人間は、この世界ではひどく脆い(らしい)

万華実夕

第1話

わたしが召喚された異世界は――

始まりの男女こそ存在したものの、その後いっさい人間が増えなかった、

獣人だけの大陸だった。


結果として、この世界における「人間」は、

神に最も近く、ひどく貴重で、

そして実物を見たことがある者が、ほぼ存在しない。


つまり――伝説。


そんな伝説を、

ライオン獣人の皇太子リンゼ様が、どうやらうっかり呼び出してしまったらしい。


リンゼ様はこれまで、

肉食系獣人の雌とも、草食系獣人の雌とも、

それなりに浮名を流してきたという。


いわゆる、プレイボーイだ。


けれど、どうも「しっくりこない」。

そこで芽生えたのが、


『人間の女の子を愛でてみたい』


という、

わりと正直で、わりと軽率な好奇心だったらしい。


人間はきっと、ひ弱で、壊れやすくて、

その代わりに、抱きしめたくなるほど愛おしい存在――


そんなふうに、想像の中でだいぶ美化されていたようだ。


そして、たまたま呼ばれたのが、

わたしだった。


軽度のうつ病を抱え、

最近は「寝る・起きる・食べる」をこなすだけで精一杯の、


ほぼ省エネ生物。


正直、神に近い要素は一ミリもない。


リンゼ様以外の従者たちは、

一斉に、そんな顔をしていた。


(え……これが……人間……?)

(神に……最も近い……?)


スーパーの野菜売り場で、

元気のない“もやし”を見つめるときの、あの視線。

居心地、最悪。


そんな中で、

玉座に座るリンゼ様だけが、なぜか少し頬を赤らめていた。


最初にかけられた言葉は、


「よく来た……腰をおろせ」


全校集会みたいな言い方だったので、

わたしは素直に受け取って、

大理石の床に、すとん、と体育座りをした。


キョロキョロ。


するとリンゼ様が、明らかに困った顔をする。


「……いや、そういう意味ではない。

 その冷たい床に、好んで座らなくてもよい」


そう言って、

ご自身の太ももを、ぽんぽんと叩いた。


……夢だな。


完全にそう思いながら、

言われるがまま、横向きにお膝へ座る。


わたしは、小さく謝った。


「あの……すみません……

 二日、お風呂に入ってなくて……

 ちょっと、臭うと思います……」


(座る前に言えよ、って思われてるかも)


恐る恐る顔を上げると、


リンゼ様は――


すーはー。

すーはー。


わたしの髪の毛を、

ものすごく真剣に嗅いでいた。


「……これが、純粋な人間の匂いか……」

満足そうだ。


側近らしき獣人と目が合う。

無言で、目を逸らされた。


リンゼ様は、にこにこしながら

「元気がないな」「大人しいな」と言ってくる。


すると、サイの皮膚をした、いかにも偉そうな側近が進み出て、


「恐れながら……

 人間は脆く、か弱い存在と聞き及んでおります。

 致し方ないかと……」

と、もっともらしく頷いた。


その会話を聞きながら、

わたしは心の中で、そっと思う。


――いや。

わたしは、ただの軽度うつの人間なだけなんだけどな。


神でも、伝説でもなく、

たぶん今は、もやし寄り。


でもどうやら、

この皇太子様だけは、

その“もやし”を、えらく大事そうに抱えているらしい。


リンゼ様は、

どこかから人間を召喚するという禁じ手を使う代償に、

ご自身のたてがみを差し出したらしい。


「たてがみくらい、くれてやる」


そう言っての決断だったそうだ。


……いや、軽く言うけど。


ライオン獣人にとって、たてがみは、

強さの象徴であり、誇りであり、

「俺は強いです」と全身で主張するための重要パーツである。


人間で言えば、

社会的地位とか、肩書きとか、

ついでに自尊心を全部まとめて差し出すようなものだ。


もっともリンゼ様は、

普段はほぼ人間と変わらない姿で過ごしている。


なので今のところ、

「皇太子のたてがみがなくなった」なんて、

誰も気づいていない。


完全に獣の姿へ変わる周期――

そのときが来るまでは。


つまり、

時限爆弾みたいな秘密を抱えたまま、

リンゼ様は今日も普通に振る舞っている。


そして、その大事な代償を払ってまで召喚された人間が、

よりによって――


わたしだった。


軽度のうつ持ちで、

最近は生存に必要な最低限の行動しかできていない、

ほぼ室内栽培向きの人間。


これが、この国においては、

かなり重大な出来事らしい。


なにせ、人間はこの世界に一人しかいない。

しかも、リンゼ様以外、

誰も「私有」できない存在。


……いや、私有って何。


ペット?

宝物?

文化財?


本人の意思は、

今のところ完全に置き去りである。


それが、

たてがみを犠牲にしてまで呼ばれた存在。


――わたし、らしい。


正直、

そんな大層な価値があるようには思えない。


けれどリンゼ様は、

その事実を誇るでも、後悔するでもなく、

ただ当然のことのように受け止めている。


たてがみより、

今はわたしの体調のほうが気になるらしい。


……この人、

本当にそれでいいのだろうか。

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