第三章 記録の海へ
それから三日後。アマネのガレージは、今や小さな研究室のようになっていた。タイガが持ち込んだ機材が壁際に並び、モニターには遺跡から受信したデータの解析結果が表示されている。
「やはり、あの遺跡は単なる建造物じゃない」
タイガがタブレットを操作しながら言った。
「eDNAネットワークの中継地点だ。海全体に広がる生命情報のハブのような存在……」
「つまり?」
アマネが尋ねた。
「つまり、あの遺跡は海の記憶を保存している。過去に存在したすべての生命の痕跡を、eDNAという形で記録してるんだ」
タイガの理知的な解説に、ナツキが顔を上げた。
「だから、私に声が聞こえるんだ……」
彼女は窓の外の海を見つめている。今日も沖縄の空は青く晴れ渡り、強い日差しが降り注いでいる。潮風がガレージの中まで吹き込み、壁に貼られた写真を揺らしている。
「でも、鍵が必要だと言っていた」
アマネが兄の遺したデータチップを手に取った。
「兄さんのこの音が、その鍵の一部なのか……?」
セイのホログラムが現れた。
「解析の結果、その音は完全じゃないわ。パターンの一部が欠けてる」
「欠けてる?」
「ええ。まるでパズルのピースみたいに。全体の三十パーセントくらいしか揃ってない」
セイがモニターに波形を表示した。確かに、波形は途切れ途切れで、いくつかの空白部分がある。
「残りのパターンは……どこに?」
タイガが尋ねた。
「解析の結果、受信したデータの構造に欠損パターンが見つかったわ」
セイが画面に詳細な波形を表示した。確かに、波形は途切れ途切れで、規則的な空白部分がある。
「この欠損の形状から推測すると……残りの部分は遺跡自体に保存されてる可能性が高いの」
「遺跡の中、ってことか?」
アマネが尋ねた。
「ええ。データの階層構造から判断すると、おそらくもっと深い場所に。まるで、段階的にアクセスさせるように設計されてるみたい」
セイが答えた。三人は顔を見合わせた。
「また潜るのか」
アマネが言った。
「今度はもっと深く。遺跡の内部まで」
「危険だ」
タイガが指摘した。
「でも……」
ナツキが静かに言った。
「行かなきゃ。このままじゃ、海は失われていく」
彼女の瞳には、強い決意が宿っていた。アマネは少し考え込んだ後、頷いた。
「分かった。準備を整えよう」
その日の午後、三人は再び潜水艇に乗り込んだ。今回は前回よりも多くの機材を積み込んでいる。タイガの改良したセンサーアレイ、サンプリング用の装置、そして緊急用の酸素ボンベ。
「全システム、グリーン!」
セイが報告した。
「よし、潜航開始」
アマネが操縦桿を握る。潜水艇は再び海へと沈んでいった。青い世界が広がる。前回と同じ、美しくも寂しい海。白化したサンゴ礁が、静かに彼らを迎えた。
「深度三十メートル。順調よ」
セイの声が響く。ナツキは目を閉じて、海の声に耳を傾けている。
「……近づいてる。あの場所に」
失われた生命への祈りを込めて、彼女は静かに漏らした。やがて、遺跡が視界に入った。前回と同じ、青白く光る巨大な構造物。だが今回は、その光が強く見える。まるで、彼らを待っていたかのように。
「遺跡の反応が前回より強い……」
タイガが計器を見て呟いた。
「起動したからかしら?」
セイが推測した。
「おそらくな。前回の共鳴で、遺跡のシステムが部分的に再起動した」
アマネが潜水艇を遺跡の近くに停止させた。
「遺跡の内部を調査するなら、セイをタイガのタブレットに移した方が効率的かもしれない」
アマネが提案した。
「えっ!? ちょっと、大丈夫でしょうね……ここから出たことないのよ、私! 箱入りなんだから!」
セイのホログラムが不安そうに揺れた。
「大丈夫だよ。僕が作った専用の転送アプリがあるから。セキュアだし、通信も安定してる」
タイガが自信満々にタブレットを取り出した。
「まあ……冒険も悪くないわね! 行くわよ!」
セイがポジティブに切り替えた。データ転送が始まり、潜水艇のコンソールから光の粒子がタイガのタブレットへと流れ込む。数秒後、タブレットの画面上にセイの小さなホログラムが現れた。
「うわっ、狭い! でも……なんか、新鮮!」
セイが周囲を見回している。三人は思わず微笑んだ。
「よし、これで遺跡内の詳細なスキャンができる」
タイガが満足そうに頷いた。
「ここからどうする?」
「遺跡の内部に入口があるはず」
タイガがセンサーのデータを解析している。
「この構造から推測すると……おそらく、あの窪みの部分」
彼が指差した先には、遺跡の側面に大きな窪みがあった。暗くて中は見えないが、明らかに何かの入口のように見える。
「本当に入るのか……?」
アマネが不安そうに言った。
「大丈夫」
ナツキが微笑んだ。
「海が、私たちを呼んでる」
タイガの提案に、アマネは力強く頷いた。
「じゃあ、行くぞ」
潜水艇はゆっくりと窪みへ向かって進んだ。
窪みの中は、想像以上に広かった。潜水艇が入ると、周囲の壁が淡く発光し始めた。遺跡全体が生きているかのように、光が壁を伝って広がっていく。
「すごい……」
ナツキが息を呑んだ。それはまるで、巨大な生物の体内に入ったかのようだった。壁には血管のような模様が走り、その中を光が流れている。床も天井も、すべてが有機的な曲線で構成されている。
「この構造……自然と人工の融合だ」
タイガが興奮した声で言った。
「まるで、生きた建築物……」
潜水艇は通路を進んでいく。通路は螺旋状に下へと続いており、さらに深い場所へと誘っている。
「深度八十メートル。海底よりさらに深い……遺跡は地下に広がってるわ」
セイが報告した。
「どこまで続いてるんだ……」
アマネが呟いた。やがて、通路は開けた。巨大な空間が現れた。それは、円形のホールのような場所だった。天井は高く、壁一面に光の模様が走っている。そして中央には、生命の設計図であるDNAを模したような、巨大な二重螺旋構造の結晶が鎮座していた。その姿は、海が何億年もの間、紡ぎ続けてきた命の集大成のように見えた。いや、浮かんでいるのではない。無数の光の糸で支えられているのだ。その糸は壁から伸び、結晶を包み込んでいる。
「これは……」
三人は言葉を失った。結晶は脈動するように光を放ち、その光は波紋のように周囲に広がっている。まるで心臓のように。
「ニライカナイの心臓……」
ナツキが呟いた。
「心臓?」
「ええ。琉球の伝説に語られる、生命の源泉。それがここにある」
彼女の言葉に、タイガがセンサーを向けた。
「eDNA濃度が……桁違いだ! 計測器が振り切れてる!」
彼は信じられないという表情で画面を見つめている。
「この結晶は、全海洋のeDNA情報を保存してるんだ……何億年分もの生命の記録を!」
「何億年……?」
アマネが驚いた。
「ああ。この情報量は尋常じゃない。地球上のすべての海の、すべての生命の記録……」
その時だった。結晶が強く輝いた。そして、アマネのコンソールから自動的に、兄の音が流れ始めた。
「ザー……キィィィ……」
「え……? 勝手に再生が!」
アマネが驚いた。結晶がその音に反応し、同じ音を返してきた。そして、さらに続きの音が流れ始めた。
「キィィィィ……ゴォォォ……」
それは兄の音の欠けていた部分だった。パズルのピースが埋まっていく。
「記録されてた……! 残りのパターンが!」
タイガが興奮している。ナツキは両手を結晶に向けた。すると、彼女の周りに無数の光の粒子が集まってきた。それは美しく、神秘的で、まるで彼女が光の一部になったかのようだった。
「……聞こえる。全部聞こえる」
ナツキの声が、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。
「昔々の海の声。たくさんの命の歌。喜びも、悲しみも、すべて……」
彼女の目から涙が流れた。
「こんなに……こんなにたくさんの命が、ここで生きていたんだ……」
その時、セイが警告を発した。
「遺跡全体が乱れてる! 外から何か異質なものが流れ込んでくる!」
「何!?」
アマネが振り返った。タイガのタブレットが激しく振動し始めた。
「僕のタブレットが……また反応してる! 前回と同じパターンだ!」
タイガが画面を確認する。そこには、黒いノイズが広がり始めていた。
ナツキは目を閉じた。すると、彼女の表情が苦痛に歪む。
「海が……怯えてる! 記憶を……奪われそうになってる!」
タイガのタブレット越しに、奇妙な映像が流れ込んできた。それは海に広がる黒い液体。ブラックカレント。サンゴを侵食し、命の痕跡を消していく恐ろしい光景。
「これは……」
タイガが息を呑んだ。そして、映像の中に声が響いた。冷たく、機械的な声。
『観測完了。データ収集を開始する』
「誰だ……?」
アマネが叫んだ。だが、答えは返ってこなかった。代わりに、結晶の光が乱れ始めた。ブラックカレントの影響が、遺跡のシステムにまで及んでいるのだ。
「まずい……! このままじゃ記録が奪われる!」
セイが必死に防御プログラムを起動している。ナツキが両手を強く握りしめた。
「させない……! 海の記憶は、渡さない!」
彼女の意志が、光の粒子を通じて結晶に伝わった。結晶が強く輝き、侵入者を押し返す。モニターのノイズが消え、通信が途絶えた。
「……退けた、みたい」
セイがホッとした声で言った。だが、三人の表情は曇っていた。
「誰かが、遺跡を狙ってる……」
アマネが呟いた。
「それも、かなり高度な技術を持った組織だ」
タイガが付け加えた。
ナツキは結晶を見つめたまま、静かに言った。
「戻ろう。今は、これ以上危険を冒せない」
三人は頷き合った。潜水艇は結晶の部屋を後にし、来た道を引き返し始めた。だが、彼らの心には不安が残っていた。海の記憶を守るための戦いが、今始まろうとしていることを、彼らは知っていた。
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