第二章 痕跡のささやき

翌朝。夜明け前のガレージは、ひんやりとした空気に包まれていた。まだ太陽は昇っておらず、東の空がわずかに白み始めたばかりだ。潮の香りが濃く、どこか神聖な雰囲気が漂っている。


アマネは一人、潜水艇の最終点検を行っていた。LEDライトの明かりを頼りに、配線を確認し、バルブを締め直す。手には油が付着し、額には汗が光っている。


「よし……準備万端だ」


彼が呟いた時、ガレージのシャッターが開く音がした。ナツキとタイガが、それぞれ荷物を抱えて入ってきた。ナツキは小さなリュックサック、タイガは大量の機材が詰まった防水ケースを持っている。


「おはよう」


ナツキが柔らかく微笑んだ。彼女も早起きのようだ。白いワンピースの上に薄手のパーカーを羽織っている。朝の冷気に少し震えているようだ。


「時間通りだな」


アマネが頷いた。


「僕の機材、積んでもいい? eDNAサンプラーと、共鳴パターン解析装置と……」


タイガが次々と機材を並べ始める。その量に、アマネは少し呆れた表情を浮かべた。


「全部は無理だ。必要最低限にしろ」


「全部必要なんだけど……」


「三つだけだ」


「えぇ!?」


タイガは不満そうだったが、最終的に三つの機材だけを選び出した。ポータブルeDNAシーケンサー、水中センサーアレイ、そしてタブレット端末。


「これで……まあ、何とかなる」


彼はそう言って、機材を潜水艇のカーゴスペースに詰め込み始めた。


ナツキは静かにガレージの奥へ歩いていき、壁に貼られた海の写真を眺めていた。色鮮やかなサンゴ礁。魚の群れ。太陽の光が水面から差し込む、美しい光景。


「……綺麗」


懐かしさに目を細めながら、彼女はそっと言葉を漏らした。アマネが隣に立った。


「兄さんが撮った写真だ。十年前の、この海の姿」


「今は……」


「ああ。ほとんどが白化した」


二人の間に、重い沈黙が流れた。


「でも」


ナツキが顔を上げた。


「まだ、声は聞こえる。弱くなってるけど……消えてない」


「それを確かめに行くんだな」


アマネが言った。


「うん」


ナツキは迷いを振り払うように、力強く応じた。


「準備完了!」


タイガが親指を立てた。


「じゃあ、行こう」


アマネが潜水艇のハッチを開けた。三人は順番に中へ入る。コクピットに体を滑り込ませ、座席に座る。ナツキとタイガが観測席、アマネが操縦席だ。


「昨日見たときより整頓されてるな」


タイガが頷きながら呟いた。


「朝から片付けてたんだ。機材も積みやすいように」


アマネがハッチを閉める。カチャンという音と共に、外界から遮断された。コクピット内は薄暗く、計器の青白い光だけが空間を照らしている。空気は少し湿っぽく、金属と潮の匂いが混ざり合っている。


「全システム、起動します」


アマネがスイッチを入れると、計器盤が次々と点灯していった。その時だった。コンソールの上に、青白いホログラムが浮かび上がった。人型の、女性のような姿。髪は光の粒子でできており、ゆらゆらと揺れている。顔立ちは明瞭で、どこか親しみやすい笑顔を浮かべていた。


「おはようございます! セイ、起動完了です!」


明るい声が響いた。


「わっ!」


ナツキが驚いて身を引いた。


「AI……?」


タイガが目を丸くしている。


「補助AIのセイだ。兄さんが搭載していた」


アマネが説明した。セイはホログラムの姿でお辞儀をした。


「初めまして! 私はこの潜水艇の航行支援AI、セイです。よろしくお願いしますね!」


「し、しゃべった……」


ナツキがまだ驚いている。


「当たり前でしょ! 私はAIだもの」


セイが少しふくれっ面になった。その表情があまりにも人間的で、タイガは興味深そうに観察している。


「このUI、旧式だな。第三世代の対話型AI……今はもう使われてない」


「ちょっと! 『旧式』って何よ! 失礼ねっ!」


セイが怒った声を出した。


「私は最新鋭よ。……まあ、数年くらい前のモデルだけど!」


意地を張るセイの様子に、三人は思わず笑った。緊張が少しほぐれる。


「頼りにしてるぞ、セイ」


アマネが言った。


「まかせなさい! さあ、出発しましょう!」


セイが元気よく答えた。


潜水艇「Chura Geo」は、港のクレーンで海へと降ろされた。水面に着水すると、ゴボゴボという音と共に泡が立ち上る。潜水艇が水に浮かび、波に揺られ始めた。


「潜航シーケンス、開始」


アマネが操縦桿を握った。バラストタンクに海水が注入され、潜水艇はゆっくりと沈み始める。水面が視界の上へと上がっていき、やがて海中へと完全に沈んだ。


世界が青に染まった。太陽の光が水面を貫き、無数の光の筋が海中を走っている。その光は揺らめき、まるで生き物のように動いている。


「綺麗……」


ナツキが息を呑んだ。窓の外には、エメラルドグリーンの海が広がっている。小さな魚の群れが潜水艇の周りを泳ぎ、海藻がゆらゆらと揺れている。水の冷たさは感じないが、ガラス越しに見える世界は確かに別世界だった。


「深度十メートル。順調です」


セイが報告した。タイガはすでにタブレットを操作し、センサーのデータを確認している。


「eDNAスキャナー、オンライン。周辺海域の生物多様性指数……うーん、やはり低いな」


彼は真剣な表情で画面を見つめている。


「海の深いところへ、呼ばれてる」


ナツキは遠い地平を見つめたまま、独り言のように言葉を紡いだ。


「ロマンチストねぇ。まあ、嫌いじゃないけど」


セイが軽口を叩いた。


潜水艇はさらに深く潜っていく。深度二十メートル。深度三十メートル。光が少しずつ弱くなり、海の色が濃くなっていく。エメラルドグリーンから、深い蒼へ。そして、暗い藍色へ。


「深度五十メートル。目的地まであと少し」


セイの声が響く。


窓の外の景色が変わった。白化したサンゴ礁が見え始めたのだ。かつては色鮮やかだったであろうサンゴが、今は真っ白な骨格だけを残している。まるで墓標のように、静かに海底に立ち並んでいる。


「……ひどい」


ナツキが小さく呟いた。彼女の目には涙が滲んでいた。白化したサンゴを見て、心が痛む。かつてここには、たくさんの命があったはずなのに。


「この海域の白化率は九十パーセント以上だ……」


タイガが沈んだ声で言った。


「でも、まだ生きてるサンゴもある。そこに希望はある」


アマネが前を向いたまま言った。その時、センサーが反応を示した。


「異常なeDNA濃度を検出! 前方五百メートル!」


セイの声が緊張を帯びた。タイガがセンサーを確認する。


「これは……計測器が振り切れてる。何かある……!」


三人は身を乗り出して、前方を凝視した。暗い海の中、巨大な影が見えてきた。


「あれは……」


アマネが息を呑んだ。潜水艇がさらに近づくと、その正体が明らかになった。巨大な岩の構造物。階段状のピラミッドを思わせる、荘厳なシルエット。自然が何億年もかけて形作ったような滑らかな曲線と、あまりにも規則的すぎる幾何学模様が混在する、不思議な存在。


それは海底に半ば埋もれており、無数のサンゴに覆われていた。表面には複雑な模様が刻まれている。宇宙から見た地球の血管を思わせるような、有機的でありながら設計されたかのようなライン。だが今は、すべてが暗く沈黙している。


「遺跡……?」


タイガが呟いた。


「こんなものが、沖縄の海底に……?」


「eDNA反応が異常です! 計測不能なほど高濃度!」


セイが警告を出した。


ナツキは目を閉じた。すると、視界が変わった。無数の光の粒子が見える。それらは遺跡から放射状に広がり、海全体を満たしている。まるで、遺跡が海のすべての命と繋がっているかのように。


「大きい……。ずっと昔からここで眠ってる……」


ナツキが震える声で言った。アマネは操縦桿を握ったまま、遺跡を見つめていた。


「兄さん……ここに、何を見つけたんだ……?」


潜水艇は遺跡の周囲を慎重に旋回した。遺跡は想像以上に巨大だった。全体像は海底に埋もれていて分からないが、露出している部分だけでも、建物一つ分はある。表面には幾何学的な模様が刻まれており、その一部が光っている。光は脈動するように明滅し、まるで呼吸しているかのようだ。


「この構造……自然物じゃない。明らかに設計された構造だ」


タイガが興奮した声で言った。


「でも、こんな遺跡の記録は沖縄にはない。琉球王朝時代の建造物とも違う。もっと……もっと古い……」


「どれくらい?」


アマネが尋ねた。


「分からない。でも……数千年、いや、もっと前かもしれない」


想像を絶する歳月に、コクピット内に静寂が広がった。


「この構造から何か分かるか?」


タイガが遺跡の表面を注意深く観察している。


「模様が刻まれてる……でも意味は分からない」


アマネが呟いた時、ふと思いついた。


「兄さんの音を……ここで流してみよう。もしかしたら、何か反応するかもしれない」


アマネがコンソールを操作した。スピーカーから、あの奇妙な音が流れ始めた。


「ザー……キィィィ……」


瞬間。遺跡が反応した。発光が強くなり、模様全体が明るく輝き始めた。そして、遺跡から同じような音が返ってきたのだ。


「キィィィィ……」


共鳴している。


「な、何が起きてる!?」


タイガが叫んだ。センサーが激しく反応を示し、警告音が鳴り響く。


ナツキは両手で頭を押さえていた。


「あ……! 頭の中に……たくさんの記憶が……!」


彼女の周りに、光の粒子が集まり始めた。いや、それは錯覚かもしれない。だが確かに、何かが彼女に流れ込んでいるようだった。


「ナツキ!」


アマネが振り返った。だが、ナツキは苦しそうな表情のまま、言葉を続けた。


「海の……歴史……命の……記録……全部……ここに……」


遺跡の光がさらに強くなる。そして、その光が潜水艇を包み込んだ。コクピット内の計器が一斉に異常を示し、セイのホログラムが激しく乱れた。


「警告! 未知のデータ流入! プロトコルが……突破された!?」


セイの声が混乱している。


「どういうことだ!?」


アマネが叫んだ。


モニターには抽象的な波形とパターンが表示され始めた。意味不明な数値の羅列。だが、その中に奇妙な規則性がある。タイガのタブレットも激しく反応し、警告音を発している。


「僕のタブレットにも何か侵入してる! これは……データじゃない、何か別の……」


タイガが戸惑いながら画面を見つめる。


その時、ナツキが激しく息を呑んだ。


「あ……ああ……!」


彼女の瞳が見開かれ、何か遠くを見つめているかのようだった。アマネとタイガには見えないものを、彼女だけが感じ取っているのだ。


「ナツキ!?」


アマネが振り返った。だが、ナツキは震える声で言葉を紡ぎ始めた。


「見える……昔の海……色鮮やかなサンゴ……たくさんの魚たち……巨大な生き物が泳いでる……」


彼女の目には涙が滲んでいた。


「でも……変わる……海が暗くなる……黒いものが広がって……命の色を奪っていく……」


ナツキは両手で頭を押さえた。


「誰かが……光でできた誰かが……語りかけてる……」


『鍵を……見つけよ……』


ナツキの口から、彼女自身のものではない声が漏れた。


「『記憶を……繋げ……』」


次の瞬間、タイガのタブレットの画面が真っ黒になった。セキュリティが強制的にシャットダウンしたのだ。コクピット内の計器も一時的にダウンする。数秒間の完全な静寂。そして、ゆっくりとシステムが再起動し始めた。


「……何だった、今の……」


タイガが震える声で呟いた。彼のタブレットは再起動中で、奇妙なエラーログを表示している。アマネは操縦桿を握りしめたまま、遺跡を見つめていた。遺跡の光は弱まり、元の穏やかな明滅に戻っている。


ナツキは肩で息をしていた。まるで激しい運動をした後のように、汗が額に滲んでいる。


「大丈夫か!?」


アマネが彼女に声をかけた。


「うん……大丈夫……でも……」


ナツキは震える手で、窓の外を指差した。


「見て……」


三人が窓の外を見た。遺跡の周囲の海が、わずかに変化していた。白化していたサンゴの一部が、ほんの少しだけ色を取り戻しているように見える。


「これは……」


タイガがセンサーを確認した。


「eDNA濃度が……上昇してる? いや、正確には……再構成されてる!?」


「再構成?」


「生命の痕跡が、復元されてる。まるで……記録が再生されてるみたいに……」


信じがたい現象を前にして、三人は顔を見合わせた。


「兄さんの音は……鍵だったのか」


アマネが呟いた。


「この遺跡を起動する、鍵……」


「でも、何のために?」


タイガが尋ねた。ナツキが静かに答えた。


「海を……取り戻すため」


その言葉が、コクピット内に静かに響いた。


潜水艇は遺跡から離れ、上昇を始めた。あまりにも多くのことが起きすぎて、三人は言葉を失っていた。ただ黙って、窓の外の青い海を見つめている。太陽の光が近づいてくる。深い藍色が、蒼に変わり、やがてエメラルドグリーンに戻っていく。


「深度二十メートル。もうすぐ水面です」


セイの声が、いつもの明るさを取り戻していた。


「セイ、さっきのデータ流入は?」


アマネが尋ねた。


「解析中だけど……通常のデータパケットじゃないわ。まるで……生きてるみたいな動き方をしてた」


「生きてる?」


「ええ。自律的に、こちらの防御を避けて侵入してきたの。こんなの、見たことない……」


セイの声が、珍しく真剣だった。やがて、潜水艇は水面へと浮上した。ハッチが開き、新鮮な空気が流れ込んでくる。潮の香り。太陽の暖かさ。生きている世界の感触。


三人は順番に外へ出た。港には誰もいない。朝の静けさだけがある。


「……信じられない」


タイガが呟いた。


「海底に遺跡。eDNAのネットワーク。そして……」


「でも、見たんだ。俺たち全員が」


アマネが言った。ナツキは黙って海を見つめていた。その瞳には、決意が宿っている。


「また、潜らなきゃ」


彼女が言った。


「もっと深く。もっと遠くへ。あの遺跡には、まだ秘密がある」


「危険かもしれないぞ」


アマネが警告した。


「でも……兄さんも、それを知りたかったんだろ?」


ナツキの言葉に、アマネは答えられなかった。その通りだった。兄は何かを見つけ、それを遺した。その意味を知りたい。たとえ危険でも。


「僕も賛成だ」


タイガが言った。


「科学者として、この謎を解明したい。これは……人類の歴史を変えるかもしれない発見だ」


三人は顔を見合わせ、頷き合った。チーム『Chura Geo』。彼らの冒険は、今始まったばかりだった。


そして、彼らはまだ知らなかった。遺跡の秘密を狙う、別の存在がいることを。海の記憶を奪おうとする、黒い影がいることを。


空の彼方、水平線の向こうで、何かが動き始めていた。

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