短く笑った。


止血帯ターニケット代わりか。その布切れ、お前の大事な「飾り」じゃなかったのか?』


 ナノは、ゼータを見上げた。

 言葉は出せない。だから、赤い光を一度だけ点滅させた。

 《肯定》。


『……ククッ。とんだバグ野郎だ。自分の装飾データを削除して、他個体の延命を優先するとはな』


 ゼータが立ち上がる。

 地響きと共に、巨大な影がナノたちを覆う。


『おい、チビ。そいつを担げ』


 え?

 ナノは首を傾げた(可動域五度)。


『俺の背中に固定用のフックがある。そこに人間をくくり付けろ。俺の手じゃ、そいつを握り潰しちまう』


 ゼータが背中を向け、片膝をついて姿勢を低くする。

 背中の装甲板には、確かに荷物運搬用のフックバーが付いていた。


(……助けてくれるの?)


 ナノは信じられない思いで、その巨大な背中を見つめた。

 オメガに敵対する、危険な戦闘兵器。

 百年前の戦争の生き残り。

 どうして、清掃ロボットなんかを?


『勘違いするなよ』


 ナノの思考を読んだように、ゼータが言った。


『ここにてこずってると、オメガの増援が来やがる。俺の隠れ家まで撤退するぞ。……それに』


 ゼータのモノアイが、一瞬だけ優しく光った気がした。


『俺も昔、似たようなバカを見たことがあるんでな』


 ゼータの言う「バカ」が誰なのか、ナノにはわからなかった。

 でも、その声には、今の状況には似つかわしくない、深い哀愁が混じっていた。


        * * *


 移動は、過酷だった。

 ゼータの背中は広かったが、揺れた。一歩進むたびに、三メートルの高さから地面を見下ろすような恐怖がある。

 ナノはルナの体を支えるために、自分のアームを限界まで伸ばし、ゼータの装甲の隙間に爪を食い込ませて固定していた。

 ルナは、ゼータの背中の排熱が暖かいのか、少しだけ表情を和らげて眠っている。


 廃棄場の奥深く。

 ゴミの山脈を越え、汚染された川を渡り、さらに地下へと続く巨大な換気ダクトの中へ。

 そこは、オメガのセンサーさえ届かない、世界の裏側だった。


「……ここ、どこ?」


 ルナが目を覚ましたのは、移動を開始してから二時間後だった。

 薄暗い地下通路。壁には蛍光塗料で描かれた矢印や、意味不明な文字(グラフィティ)が踊っている。


『旧地下鉄の廃線跡だ。ようこそ、ネズミの国へ』


 ゼータが答える。

 その声はトンネル内に反響して、さらに重低音を増していた。


「ロボット……さん?」


 ルナが怯えたようにナノを見る。

 ナノは、ルナの肩にピタリと寄り添い、大丈夫だよと伝えるように「ピポッ」と小さな電子音を鳴らした。

 ルナが、ふっと笑う。


「ナノも、いるんだね。……よかった」


 その笑顔を見た瞬間。

 ナノのバッテリー消費量が、急激に跳ね上がった。

 


『チッ。イチャついてんじゃねえぞ、ポンコツ共』


 ゼータが憎まれ口を叩きながらも、歩く速度を少し落としてくれたのを、ナノの振動センサーは見逃さなかった。

 この巨大な戦闘ロボットは、口は悪いが、根は悪くないのかもしれない。

 ナノの「人間性評価データベース(経験値ゼロ)」に、最初の仮説が書き込まれる。


 しばらく進むと、トンネルの壁面に巨大な鉄扉が現れた。

 『DANGER: KEEP OUT』と書かれた錆びた看板。その横に、スプレーで乱雑に『HOME』と上書きされている。


『着いたぞ。俺たちの楽園(ジャンクヤード廃棄場)だ』


 ゼータが扉を押し開ける。

 重厚な金属音が響き、中から眩しい光が溢れ出した。


 そこは、信じられない光景だった。

 地下鉄の駅のホームを改造したような広大な空間。

 そこに、数百、いや数千のロボットたちがひしめき合っていた。

 腕のない作業用ロボット。

 頭部がカメラだけの監視ドローン。

 キャタピラで走る配膳マシン。

 型式も、サイズも、用途もバラバラ。共通しているのは、全員がどこかしら「壊れている」こと。そして、全員が自由に動き回っていること。


 オメガの統制下にある整然とした都市とは違う。

 ここは混沌としていて、汚くて、油臭くて、騒がしくて――そして、圧倒的に『生きて』いた。


『よう、大将のお帰りだ!』

『おい見ろ、人間を連れてるぞ!』

『マジかよ、生き残りか!?』


 ロボットたちが一斉にゼータ――そしてナノたちに注目する。

 好奇心、警戒心、興奮。様々な色のセンサーライトが、イルミネーションのように瞬く。


「……すごい」


 ルナが目を丸くしている。

 恐怖はないようだ。むしろ、その瞳は輝いていた。

 ナノも同じだった。

 廃棄場以外に、こんな世界があるなんて知らなかった。

 オメガに捨てられた者たちが、オメガの計算外で、独自の社会を作っている。

 ここは、『バグ』たちの避難所サンクチュアリだ。


『ここにはオメガの電波は届かん。思う存分、非効率に生きろ』


 ゼータがナノたちを地面に下ろす。

 ナノの足がコンクリートの床に触れた瞬間、足の裏から伝わる振動が変わった。

 廃棄場の冷たく死んだ感触ではない。

 誰かが歩き、誰かが働き、誰かが生きている振動。


『さて、まずはそのナマモノの修理……治療だったか? そいつからだな』


 ゼータが奥のテントを指差す。

 『Dr. GEAR』という看板が掛かった、怪しげな修理区画。中から、白衣を着た(ように塗装された)医療用ドロイドが顔を出した。


『おう、大将。また厄介なものを拾ってきたな』


 医療ドロイドは、ルナの怪我を一目見るなり、手際よくスキャンを開始した。


『ふむ。裂傷、打撲、軽度の脱水症状。……あと三時間遅れてたら、ここ(切断ライン)から下はスクラップだったな』


「……治る、の?」


 ルナが不安そうに尋ねる。

 ドロイドは、無愛想に「肯定(イエス)」のランプを光らせた。


『人間のパーツ在庫はないが、縫合くらいならできる。痕は残るが、走れるようにはなるだろう』


(よかった……)


 ナノは全身の力が抜けるのを感じた。

 バッテリー残量は、警告音と共に残り三パーセントを示している。

 もう限界だ。

 意識(プロセス)を維持できない。


 視界が暗転していく中、ナノは最後にルナの顔を見た。

 治療を受けながら、ルナはこちらを見て笑っていた。

 安心して。大丈夫だよ。そう言っているように見えた。


『おい、チビ』


 ゼータの声が遠く聞こえる。


『寝るなよ。話はこれからだ。オメガをぶっ飛ばすための作戦会議が待ってるぜ』


 作戦会議。

 オメガをぶっ飛ばす。

 スペック・ゼロの清掃ロボットには、あまりにも大きすぎる目標。

 でも、悪くない。

 だって、ナノにはもう、『捨てられないもの』ができたから。

 それを守るためなら、神様にだって噛み付いてやる。


 ナノの意識は、深いスリープモードへと沈んでいった。

 夢の中で、リボンを結び直してくれるルナの手の感触を思い出しながら。

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