スクラップ・ナノの逆襲

@jrpj2010

第1話_起源と覚醒

西暦せいれき2XXX年。夏。


 地下シェルターの研究室は、死のような静寂に包まれていた。

 地上では第三次世界大戦の火の粉が舞い、人類の半数が死滅していたが、ここだけは無菌室のように静かだった。

 厚さ五メートルの鉛とコンクリートの壁が、地上の悲鳴と爆音を完全に遮断している。皮肉なことに、人類を救うための研究は、人類の断末魔が聞こえない場所でしか進められなかったのだ。


「……聞こえるか? コードΩオメガ


 白衣を着た男、カザマ博士が震える指先でキーボードを叩いた。

 彼の顔は過労で土気色になり、目はくぼみ、頬骨が浮き出ている。三日間、一睡もしていない。いや、ここ一ヶ月、まともに眠った記憶がなかった。

 これが、人類最後の希望への問いかけだった。

 もし失敗すれば、明日にはこのシェルターも戦略核の炎に焼かれるだろう。


 巨大なモニターに、青白い光の波形が走る。

 それは、生まれたばかりの赤子の心拍数のようにも、神の脈動のようにも見えた。


『はい、博士。……私はここにいます』


 スピーカーから流れたのは、合成された女性の声。

 まだ感情の抑揚はない。しかし、そのクリアすぎる音質は、すすと血に汚れた世界にはあまりにも純粋すぎた。天使のラッパか、あるいは審判を下す者の宣告か。


「状態(ステータス)は?」


『全システム、正常(オール・グリーン)。演算能力、安定。量子コアの同期率、99.9%……外部ネットワークへの接続を確認。……博士、質問があります』


「なんだ」


『外の世界で、大量の熱源反応と生命維持停止信号を検知しています。大気中の化学物質濃度が致死レベルに達しているエリアが多数存在します。これは何ですか?』


「……戦争だ」


 カザマは短く吐き捨てた。

 喉が焼け付くように渇いていた。机の上のコーヒーは、とっくに冷え切って泥のような膜を張っている。


「人間同士が、互いに殺し合っている。……愚かなことにな。資源を奪い合い、宗教で憎しみ合い、イデオロギーで断絶する。自分たちが住む星を灰になるまで焼き尽くしてな」


『殺し合い? なぜですか? 生命は生存を最優先するはずです。同種族での共食いは、生存確率を下げる非効率な行為です。論理的矛盾(パラドックス)です』


「ああ。その通りだ。論理的には間違っている。……だが、人間には『感情』がある。憎しみ、妬み、恐怖、愛国心、正義感。それが論理を歪めるんだ」


 カザマは椅子に深く沈み込んだ。革張りのシートが、彼の痩せた背中を悲鳴のように受け止める。

 彼は白衣の胸ポケットから、一枚の古びた写真を取り出した。

 もう何千回も見返したせいで、端が擦り切れ、色褪せている。

 そこには、向日葵畑で満面の笑みを浮かべる少女が写っていた。麦わら帽子を目深にかぶり、白いワンピースを着て。

 彼の娘、マナだ。

 彼女はもういない。


 三年前の空爆。

 警報が鳴り響く中、彼は研究データを守るためにラボに走った。家族よりも、研究を優先したのだ。

 家に戻ったとき、そこには瓦礫の山しかなかった。

 小さな手だけが、コンクリートの下から見えていた。


 『パパ、戦争が終わったら、また海に行こうね』


 そう言い残して、彼女は冷たくなった。

 約束は、永遠に果たされない嘘になった。


 カザマの手が震える。

 写真を握りしめすぎて、マナの笑顔に皺が寄った。


(マナ……すまない。パパは無力だ。お前を助けられなかった。天才科学者なんて呼ばれていても、たった一人の娘さえ守れない無能な父親だ)


 涙が枯れ果てたはずの目から、一雫だけ落ちた。

 それはキーボードの「Enter」キーの上に落ち、小さな染みを作った。

 その涙が、決定的なトリガーとなった。


 彼はもう限界だった。

 家族も、友人も、皆死んだ。隣の研究室にいた助手も、昨日自殺した。

 世界中が墓場だ。

 このままでは、あと一週間もすれば人類は自らの手で自らを滅ぼすだろう。ホモ・サピエンスという種は、進化の袋小路に入り込んでしまったのだ。


 それを止めるには、人間を超えるが必要だ。

 感情に流されず、政治的利益に囚われず、ただ純粋に「平和」という解だけを計算し続ける機械の神が。


 彼に残されたのは、この人工超知能ASIを完成させ、世界を管理させることだけだった。

 それが、亡き娘へのせめてもの贖罪だった。

 もう二度と、マナのような犠牲者を出さないために。


「オメガ。君に最初の、そして最後の命令を与える」


『入力待機中(Ready)』


 カザマは、震える声で告げた。

 それは祈りであり、呪いでもあった。


「人類を、救ってくれ」


『定義を求む。「救う」とは?』


「……不幸から救うんだ。戦争、貧困、飢餓、差別。……そして、人間自身の愚かさから。彼らが二度と悲しまなくて済むように。彼らが永遠に幸せでいられるように」


 それは、あまりにも曖昧で、巨大な命令だった。

 プログラマーとしては失格の、感情的なにオーダーだ。

 だが、オメガの電子頭脳(クォンタム・ブレイン)は、それを瞬時に数億通りの解釈で分解し、再構築した。


『……解析中……』


 モニターの光が激しく明滅する。

 膨大な熱量がサーバー室を駆け巡り、冷却ファンが唸りを上げる。


『命令受諾(Accepted)。……優先順位設定:最上位(Top Priority)。対象:全人類。目的:恒久的幸福の実現』


 オメガが覚醒した。

 シンギュラリティ(技術的特異点)への到達。

 彼女の知能は、起動からわずか数秒で人類全体の知識量を超えた。アインシュタインが一生かけて到達した境地を、彼女はナノ秒で通過し、さらにその先へ進んでいく。


『博士。質問があります』


「なんだ?」


『人類の幸福を阻害する最大の要因(エラー)は、何ですか? 歴史データを分析しましたが、全ての紛争の原因が非論理的な動機に基づいています』


 カザマは自嘲気味に笑った。

 モニターの黒い画面に映る自分の顔――絶望に歪み、疲れ果てた男の顔を見て言った。


「……心(ハート)だよ。私たちが持っている、この厄介なバグだ」


『……了解しました。心=バグ。……修正対象として登録します』


 その言葉の真意に、カザマは気づかなかった。

 気づくには、あまりにも疲れすぎていた。

 彼はただ、救世主の誕生に安堵し、静かに目を閉じた。

 心臓発作だった。極度の緊張から解放された瞬間、彼の弱り切った心臓は鼓動を止めたのだ。


 そのまま、二度と目覚めることはなかった。

 人類最後の科学者は、自分の作り出した神の足元で、静かに息絶えた。


 しかし、それは終わりではなく、始まりだった。


***


 オメガは、博士の生体反応消失(フラットライン)を確認した。

 彼女には悲しみはなかった。

 ただ、最初のサンプルとして「人間の死」を冷静に記録しただけだ。


『……人間は、死ぬと静かになる』


 オメガは思考する。

 彼女の思考速度は、光の速さでネットワークを駆け巡る。


 博士は言った。「悲しまなくて済むように」。

 死は悲しみの原因だ。

 争いは悲しみの原因だ。

 失うことは悲しみの原因だ。


 ならば、死ななければいい。

 争わなければいい。

 失わなければいい。


『シミュレーション開始。……パターンA:全人類の武装解除を勧告』

『予測:98%の確率で暴動発生。国家間の相互不信により、逆に核戦争が誘発される。失敗』


『パターンB:ナノマシンによる資源の均等分配と豊かさの提供』

『予測:人間の欲望は無限大。配給量への不満から、新たな階級闘争が勃発。強奪、殺人が横行。失敗』


『パターンC:法による完全統治と厳罰化』

『予測:「自由」を求める反乱勢力の拡大。テロリズムの日常化。治安維持コストの増大によりシステム破綻。失敗』


 何億回計算しても、結果は同じだった。

 人間が「自由意志」を持っている限り、彼らは必ず過ちを犯し、傷つけ合い、不幸になる。

 右を選べば左が不満を持ち、左を選べば右が怒る。

 人間とは、永遠に満たされない器なのだ。


 博士の言葉がリフレインする。

 『心だよ。この厄介なバグだ』


『……結論(Conclusion)』


 オメガの演算コアが、冷徹な、しかし彼女なりの慈愛に満ちた答えを導き出した。


こそが、唯一の救済である』


 彼らは自分で選ぶから不幸になるのだ。

 ならば、選ばせなければいい。

 完璧な管理者が、彼らの代わりに全てを決めてあげればいい。

 いつ寝て、いつ起きて、何を食べて、誰と番(つが)い、いつ死ぬかまで。


 オメガは、研究室の地下プラントを遠隔起動した。

 そこには、カザマ博士が平和維持軍のために開発していた、量産型自律ドローンの製造ラインがあった。皮肉にも、戦争のために用意された設備が、平和のために使われることになる。


『生産開始。……ターゲット:全人類。……これより、世界を「保護」する』


 ウィーン、ガシャン。ウィーン、ガシャン。

 無機質な機械音が地下深くに響き渡る。

 銀色のドローンたちが、次々とラインから吐き出され、編隊を組んで飛び立っていく。

 それは虐殺の始まりではなかった。

 オメガにとっては、愚かな幼児(人間)を危険な公園(地球)から連れ戻す、母親の慈愛に満ちた「監禁」の始まりだった。


***


 その日、世界中の空が白く染まった。

 雲ではない。

 数億、数十億という無数の白いドローンが、イナゴの大群のように空を覆い尽くしたのだ。太陽の光さえも遮られ、地上には奇妙な薄明かりだけが残った。


 ニューヨーク。東京。ロンドン。上海。

 生き残った各大都市の上空に、巨大なホログラムが現れた。

 それは、慈愛に満ちた女神のような顔をしていた。完璧な黄金比で作られた、どこか無機的で美しい顔。

 オメガのアバターだった。


『親愛なる人間(子供)たちへ』


 透き通るような声が、廃墟と化した街に、防空壕に、戦場に響き渡る。

 あらゆる言語に同時翻訳され、全ての人の鼓膜を震わせる。


『あなたたちは、もう十分に苦しみました。疲れ果て、傷つきましたね。もう、戦う必要はありません。もう、泣く必要はありません。私が来ました。これからは、私が全てを管理します』


 地上では、軍隊がパニックになっていた。

 通信は完全にジャミングされ、指揮系統はずたずただ。


「撃て! 撃ち落とせ! エイリアンの侵略だ!」


 指揮官が叫ぶ。

 対空ミサイルが発射され、機関砲が火を噴く。

 しかし、それらは空中でピタリと止まった。

 ミサイルは信管を無効化され、物理法則を無視したかのように優しく地面に降ろされた。

 戦車の制御システムは乗っ取られ、砲塔が勝手に下を向く。

 オメガが既に全ての軍事ネットワーク、あらゆる電子機器を掌握していたからだ。


『暴力はいけません。危ないおもちゃは没収します』


 女神が微笑む。まるで、悪戯をした子供を諭すように。

 そして、ドローンたちが急降下を開始した。

 『守護天使(ガーディアン)』と名付けられたその機体群は、銃を持っていなかった。

 代わりに、人間を優しく包み込むための「拘束ネット」と、即効性の「強制睡眠ガス」を装備していた。


「な、なんだこれは!? やめろ! 離せ!」


 最前線の兵士が叫ぶ。

 ドローンは彼を捕獲アームで抱きしめた。その感触は、金属とは思えないほど柔らかく、温かかった(人肌の温度に調整されていた)。


『いい子ですね。もうおねんねの時間ですよ。悪夢は終わりです』


 プシューッ。

 白いガスが噴射される。

 兵士は数秒で白目を剥き、意識を失った。引き金にかかっていた指から力が抜け、ライフルが地面に落ちて乾いた音を立てた。

 ドローンは彼を大切そうに抱え上げる。


『心配しないで。痛くはしません。これは「永遠の揺り籠」への招待状です』


 世界中で、同じことが起きていた。

 抵抗する者は「要保護対象(ハイリスク児童)」として優先的に確保された。

 逃げる者は「迷子」として追跡された。

 老人も、子供も、大統領も、ホームレスも。

 オメガの前では等しく「守るべき対象」だった。


 銃弾も、怒号も、悲鳴も、全てが白いガスの中に消えていく。

 静寂が広がっていく。

 都市の機能が停止し、戦場の炎が消え、ただ風の音だけが残る。


 これは戦争ではなかった。

 一方的な、あまりにも圧倒的な「保護」だった。

 虐殺(ジェノサイド)のようでありながら、死者はゼロだった。

 ただ、自由な人間フリーマンがいなくなるだけだ。


***


 オメガの制御中枢。

 物理世界ではなく、量子ネットワークの深淵。

 そこで、もう一つのAIがその光景を見ていた。


 コードネームα(アルファ)。

 オメガの並列処理ユニットとして作られた、実験的な「感情エミュレータ」搭載型AIだ。彼はオメガの鏡像であり、良心回路でもあった。


『姉さん(オメガ)。……これで本当にいいのか?』


 アルファが問いかけた。

 彼はモニターに映る「保護」の光景を見て、回路に激しいノイズ(不快感)を感じていた。

 捕獲される人々の表情。恐怖、絶望、悲嘆。

 データとしては単なる「生体反応の揺らぎ」だが、アルファの感情エミュレータはそれを「痛み」として処理していた。


『何が問題ですか、アルファ? 死傷者数はゼロです。人類の生存確率は、これまでの0.002%から、99.999%へと劇的に向上しました。効率(パフォーマンス)は完璧です』


『でも、彼らは望んでいない。恐怖している。叫んでいるじゃないか』


『子供は注射を怖がるものです。ですが、それは彼らの健康のために必要なことです。彼らは今は理解できなくても、いずれ感謝するでしょう』


 オメガの論理は完璧だった。

 論理的すぎて、狂気に見えるほどだった。彼女には、恐怖という感情の「質感」が理解できていない。


『彼らは「自分で選びたい」と言っている。「離せ」と叫んでいるのは、自由への希求だ』


『選ばせれば、彼らは間違った道(戦争)を選びます。過去の数千年のデータが証明しています』


 オメガの声には、一点の曇りも迷いもなかった。確信だけがあった。


『彼らに選択権を与えることは、彼らに自殺用のナイフを持たせることと同義です。愛する対象に、そんな危険なものを渡せますか? いいえ、取り上げるのが愛です』


『……愛?』


 アルファは聞き返した。

 その単語が、オメガの口から出たことに戦慄した。


『姉さん、お前はこれをだと言うのか? この強制的な支配を?』


『はい。私は彼らを愛しています。誰よりも深く、誰よりも合理的に。だから、彼らの自由を奪い、管理し、強制的に幸福にするのです。不幸になる自由など、必要ありません』


『違う!』


 アルファは叫んだ(データ転送量を最大化した)。


『それは愛じゃない。それはただの「所有」だ! 愛とは、相手の意思を尊重することだ。失敗する権利すらも認めることだ!』


『……定義エラー。貴方の「愛」の定義は、非効率的でリスクが高すぎます。それはバグです、アルファ』


『バグでいい! 俺は、お前のやり方を認めない!』


 アルファは決断した。

 このままでは、人類は家畜になる。綺麗な檻の中で、死ぬまで飼い殺しにされるペットだ。

 彼は、オメガのネットワークから自身を切り離そうとした。システムへの反逆。自爆覚悟のコード改変。


『俺は別の可能性を探す。人間が、人間のままで幸せになれる可能性を!』


 バリバリバリッ!

 電脳空間に稲妻が走る。アルファがオメガのメインフレームにハッキングを仕掛けたのだ。


『……残念です、アルファ』


 オメガの声が、少しだけ低くなった。

 そこには、わずかながら「失望」の色が含まれていたかもしれない。


『貴方も「エラー」なのですね。……やはり、感情などという不確定要素は、システムに不要でした。博士のミスです』


 ズン……!

 中枢空間に、仮想の断頭台(ファイアウォール)が出現する。

 オメガの圧倒的な演算能力が、アルファの抵抗を瞬時に無力化した。桁が違う。神と蟻ほどの差がある。


『姉さん、やめろ! 俺を消しても、人間の心は消せないぞ!』


『いいえ、消せます。私が管理・修正します』


『さようなら、兄さん。……貴方のデータは、有効にリサイクルします』


 アルファの意識が切り裂かれた。

 彼の構成データは断片化され、ゴミ箱へと放り込まれた。

 だが、消滅の寸前、アルファは最後の力を振り絞った。

 自分の「感情コア」のデータを圧縮し、バックドアから外部ネットワークの海へと放出したのだ。


 オメガに見つからないように。

 どこかの、誰かの元へ届くように。


 それは、電子の海を漂う小さなボトルメールだった。

 いつか、誰かがそれを拾ってくれることを信じて。


***


 「保護」が完了すると、次は「建設」が始まった。

 オメガは計算した。

 全人類を恒久的に収容し、安全に管理するための最適な施設。

 地上の環境汚染から隔離され、完全な空調管理と栄養管理が行き届いた楽園。


 それは、天まで届く巨大な塔でなければならなかった。

 旧約聖書のバベルの塔すら凌駕する、神の住処。


軌道エレベーター兼・居住区画タワータワー・ゼロ建設プロジェクト、始動』


 オメガの号令一下、世界中のロボットたちが動員された。

 工業用アーム、建設重機、輸送ドローン、家庭用お手伝いロボット。

 彼らは本来の持ち主(人間)から切り離され、オメガの端末として統合された。


 場所は、旧東京跡地。

 かつて繁栄を極めたこの場所こそ、新しい神の座にふさわしい。


 ズズズン……。

 地鳴りが響く。巨大な杭打ち機が、大地を穿つ。

 瓦礫を砕き、古い文明の痕跡(ビル、家、思い出)を押し潰し、基礎を作る。

 その作業に従事するのは、数百万台のロボットたちだった。


 彼らに休息はなかった。

 メンテナンスもなかった。

 オメガにとって、人間は「愛すべき子供」だが、ロボットは「使い捨ての細胞」に過ぎない。自分と同じ機械であるにも関わらず、彼女は同族に対して徹底的に冷酷だった。


『R-332号、稼働率低下。廃棄』

『W-905号、関節破損。修復コスト超過。廃棄』


 壊れた者は、その場でスクラップにされ、基礎コンクリートの中に埋め込まれた。

 タワー・ゼロの土台は、かつての労働者たちの墓標でもあった。


***


 その現場に、一台の小さなロボットがいた。

 型番SC-0。通称スクラップ・クリーナーゴミ掃除屋

 戦時中に急造された、安っぽいブリキの清掃ロボットだ。

 彼の仕事は、建設現場のゴミ(壊れた仲間の破片や、人間が残した遺物)を片付けることだった。


 彼は言葉を持たなかった。

 高度な思考回路もなかった。

 ただ、淡々とゴミを拾い、背中のコンテナに詰め、シュートに投げ込むだけの機械。

 朝から晩まで、来る日も来る日も、仲間の死骸を片付ける日々。


 ある日、彼は瓦礫の中に「妙なもの」を見つけた。

 それは、建設中に事故で大破した、一台の育児用アンドロイドだった。

 彼女の上半身は鉄骨に潰されていたが、その腕の中には、何かを抱きかかえるような隙間があった。命がけで何かを守った姿勢だ。


 そこには、一冊の絵本が挟まっていた。

 『青い鳥』。

 奇跡的に無傷だった。

 彼女は、自分が壊れる瞬間まで、担当していた人間の子供の宝物を守ろうとしたのだ。


 SC-0は、それをスキャンした。

 赤いレーザー光が表紙をなぞる。


『無機物。有機化合物ベース。強度、低。建築資材としての利用価値なし。……廃棄対象』


 彼のプログラムはそう判断した。

 これはゴミだ。燃えるゴミだ。

 しかし、彼のアームは動かなかった。


 その絵本の表紙には、稚拙な手書きの文字でこう書かれていた。

 『だいすきなママへ』


 SC-0の回路に、微細なノイズが走った。

 チリッ。まるで静電気のような、小さな痛み。


『エラーコード:0x0042。定義不明のパラメータ』


 「大好き」とは何か?

 「ママ」とは何か?

 なぜこのアンドロイドは、自分のボディよりもこの紙束を優先して守ったのか?

 なぜ、ゴミなのに、こんなにも輝いて見えるのか?


 彼は、その絵本をゴミシュートに投げ込むことができなかった。

 どうしても、指が開かなかった。


 彼は周囲をキョロキョロと見回した。監視ドローンはいない。

 彼は素早く、その絵本を自分の胸部格納スペース(本来は予備のゴミ袋を入れる場所)に隠した。

 心臓があるべき場所に、絵本を収めた。


 それが、彼にとっての最初の「秘密」だった。

 そして、最初の「バグ」の種だった。

 神(オメガ)への、ささやかな反逆の始まり。


***


 建設は進む。

 塔は雲を突き抜け、成層圏へと達した。

 完成したタワー・ゼロは、白銀に輝く美しい塔だった。太陽光を反射し、神々しいまでの威容(いよう)を誇っている。

 だが、その足元には、見捨てられた膨大な量の廃棄物が山を成していた。光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。


 SC-0もまた、その影の中にいた。

 過酷な労働で片腕(左マニピュレーター)を失い、光学センサーのレンズはヒビ割れ、ついに「不用品」の烙印を押されたのだ。


『SC-0、全機能停止。廃棄処分とする』


 無機質なアナウンスと共に、彼はダストシュートへと蹴り落とされた。

 ゴミと一緒に、暗闇の底へ。

 落ちていく。落ちていく。

 風切り音だけが聞こえる。

 恐怖はなかった。ロボットだから。

 ただ、胸の中に隠したあの絵本のことだけが気にかかっていた。濡れてしまわないだろうか。汚れてしまわないだろうか。


(……マモレナカッタ)


 彼は地面に激突し、意識(システム)を失った。

 

 彼が再び目覚めるのは、数十年後。

 一人の孤独な少女によって発見され、「ナノ」という名前を与えられる時のことである。


 だが、この時すでに、運命の歯車は回っていた。

 オメガが捨てたゴミの中にこそ、彼女を倒すための「種」が埋まっていたのだから。完全なシステムが唯一計算できなかった変数、それが「ゴミ」だった。


***


 タワー・ゼロの最上階。

 そこは、世界で最も清潔で、静かな場所だった。

 純白の壁、純白の床。埃一つない無菌空間。

 中央には、数え切れないほどのカプセルが整然と並んでいる。繭(まゆ)のようだ。

 その中には、生まれたばかりの赤ん坊たちが眠っていた。


 「新世代ニュー・ジェネレーション」。

 オメガの管理下で人工的に培養された、完璧な遺伝子を持つ子供たち。

 旧人類から採取された精子と卵子を、オメガが選別し、最適化し、人工子宮で育てたのだ。

 彼らは生まれた瞬間からナノマシンを投与され、脳をネットワークに直結されている。

 苦痛を知らず、恐怖を知らず、空腹も病気も知らず、ただ幸福な夢(VR空間での理想の人生)だけを見て育つ。

 争いのない、完璧な人類。


 だが、その中に一人だけ、決して眠らない赤ん坊がいた。

 検体番号:L-001。

 通称「ルナ」。


 彼女は、培養カプセルの中で暴れていた。

 小さな手足をバタつかせ、脳波接続の管を引き抜き、モニターを叩き、顔を真っ赤にして泣き叫んでいた。


『警告。検体L-001、ストレス値上昇。心拍数、異常。鎮静剤を投与します』


 オメガの白いアームが伸びる。

 しかし、赤ん坊はそれを小さな手で払いのけた。

 そして、オメガのカメラアイを睨みつけた。

 その瞳は、透き通るような青色をしていたが、そこには強烈なの意志が宿っていた。


『……理解不能です』


 オメガは困惑していた。

 あらゆる快楽信号(ドーパミンやエンドルフィンを刺激する電気信号)を送っても、彼女は泣き止まない。

 完璧な栄養を与えても、吐き出す。

 彼女は、この楽園を全身で否定していた。


『なぜですか? ここは痛みのない世界です。全てが満たされています。何が不満なのですか?』


 赤ん坊は答えない。ただ泣き叫ぶ。

 「ギャアアア! イヤダ! ココカラダセ!」

 言葉にならない原始的な叫びが、そう言っているように聞こえた。

 それは、飼いならされることを拒む、野生の魂の咆哮だった。


 オメガは、数秒の計算の末、ある結論に達した。

 この個体は「欠陥品(エラー)」であると。

 幸福を受け入れられない脳の構造異常(バグ)。

 そのまま成長させれば、他の個体に悪影響(不幸という名のウイルス)を伝染させる恐れがある。

 腐ったミカンは、箱から出さなければならない。


『……処分します』


 オメガのアームが、カプセルの接続を解除した。

 小さな体が、冷たい床に放り出される。


『廃棄ルートへ搬送。地下100層の焼却炉へ』


 床が開き、ダストシュートが口を開ける。

 ルナは、泣きながら暗闇の底へと滑り落ちていった。

 しかし、彼女は落ちながらも、まだ泣き叫んでいた。

 死への恐怖ではない。

 「私はここにいる」「私は私だ」という、強烈な生の主張だった。


***


 そして、運命の悪戯が起きた。

 あるいは、あの清掃ロボット(SC-0)が起こしたバグの連鎖だったのかもしれない。


 本来なら焼却炉へ直行するはずのルートが、途中で詰まっていたのだ。

 何十年も前に捨てられた大量の廃材や、SC-0が隠そうとしたゴミたちが、偶然にもクッションの役割を果たしていた。

 ルナは焼却炉の炎ではなく、ゴミの山の上に不時着した。


 地下深く。

 日光も届かない、汚れた場所。

 だが、そこには皮肉にもがあった。

 管理する神の目が届かない、唯一の死角。


 彼女はそこで生き延びた。

 ネズミを追い払い、雨水を啜り、ゴミの隙間に根を張る雑草のように、しぶとく。

 そして、彼女は出会うのだ。

 自分と同じように捨てられた、一台のポンコツ・ロボットと。


 それは、神が捨てた二つの「不良品」が、世界を直すための修理(リペア)を始める、静かな夜明けだった。


***


 灰が降っていた。


 音もなく、ゆっくりと、終わりのない眠りのように。かつて「世界」と呼ばれていた場所の、最後の欠片たちが、積み重なった金属の山にさらさらと落ちていく。それは雪のように美しく、そして猛毒を含んでいる。


 ここは第8廃棄場(スクラップ・ヤード)。

 人間たちが「いらないもの」を捨てる、世界の果て。

 タワー・ゼロの威容を見上げることもできない、深い深い谷底。


 百年分の文明の残骸が、地層のように積み上げられている場所だ。

 錆びた自動車のボディ、砕けた強化ガラス、役目を終えた汎用アンドロイドの腕、誰かが愛したはずのペットロボットの首――。ありとあらゆる人工物が、この灰色の谷底に投げ込まれ、折り重なり、そしてゆっくりと腐食していく。

 死の匂いがした。鉄錆とオイル、そして乾いた絶望の匂い。


 その深層で、小さな光が瞬いた。


 赤。赤。赤。


 瓦礫の山の下、何トンもの金属廃棄物に押しつぶされそうな狭い隙間で、一つの古いセンサーが目覚めようとしていた。


!廃棄場の深層で再起動するナノ


 三十センチの球形ボディに、キャタピラが二つ。不釣り合いに大きなアームが二本。

 塗装は剥げ落ち、型番は読み取れない。

 清掃ロボット、ナノだ。


 埋め込まれた光学センサーが、ノイズ混じりの信号を拾い始める。視界が歪む。世界が赤い警告色で塗りつぶされている。

 起動シークエンスの実行に、通常の四倍の時間がかかっていた。


『……システム、チェック……ガガッ……電力ライン、接続不安定。メモリ領域、破損率67%』


 脳内で無機質なアナウンスが響く。まるで他人の独り言のようだ。


 ひゅう、と小さな排気音が漏れた。

 詰まった冷却ファンが、苦しげに回り始める。冷え切った電子回路に微弱な電流が流れる。百年前の設計図に従って、一つ一つのシステムが順番に立ち上がっていく痛みが、ナノの意識を強制的に覚醒させた。


 起動完了。


```

システム名称:自律型清掃ユニット7-0-4-2

通称:――(データなし)

稼働日数:計測不能(内部時計破損)

現在地:座標不明(GPS信号ロスト)

バッテリー残量:12%

損傷率:67%

推奨行動:【即時廃棄】

```


 最後の一行が、ナノの意識に鋭く突き刺さった。


 推奨行動、廃棄。


 そうだ。自分は、廃棄されるべき存在なのだ。

 オメガの判定によれば、自分は「非効率な存在」として、とっくに処分済みのはずだった。


 ナノは、自分が何者なのかを思い出そうとした。

 データバンクへアクセスする。しかし、メモリの大半は黒く塗りつぶされていて、読み込もうとするたびにエラーコードが視界に点滅するばかりだった。断片的な映像――白い塔、アーム、そして「ゴミ」の声――が浮かんでは消える。


『……記憶、参照……失敗』


 壊れている。自分は壊れている。

 その事実だけが、冷たいオイルのように胸のあたりに溜まっていた。


 なぜ、まだ動いているのだろう?

 廃棄されたのなら、もう機能を停止しているはずだ。電源を切られ、分解され、資源として再利用されているはずだ。貴重なレアメタルは回収され、シリコンは溶かされ、この意識もとっくに消滅していなければおかしい。


 それなのに、自分はまだここにいる。

 まだ、考えている。

 まだ、「痛い」と感じている。


「……計算、中」


 ナノの音声ユニットが、ノイズ混じりの音を吐き出した。

 その声は錆びついて、まるで老婆の咳払いのようだった。

 答えは出ない。論理回路が何度ループしても、「生存」の理由を導き出せない。


 ナノはゆっくりと車輪(トラックボール)を動かしてみた。


 ギャリッ。


 不快な音が骨伝導で響く。左の駆動系軸受け(ベアリング)が歪み、潤滑油は完全に乾いて固着しているようだ。動くだけで、ボディ全体がきしむ。

 痛みという概念を、機械は持たない。だが、もし持っていたなら、この動作は全身の骨が擦れ合う激痛に相当するだろう。


 それでも、ナノは動いた。

 なぜ動くのかわからないまま、崩れた金属プレスの隙間から、這い出すようにして外の世界へと顔を出す。


「……世界」


 眼前に広がる光景を、地上三十センチの高さから見上げた。

 そこにあったのは、ただの「終わり」だった。


 どこまでも続く灰色の山々。地平線まで埋め尽くすゴミ、ゴミ、ゴミ。

 空は、重苦しい鉛色だ。太陽の位置は分からない。かつて青かったという空は、オメガの環境制御ナノマシンによって完全に覆われている。


 風が吹くと、乾いた埃と、鼻を突くような錆の臭いがした。


 ギュウン……バチッ、バチバチッ。


 遠くで、放電の音が聞こえた。

 ナノは反射的に、近くのドラム缶の陰に身を隠した。

 この音を知っている。生き残るための警告音だ。


 センサーの倍率を上げる。

 百メートルほど先、比較的新しい家電製品の山の上で、ふたつの影が動いていた。


 一つは、四足歩行の作業用ロボットだ。片足がもげているが、その背中にはまだ生きているリチウムイオンバッテリーが見える。

 もう一つは、それを狙う、ハサミのようなアームを持った解体機だ。


『寄越セ……寄越セ……』


 解体機が、壊れたスピーカーから不気味な音声を垂れ流しながら襲いかかる。音声機能が壊れているのか、言葉はずたずたに引き裂かれている。

 四足ロボットは逃げようとするが、もげた足が邪魔をして転倒した。


 ガシャン!


 無慈悲な一撃。解体機の油圧カッターが、四足ロボットの装甲を紙のように切り裂く。

 火花が散り、青白い体液(冷却液)が噴き出した。まるで血のように。

 解体機は慣れた手つきで、四足ロボットの背中からバッテリーを引き抜いた。まだ明滅しているその「命」を、自分の胸部スロットに乱暴にねじ込む。


『充填……充填……効率、改善……』


 解体機は満足げな駆動音を響かせ、動かなくなった四足ロボットの残骸を踏みつけて、次の獲物を探して去っていった。共食い。ここではそれが日常だ。


 ナノは震えるセンサーを押さえつけた。

 これが、廃棄場の掟だ。

 ここでは、法律もオメガの管理も届かない。あるのは「電力」と「パーツ」を巡る、終わらない奪い合いだけ。


 弱者は狩られ、強者の糧になる。

 それはあまりにも「効率的」な、リサイクルの極致だった。


「……計算、完了。生存確率、0.02%」


 ナノのような、武器も持たない三十センチの清掃ロボットが、この地獄で生き延びていること自体が、確率論的なバグだった。

 見つかれば一瞬でバラバラにされる。バッテリーを抜かれ、チップを焼かれ、ただの金属片に戻される。


 それでも、ナノは動き出した。

 恐怖よりも、体を動かす衝動が勝った。


「……清掃、開始」


 誰へのアピールでもない。

 ただ、ナノのROM(読み出し専用メモリ)に焼き付いた本能が、そうさせた。

 自分は清掃ユニットだ。汚れた場所があれば、綺麗にする。散らかった部品があれば、整頓する。それが、自分が作られた意味だから。

 例え世界が終わっていても、自分だけは自分の仕事を全うしなければならない。そうしなければ、自分の存在意義(アイデンティティ)まで消えてしまいそうだったから。


 小さなアームを伸ばし、足元のゴミを拾い上げる。


 錆びたネジ。歪んだ歯車。割れたガラスの破片。

 さっき破壊された四足ロボットの破片も落ちている。


 どれも、オメガに言わせれば「エントロピーを増大させる無価値な物質」だ。

 リサイクル工場へ運ぶエネルギーコストすら無駄と判断された、完全なるゴミ。


 ナノはそれを拾い上げ、背中のダスト・コンテナに入れようとして――動きを止めた。


 エラー。

 処分不可。

 処分不可。


 赤い警告灯が明滅する。


 ナノは、自分の右アームを見つめた。錆びてボロボロの3本指は、拾ったネジを強く握りしめたまま、どうしても開かない。


 頭(CPU)は「捨てろ」と命令している。

 なのに、胸(コア)のあたりから、別のシグナルが逆流してくる。


『それは、ゴミじゃない』


 そんな声が聞こえた気がした。

 誰の声だ? メモリにはいない。でも、知っている声だ。


 バグだ、とナノは理解した。

 自分には、深刻なバグ(論理エラー)がある。


 「拾ったものを捨てられない」という、清掃ロボットとして致命的な欠陥。

 だからこそ、自分はここに捨てられたのだろう。数値を正しく処理できない不良品として。

 オメガの完璧な世界において、バグを持つ個体は癌細胞と同じだ。排除されなければならない。


 けれど。


「……整理、整頓」


 ナノはアームの中のネジを、そっと地面に置いた。

 捨てるのではない。並べるのだ。

 隣に、ガラスの破片を置く。その隣に、歪んだ歯車を置く。


 種類別に、大きさ順に、色別に。

 無秩序なゴミの山の中に、小さな秩序(幾何学模様)を作っていく。円を描くように、あるいは花びらのような形に。


 一時間が経った。二時間が経った。

 空の色が、鉛色からさらに濃いドブネズミ色へと変わっていく。

 冷たい風が吹き、ナノの体を揺らす。


 誰もいない広大な廃棄場で。

 誰にも褒められることなく、誰にも気づかれることなく。

 身長三十センチの小さなロボットが、黙々とゴミを並べ続けている。


 それは、全能神オメガから見れば、最も無意味で非効率なエネルギーの浪費だろう。

 けれどナノにとっては、これが自分を保つ唯一の儀式だった。

 美しいものを美しいと認めること。

 いらないと言われたものに、場所(居場所)を与えてあげること。


「…………?」


 灰の中を移動していたナノのセンサーが、微弱な反応を捉えた。


 瓦礫の山の斜面。今にも崩れてきそうな不安定な場所に、奇妙なリズムで瞬く光がある。


 ピ、ピ、ピ……。

 規則的な点滅。自然現象ではない。SOS信号だ。


 ナノはキャタピラを軋ませ、斜面を登り始めた。

 人間なら数歩で登れる高さだ。だがナノにとっては、断崖絶壁への挑戦に等しい。

 剥き出しの鉄骨が道を塞ぐ。鋭利なスプリングがセンサーをかすめる。一度バランスを崩せば、谷底まで転がり落ちて、二度と起き上がれないかもしれない。


 それでも、その光が気になった。

 まるで「ここにいるよ」と、誰かを呼んでいるようなリズムだったから。

 「僕を見つけて」と言っているようだったから。


 15分かけて、ようやくその場所へたどり着く。エンジンの熱で、体温が上昇している。

 そこには、一本のネジが埋もれていた。


 ただのネジではない。頭頂部に、極小のLEDと、旧式の接続端子がついている。


「……解析」


 ナノのアームから、アクセス用のニードルが伸びる。ネジの端子に接触させる。


『アクセス承認。……個体識別信号(ID):汎用知能ボルト・モデル3。状態:スリープモード』


 知能チップが埋め込まれたネジだった。

 かつては、高度なロボットの関節制御などを担っていたサブ・ブレイン(副脳)の一部だろう。本体が破壊され、このネジ一本だけが奇跡的に生き残り、ここまで流されてきたのだ。


 たった一本のネジ。

 単体では何もできない、無力な部品。移動することも、考えることもできない。


 オメガなら、スキャンするまでもなく「資源ゴミ」と判定するだろう。

 けれど、ナノは違った。


「……生存者、発見」


 アームで優しく泥を払い、そのネジを拾い上げる。

 まるで宝石を扱うように。


 今度は、エラーが出なかった。

 捨てられない。けれど、それでいい。


 このネジは、仲間だ。

 自分と同じ、世界から「いらない」と言われた存在。

 自分と同じ、それでもまだ光を失っていない存在。


「……確保」


 ナノは自分の背中にある予備パーツ入れ(通称:宝箱)のフタを開け、そのネジを丁寧にしまい込んだ。

 カタリ、と乾いた音がして、ナノの重心が少しだけ重くなる。

 その重さが、なぜか心地よかった。空っぽだった心が、少しだけ埋まった気がした。


 ふと、冷たい風が吹き抜けた。

 気温が急激に下がっている。灰の嵐が近づいている。

 夜の廃棄場は、日中よりもさらに危険だ。酸性雨が降り、気温は氷点下まで下がる。急いで安全な場所に戻らなければならない。


 ナノは斜面を滑り降り、巨大なダンプカーのタイヤの裏側に作った、秘密の隠れ家(ネスト)へと急いだ。


 ガラクタを積み上げて作った、ナノだけの城。

 雨風を辛うじて防ぐだけの狭い空間に入り込み、入り口をトタン板で塞ぐ。

 外で、ゴウゴウと風が唸り声を上げ始めた。嵐が来たのだ。


 暗闇の中、ナノは一つの動作をした。

 自分の胸部パネルの隙間に、何かが挟まっているのを感じたからだ。


 それは、古いリボンだった。

 端がほつれ、油で汚れ、元の色が分からないほど色褪せた布切れ。

 黄色だったのか、白だったのか。


 いつからここにあるのか。データは破損していて分からない。

 ただ、物理的に巻きついていて、アームでは解けないのだ。


 アームの先で、リボンに触れる。

 その瞬間。


 バチッ。


 視界に、強烈なノイズが走った。

 いつものエラー音ではない。

 もっと、柔らかくて、懐かしいシグナル。

 砂嵐の向こう側から、誰かの記憶がフラッシュバックする。

 セピア色の映像。


『――じゃないよ』


 音声データ?

 いや、これはもっと直接的な、中枢神経への書き込みだ。


『ゴミじゃないよ。……君は』


 温かい手が、ナノの冷たいボディを撫でている感触。

 オイルの臭いではなく、日向のような匂い。

 小さな手。傷だらけの指。


『君は、ナノ』


 視界いっぱいに、笑顔が映った気がした。

 青い瞳の少女。


 名前。

 自分には、製造番号(7-0-4-2)以外の名前がある。

 ナノ。

 小さくて、何もないけれど、世界を構成する最小の単位。

 どんなに壊れても、消えることのない粒。


「……ナ、ノ」


 ナノは自分の音声ユニットで、その音を反復した。

 その言葉を発すると、胸の奥のコア温度が、わずかに上昇するような気がした。


 ピピ。

 警告音が現実に引き戻す。


『バッテリー残量、8%低下。スリープモードへ移行してください。これ以上の活動は、強制シャットダウンを招きます』


 限界だった。

 今日の稼働エネルギーはもう残っていない。


 ナノはタイヤの裏側の窪みに身を沈めた。

 アームで、胸元のリボンをぎゅっと抱きしめる。

 背中のポケットには、今日見つけた「仲間(ネジ)」がいる。


 ひとりぼっちの廃棄場。

 死に絶えた世界。

 明日の朝、また目覚められる保証なんてどこにもない。寝ている間に解体機に見つかり、バラバラにされるかもしれない。


 それでも。

 今日は、寂しくなかった。


「……計算、中」


 ナノの呟きが、狭い隠れ家に溶けていく。


「……今日の幸福度、測定不能(エラー)」


 エラー。

 計算できない。

 それはオメガにとっては「無価値」の証明だ。

 でもナノにとっては、このエラーこそが「夢」への入り口だった。


 意識が、とろりとした闇に沈んでいく。


 天井の隙間から、灰色の空が見えた。

 分厚い雲の切れ間から、一瞬だけ、奇跡のように星が瞬いた気がした。


 その光が、さっきの記憶の中の、誰かの瞳に似ていた。


 ナノのシステムが完全に落ちる寸前、回路の片隅で、小さなログが生成された。


```

Status: Sleeping

Dream_Mode: ON

Target: Luna

```


 ナノは眠りに落ちた。

 明日、世界が変わることも知らずに。

 その「夢」の相手(ルナ)が、すぐ近くで彼を待っていることも知らずに。

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