第2話
わたしはしばらく、その世界で、特に困ることもなく過ごしていた。
寝て、起きて、食べて、また寝る。
起きたらさっぱりしているので、たぶん寝ている間に侍女さんたちにお風呂に入れられている。
記憶はない。けど、髪はさらさらだ。
そんな生活。
やたらと長い夢だと思っていた。
さすがに長すぎる。
三日目あたりから、夢にしては設定が凝りすぎている。
ある日、ぽつりとリンゼ様に漏らした。
「夢が……終わらないんです……
毎日、同じリンゼ様が出てくる夢を見て……」
リンゼ様は、少し目を細めてから、言った。
「わたしもだ」
声が、やけに柔らかい。
「毎日、同じ夢を見ている。
眠っていても、目覚めていても、夢の中にいる」
……たぶん。
夢の意味、違う。
わたしは「寝てる間に見る夢」の話をしているのに、
リンゼ様は「人生的な比喩」とか「運命的なやつ」の話をしている。
その証拠に、
吐息まじりで、ちょっとポエムっぽい。
リンゼ様は続けて言った。
「皇太子としての名に、“様”など要らない。
プライベートでは、リンゼと呼んでくれたら嬉しい」
……え、急に距離詰めてきた。
でも夢だし。
そう思って、試しに呼んでみた。
「……リンゼ」
すると彼は、
ぱっと顔を明るくして、
「はぁぁぁ……」と、深く息を吐いた。
なにその反応。
「まだ、己の名は思い出せないのか?」
リンゼは、さっきよりずっと優しい声で尋ねてくる。
わたしは考えるふりをしながら、
実は別のことを考えていた。
――名前、思い出せないというより。
そもそも、あったかどうかも怪しい。
しばらく黙ってから、伝えた。
「……名前、つけてほしい」
リンゼは、きょとんとした。
そして次の瞬間、
また少しだけ、うれしそうに笑った。
まるで、
とても大事な役目を任されたみたいに。
リンゼは、一瞬だけ瞬きをした。
金色の瞳が、
まるで「今、現実か?」と確認するみたいに、
ゆっくりとわたしを映す。
そして次の瞬間。
――完全に、固まった。
「………………」
声が出ない代わりに、
胸元に手を当て、
深く息を吸って……吐いて……
「……ああ……」
はぁぁぁ……と、
さっきよりもずっと深い溜め息をつく。
魂、抜けた音がした。
「……なんという……」
額に手を当て、少し俯いてから、
耐えきれないように笑う。
「人間とは……
ここまで、残酷に可愛い生き物なのか……」
……え、なにそれ。
褒めてる? 困ってる?
わたしは少し不安になる。
変なことを言っただろうか、と。
でもリンゼはすぐに顔を上げ、
さっきまでの「うっとり夢見がち皇太子」ではない、
やけに真剣な目でこちらを見た。
選ぶ者の目、だった。
「名前というのはな」
低く、落ち着いた声。
「この大陸では、
存在を世界に固定する“杭”だ」
……杭。
近づいてくる。
でも、触れない。
絶妙に近い。近いけど触れない。
「呼ばれるたび、
そこに“在る”と認められる」
だから、と続ける。
「軽々しく与えるものではない。
――だが」
ふっと、笑った。
「お前が望むなら、
わたしは世界で一番、大切に呼ぶ」
……急に重い。
名付け、思ったより重い。
リンゼは少し黙り込んだ。
考えている。
たぶん、ものすごく真剣に。
その間、わたしは何も言えない。
口を挟んだら、変な方向に行きそうで。
やがてリンゼは、
そっと、わたしの額に指を近づけて――
触れずに、止めた。
触れないのかい。
「……人間の神話でな」
静かに語る。
「始まりの女は、
“名を与えられることで”
この世界に留まったとされている」
金色の瞳が、やさしく細まる。
「だからこれは、
飼う名でも、
所有の名でもない」
少し照れたように、
でも誇らしげに。
「――わたしが、この世界に
お前を“迎える名”だ」
そして、ゆっくり、丁寧に言った。
「……リラ」
音を、確かめるみたいに。
「柔らかくて、
風に揺れて、
折れそうで……
でも、香りだけは強く残る花の名だ」
……説明、長い。
でも、悪くない。
そして初めて、
ほんの一瞬だけ、
指先がわたしの髪に触れた。
「リラ。
わたしが呼ぶたび、
ここに在れ」
声が、少し震れていた。
「……呼ばせてくれるか?」
その瞬間、
世界が「かちり」と音を立てて
はまった気がした。
夢かどうかは、
まだ分からない。
でも――
名前を呼ばれる場所が、
ひとつ、できてしまった。
「飼う名でも、所有の名でもない」
そう、ちゃんと言われたのに。
“リラ”という響きを与えられたわたしは、
気づけば、命ごとリンゼに預けている、
とても脆い存在になっていた。
(……いいです……
優しく労ってくれるなら……
飼ってくれても……)
……あ、心の声です。
体温と鼓動を、
やっと少し取り戻しただけの、
獣人に比べたら、ものすごくひ弱な存在。
まだ、
お互いに「ちょうどいい距離」を探している途中。
過保護になりがちな皇太子リンゼと、
されるがままの人間リラ。
たぶんこの先も、
その距離は、何度もずれる。
でも――
それを直す気は、
どちらにも、あまりなさそうだった。
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