ぬろり
塩見佯
第1話
嫌な夢を見て目が覚めた。
全身が汗でじっとりと濡れていてひどく気持ちが悪い。まるで身体が粘土で出来ているように感じる。
起き上がろうと力を入れるとひどく胸が痛んだ。シャツをめくって確かめると腫れて赤黒く変色している。かなりの勢いで何かがぶつかった痕に見えた。幸い骨は折れてはいないようだが、まったく記憶になかった。昨晩、寝る前にはなかった傷である。
不可解と鈍い痛み、重い身体を引きずって洗面所に向かう。はやく顔を洗いたかった。
洗面所の鏡に映ったのは酷い顔だった。
いつもと同じ時間に眠ったはずなのに、顔は泥のようだった。目の下にはうっすらと隈まで出来ている。なんだこれは。
蛇口を捻る。冷たい水が心地よかった。
両の手のひらで水を受けて、顔を洗う。心も身体も軽くなるようだった。繰り返し顔を洗いながら、僕は昨日の最悪な夢を思い出していた。
夢の中で僕は砂浜に座って海を見ている。
そこは家から車で15分ほどの場所で、地元の人間はほとんど訪れず、観光客も立ち寄らない穴場の入り江だった。日光浴や読書などにときどき利用する、よく知っている場所である。
隣には知らない男が座っている。ゆったりとしたズボンにポロシャツで特徴がないが、どこか既視感を覚えた。幅広の帽子を深く被っていて顔はよく見えない。
男が、つ、と指をさした。
指の先、海の上になにかが浮いていた。
見えますか、と男が言った。聞き覚えのある声だった。
海の上の何かは、白っぽく、丸い。大きさはそれほどではなく、ブイかビーチボールのようにも見える。
速い流れでもあるのか、それは魚が泳ぐような速さで砂浜に向かってくる。
見えますか、とまた男が言った。
白い丸いものの後ろ、水面に尾をひくように黒いものが流れていた。それは丸いものから繋がってのびているようだった。
髪の毛、と呟くと男は微笑んだようだった。
それは瞬く間に入り江の半ばまで迫っていて、いまはもうはっきりと見えた。鱗のように光る凪いだ海を、長い長い長い黒髪を靡かせながら進むそれは、人間の頭だった。
誰かが泳いでいるわけではなかった。もう波打ち際まで来ている頭には身体がなく、目鼻や耳や口といった顔すらなかった。いわゆるのっぺらぼうの状態で、普通に考えれば毛を植えたマネキンの頭部だろう。だが、僕はそれを人の頭だと、そう思った。あれは間違いなく生きている、と。
ちゃんと見ていてくださいね、と隣の男が言った。いいところなので。
頭は砂浜にたどり着くと、ふいにぐらりと傾いた。風はない。傾いて、転がるかと思えばまた反対に傾く。幾度かそのように揺れていると不思議なことに首が生えている。
頭はずっと揺れ続けている。揺れる度に鎖骨が生え肩が生え二の腕が生え小ぶりだが美しい乳房が生え肋骨が生え鳩尾が生えぬらぬらと身をくねらせる度に身体がつくられていった。
女だった。
背はそれほど高くなく、痩せていて、手足はすらりと長い。美しい女の身体だった。僕がぼんやりと眺めていると、足の爪まで出来上がったのか女は揺れるのをやめた。顔はないままだった。
女は目のない顔で、なにかを確かめるようにあたりをゆっくりと見回している。
……あれ、いったいなんなんだ。
思わずこぼれた問いかけに男がこたえた。
のっぺらぼう、でしょうねえ。顔がないんだから。
それはたしかにそうである。だが、のっぺらぼうが海から来るなどと聞いたことがなかった。流れ着いて砂浜から生えてくる女の化け物などなおさらである。
いえいえ、のっぺらぼうは顔がない状態のことであって、有名な話だってけだものが化けていただけでしょう。だからね、顔がないのは全部それでいいんですよ。理由なんてないんです。だってお化けの話なんですから。
男の話にも一理あった。わけがわからないから化け物なのだ。だがそうだとしても、それは何の説明にもなっていない。少ないながら観光客も来るような、近所の砂浜にあんなものが出るなんて、そんなことがあるはずが──
だから、地元の人は来ないんじゃないですかね。
言葉を失った僕に、男は再び指を指し示した。
いいんですか。
顔を上げる。男の示す先には女がいた。いつの間に近づいてきたのか、もう僕とは十メートルほどの距離しかなかった。
茹で玉子のようにつらつらとしたまっ白な肌がほのかに上気している。濡れた長い黒髪はべったりと貼り付き女の身体を血管のようにおおっていた。女は人形アニメのような動きでぬらぬらとこちらへ向かって歩いてくる。
ひ、と僕は我ながら情けない悲鳴を上げてしまった。あるはずのものがない、ということは単純な事実を越えて精神に不均衡をもたらすらしい。顔のない女が日差しの中を歩いてくる。僕は自分でも驚くほどの恐怖を感じていた。
パニックのままに逃げ出そうとした僕の手首を男が掴んだ。強い力だった。男は笑っていた。
もうわかっているくせに。
僕は怒りと恐怖に任せて男の胸を思い切り蹴り飛ばした。手がほどけ、男が倒れ、帽子が脱げた。僕は振り返りも立ち止まりもせず全速力で駆け出した。男の顔には目も鼻も口もなかった。
嫌な夢だった。
なんであんな夢を見たのかきっかけも理由もわからなかった。思い出すだけで胸の奥からせり上がってくる恐怖を振り払うために何度も何度も顔を洗う。
手にぬろりとした感触があった。濡れた粘土の塊に手をぬぶりと突っ込んだような、気持ち悪さと快感がないまぜになったような感覚。
昨夜はどれだけ油汗をかいたのだろう。洗顔材などは使っていないのにやけに顔のすべりがいい。ぬろりぬろりと繰り返し繰り返し顔を洗う。ぬろりと感触が手につたわる度に頭が軽くなっていくよう気がする。波に濡れた砂山が徐々になだらかになっていくさまが頭を過る。ぬろり。顔を滑る指にわずかに抵抗があるが、幾度も繰り返し繰り返し顔を撫でるうちにゆるやかに反発はなくなっていった。まるで顔が茹で玉子にでもなったようにつるつるとして心地がいい。
そういえば、と気がついて顔を洗う手を止めた。昨日の夢の男の服は、僕が持っているものと同じだった。どうりで既視感があるわけである。そして、あの男の声も、
ちゃっ、という音が聞こえた。
部屋の方からだった。濡れた生き物の足音に聞こえる。
ちゃっ、ちゃっ、ちゃっちゃっ、
音は洗面所に近づいてくる。ほんのりと潮の匂いがする。夢で見た女の姿と、わかっているくせに、という男の言葉を思い出す。恐怖に耐えられず僕は伏せていた顔を上げた。
耳元で男の声が聞こえた。
それは僕の声だった。
「それはこんな顔じゃありませんでしたか?」
鏡に映る僕の顔には目も鼻も口もなかった。
僕の肩を濡れた女の手が掴んだ。
了
ぬろり 塩見佯 @genyoutei
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