第一章 海の記憶

アマネのガレージは、港から少し離れた倉庫街の一角にあった。錆びついたシャッターを開けると、薄暗い空間に旧式の潜水艇「Chura Geo」が鎮座している。全長約八メートル、三人乗りの小型潜水艇だ。魚のような流線型の機体は、かつては鮮やかだったであろうモスグリーンの塗装が色褪せ、所々に錆が浮いている。本来は観光用に設計されたものだが、兄が独自に改造を施し、高度なAIシステムや科学機器を搭載できるよう拡張していた。


機体の表面には海藻が付着し、塩の結晶がキラキラと光っている。壁には海の写真や設計図が貼られ、床には工具が雑然と転がっている。空気は油と塩と錆の匂いが混ざり合い、ガレージ特有の濃密さを持っていた。天井の隙間から差し込む光が、舞い上がる埃を照らし出している。


アマネはスパナを手に、潜水艇のコンソールを開いた。額に汗が滲む。エアコンのないガレージの中は蒸し暑く、Tシャツが背中に張り付いている。


「よし……」


配線を確認し、古いデータチップをコンソールに差し込む。カチッという音と共に、モニターが起動した。最初は何も映らなかった。白いノイズが画面を埋め尽くし、スピーカーから「ザーーー」という音が流れる。だがやがて、そのノイズの中に規則的なパルス音が混じり始めた。


「キィィィ……ザザッ……キィィィィ……」


それは不協和音だった。だが単なるノイズではない。何らかの情報が含まれているような、規則性のある音だ。人間の声でもなく、機械音でもない。まるで海そのものが歌っているような、奇妙な響き。


アマネは目を閉じた。兄との思い出がフラッシュバックする。幼い頃、二人で海に潜った日。兄が教えてくれたサンゴ礁の美しさ。色とりどりの魚たち。そして兄が言った言葉。


『海はね、アマネ。全部覚えてるんだよ。ここで生きた命のすべてを』


「兄さん……これが、あんたが最後に聞いた『音』なのか……?」


アマネは再生を止め、データチップを抜いた。手の中で小さく光るプラスチックの欠片。これが鍵なのだと、直感が告げていた。


外から潮風が吹き込んできた。シャッターの隙間から見える空は、真っ青に晴れ渡っている。セミの声が遠くから響き、港の方からは漁船のエンジン音が聞こえてくる。いつもの、変わらない沖縄の午後だった。だが、この音を聞いてしまった今、アマネの日常は変わろうとしていた。


山河(やまかわ)ビーチ。本美町の北端にある、地元の人間しか知らない小さな岬だ。かつてはサンゴ礁が美しいダイビングスポットだったが、近年の白化現象でその姿は大きく変わってしまった。


岬の先端に、ひとりの少女が立っていた。ナツキ。十七歳。長い黒髪を潮風になびかせ、じっと海を見つめている。白いワンピースの裾が風に揺れ、素足に波が寄せては返している。彼女の瞳は、海と同じ色をしていた。深い蒼。その瞳は今、何かを探すように水平線を見つめている。


「……聞こえる」


ナツキは祈るように、静かに言葉をこぼした。周囲には誰もいない。ただ波の音と、海鳥の鳴き声だけが響いている。空は抜けるような青さで、綿雲がゆっくりと流れていく。太陽の光が強く、肌を焦がすような暑さだ。だがナツキには、別の音が聞こえていた。


「たくさんの声が……苦しんでる。消えそうになってる……」


彼女は目を閉じた。すると、世界が変わった。視界が暗くなり、代わりに無数の光の粒子が見え始める。それは海の中を漂い、ゆっくりと流れている。青白い光、緑がかった光、わずかに赤みを帯びた光。色とりどりの光の粒子が、まるで星屑のように海を満たしていた。これがナツキの『力』だった。ユタ――琉球の巫女の血を引く彼女には、海に残された『生命の痕跡』を感じ取る力がある。科学では説明できない、不思議な感覚。それは幼い頃から彼女を悩ませてきたが、同時に海との深い繋がりを与えてくれるものでもあった。


ただ、最近その声は弱くなっている。白化したサンゴからは、もう何も聞こえない。かつて豊かだった海の声は、静寂に飲み込まれようとしていた。


「どうして……? どうしてこんなことに……」


ナツキの目に涙が滲む。その時だった。


「ここだ! この辺りで特異な環境DNA値が観測できるはず!」


突然、背後から声が響いた。ナツキは驚いて振り返る。そこには、大きなバックパックを背負った少年が、派手なスクーターを止めて降りてくるところだった。


「君、何してるの? そこ、危ないよ」


少年は訝しげな顔をしながらナツキに近づいてきた。タイガ。十六歳。那覇から来た天才科学少年だ。細身の体に、少し大きめのメガネ。手には最新型のタブレット端末を持ち、その画面には複雑なグラフが表示されている。


彼の雰囲気は、島の空気とは明らかに異質だった。都会的で、理知的で、どこか浮いている。白いポロシャツは汗で濡れ、額には汗が光っている。この暑さには慣れていないようだ。


「この海の、声を聞いてるの」


ナツキはゆっくりと答えた。タイガは一瞬、呆れたような顔をした。


「声? はあ……非科学的だな。海は分子と物理法則でできてる。声なんてないよ」


彼はそう言って、バックパックから小型の機材を取り出し始めた。センサー類と、サンプリング用のボトル。明らかに調査目的でここに来たようだ。


「科学で説明できないものもあるわ」


ナツキは静かに言い返した。だが、タイガはもう聞いていなかった。彼は膝をついて海水をサンプリングし、その場でタブレットに接続して分析を始めている。


「ふむふむ……やはりeDNAの濃度が異常だ。この海域には何かある……」


彼は夢中になって画面を見つめている。その横顔は、純粋な好奇心に満ちていた。科学への情熱。それがタイガという少年を突き動かしているのだと、ナツキにも分かった。


「あんたたちこそ、ここで何を?」


新しい声が響いた。二人は同時に顔を上げる。そこには、作業着姿の青年が立っていた。アマネだった。彼はナツキとタイガを交互に見て、少し警戒したような表情を浮かべている。この岬は地元の人間しか来ない場所だ。見知らぬ少年少女が何をしているのか、気になったのだろう。


「僕は科学者だ」


タイガは自信たっぷりに答えた。


「この海の生命の痕跡、eDNA――環境DNAを調べてる。君たちには理解できないだろうけどね」


タイガの尊大な物言いに、アマネは少しムッとした表情を浮かべた。


「痕跡、だって?」


アマネはポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作した。そし


て、あの音を再生した。


「なら、この『音』はなんだ」


スマートフォンのスピーカーから、あの奇妙な音が流れ始めた。


「ザー……キィィィ……」


瞬間。ナツキの目が見開かれた。彼女の体が小さく震え、胸に手を当てる。


「あっ……!」


「なっ……」


タイガのタブレットが、激しく反応を示した。画面上のグラフが大きく振れ、警告音が鳴り響く。センサーが何かを検知したのだ。


「なんだこの共鳴パターンは!? ただのノイズじゃない……これは情報だ! 構造化されたデータパターンだ!」


タイガは興奮した様子で画面に釘付けになっている。ナツキは震える声で言った。


「この『声』……知ってる。深くて、悲しい声……!」


三人の視線が交差した。科学者の少年。海の声を聞く少女。兄の遺志を継ぐ青年。異なる三つの視点が、今、一つの現象に向かって交わろうとしていた。


「この音、どこで手に入れたの?」


タイガが真剣な顔でアマネに尋ねた。先ほどまでの高慢な態度は消え、純粋な科学的好奇心だけが彼を突き動かしている。


「兄が……一年前に遺したものだ」


アマネは短く答えた。それ以上は話したくない、という雰囲気が彼から滲み出ていた。だが、ナツキが口を開いた。


「お兄さん……海で、何かを見つけたんだ。この声は、その『何か』からのメッセージ」


彼女の言葉に、アマネは驚いて顔を上げた。


「なんで……お前にそれが分かる?」


「分からない。でも、感じるの。この声は、呼びかけてる。誰かに見つけてほしいって」


ナツキの瞳は真っ直ぐにアマネを見つめている。その瞳には嘘がなかった。タイガが割り込んだ。


「待って。このパターン、発信源を解析できるかもしれない。波形の減衰率から距離を、周波数特性から海底の地形を逆算すれば……」


彼は猛スピードでタブレットを操作し始めた。画面に複雑な計算式が次々と表示されていく。アマネとナツキは、ただそれを見守ることしかできなかった。


潮風が三人の間を吹き抜ける。磯の香りと、太陽に熱せられた岩の匂い。遠くでウミネコが鳴いている。やがて、タイガのタブレットからピッという音が鳴った。


「……出た」


彼は震える声で言った。


「発信源は……本美町沖、水深約七十メートル。座標は……」


画面には、詳細な海底地形図と、一つの赤い点が表示されていた。


「この場所……」


アマネは息を呑んだ。


「兄さんが最後に向かった海域だ……!」


三人の間に、緊張が走った。ナツキが静かに言った。


「行かなきゃ。その場所に」


「でも、どうやって? 水深七十メートルだぞ。普通のダイビングじゃ無理だ」


タイガが現実的な問題を指摘する。アマネは少し考え込んだ後、意を決したように言った。


「……潜水艇がある。兄が遺した、Chura Geo(ちゅらじお)」


「潜水艇? 本当に?」


タイガの目が輝いた。


「ああ。修理は終わってる。動力も問題ない。ただ……」


アマネは二人を見た。


「俺一人じゃ、何も分からない。お前たちの力が必要だ」


「私は……声を聞ける。道案内ならできる」


ナツキは静かに、決意を込めて首を縦に振った。


「僕は科学的分析ができる。eDNAパターンの解析は僕の専門分野だ」


タイガも同意した。三人は顔を見合わせた。出会ったばかりの、見知らぬ三人。だが不思議と、運命が彼らを引き寄せたような感覚があった。アマネが手を差し出した。


「チームを組もう。潜水艇の名前にちなんで……チーム『Chura Geo』だ」


ナツキが微笑んで、その手を取った。


「うん」


タイガも少し照れたように、手を重ねた。


「合理的だ。異議はない」


三人の手が重なり合う。その向こうに広がる海は、今日も静かに波を返していた。エメラルドグリーンの海面がキラキラと輝き、水平線の彼方へと続いている。海の底で、何かが待っている。兄が遺した謎。ナツキが聞く声。タイガが追う科学。それらすべてが、海の記憶へと繋がっていく。


その夜、アマネのガレージに三人は集まった。潜水艇「Chura Geo」のハッチを開け、内部を確認する。コクピットは三人が座れるよう設計されており、操縦席と二つの観測席が配置されている。計器類は古いが、基本的な機能は問題なく動作していた。


「兄さんが独自に改造を加えてる……このセンサーアレイは、おそらく音響探知用だな」


アマネが配線を確認しながら言った。タイガは興奮した様子で計器盤を調べている。


「これは……eDNAサンプラー? いや、違う。共鳴パターン検出器だ! こんなもの、まだ実用化されてないはずなのに!」


「お兄さんは、何を見つけようとしていたんだろう……」


ナツキが不安そうに呟いた。アマネは無言で、兄が残した設計図を見つめていた。壁に貼られた海の写真。サンゴ礁の美しい光景。そして、何枚かの白化したサンゴの写真。


『海はね、アマネ。全部覚えてるんだよ』


兄の言葉が、脳裏に蘇る。


「明日、出発しよう」


アマネが言った。


「早朝に。海が一番静かな時間に潜る」


その言葉に押されるように、二人は深く首を縦に振った。


ガレージの外では、虫の声が響いている。沖縄の夜は蒸し暑く、空気が肌にまとわりつく。だが星空は美しく、天の川がくっきりと見えていた。三人はそれぞれの想いを胸に、明日への準備を続けた。アマネは兄への想い。ナツキは海への想い。タイガは真実への想い。


そして、彼らはまだ知らなかった。この潜航が、世界を変える第一歩になる


のだということを。海の記憶が、今、動き始めようとしていることを。

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