最終話:凪いだ世界の、その先で
三月、学び舎の空気はエントロピーの極致に達していた。
卒業証書の丸められた紙の擦れる音、どこか情緒不安定な合唱の残響、そして惜別の言葉と共に飛び交うデジタルなシャッター音。誰もがこの瞬間の「特別さ」を記録しようと躍起になり、教室という閉鎖空間に漂う熱量は、論理的な予測を遥かに上回る飽和状態にある。
僕は、喧騒から少し離れた中庭の隅に立っていた。
視界の端では、数人のクラスメイトが並んで自撮りに興じている。彼らの背後、レンズの死角に当たる場所に、その少女はいた。
隠岐 凪(おき なぎ)。
彼女は、舞い散る桜の花びらの軌道すら修正せず、ただそこに立ち尽くしていた。
本来の彼女なら、この「最後の日」を最高に美しく調律するはずだ。光の屈折を操り、自分の髪をより艶やかに見せ、僕との別れを惜しむノイズをすべて因果の彼方へ葬り去ることなど、彼女には造作もない。
だが、今日の凪は、驚くほど無防備で、そして透明だった。
彼女を視界に入れている者は、やはり僕以外に誰もいない。クラスメイトたちは彼女のすぐ横を、まるでそこにある彫像を避けるような無意識の動作で通り過ぎていく。
「……凪。お前、今日は一度も指先を動かしていないな。エントロピーは増大し放題、気流も乱れっぱなしだ。お前の言う『凪(なぎ)』が、これでは台無しだろう」
僕が声をかけると、凪はゆっくりとこちらを振り向いた。
彼女の黒髪に、一枚の花びらが止まる。それは彼女が「偶然」を受け入れている証だった。
「……今日は、調律はしないと決めたんです。……朝陽君が教えてくれた……『普通』のままで、ここにいたかったから」
凪の声は、喧騒の中に溶けてしまいそうなほど微かだった。
けれど、僕の鼓膜には、どんな大音量の音楽よりも鮮明に届く。
「非合理的だな。お前が力を振るわなければ、僕たちはこの雑多な群衆の中に埋没してしまう。……ほら、そこにいる連中は、僕が一人で空を仰いでいる変人だと思っているぞ」
「……それで、いいんです。……世界が私を見なくても、朝陽君が、私を見つけてくれたから。……それが、私の人生で唯一の、本物の奇跡だから」
凪は、震える手で自分の胸元を掴んだ。
彼女の指先は、因果を操る全能感に満ちたそれではなく、ただ未来に怯え、それでも懸命に現在を肯定しようとする、一人の少女のものだった。
僕は一歩、彼女との距離を詰めた。
三ミリどころではない。彼女の吐息が白く混ざり合うほどの、物理的な最短距離。
「……凪。お前の監視役としての僕の任務は、今日で一区切りだが。……残念ながら、僕はこれからもお前の観測を続けるつもりだ」
凪が、驚いたように目を見開く。
「……どうして? 卒業したら、朝陽君は……自由になれるのに」
「自由、か。お前に管理された三年間は、確かに論理的な不自由に満ちていた。……だが、不確定要素だらけの広い世界で、お前という『確定した安寧』を失うことほど、僕にとって恐ろしい計算ミスはない」
僕は、彼女の冷えた手を、迷いなく握りしめた。
凪が能力を使って僕の手を引かせたのではない。僕が、自分の意志で、彼女の境界線を超えたのだ。
凪の体温が、手のひらを通じて僕の身体に流れ込んでくる。
彼女は、一瞬だけ泣きそうな顔をした。そして、僕の手を壊れ物を扱うような力加減で、けれど決して離さないという強い意志で握り返した。
「……朝陽君。……私の世界は、これからも、あなたを中心に回り続けます。……それでも、いいんですか?」
「ああ。お前の不器用な調律に、一生付き合ってやる。……ただし、やりすぎた時は、何度でもデコピンを食らわせるぞ」
凪は、今度こそ、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
その瞬間、周囲の喧騒がふっと遠のいた気がした。
彼女が能力を使ったわけではない。ただ、僕たちの間に流れる時間が、他者の介入を許さないほど完璧に、満たされていたからだ。
「……大好きです、朝陽君。……この一文字の続きを……ずっと、言いたかった」
彼女の告白は、風に消されることも、因果に葬り去られることもなく、僕の心の一番深い場所に定着した。
僕たちは、繋いだ手を離さないまま、学び舎の門へと歩き出した。
透明な神様は、もうどこにもいない。
隣にいるのは、僕の小言に耳を赤くし、少しだけ歩幅を合わせるのが下手な、愛らしい僕の隣人だ。
凪いだ世界の、その先へ。
僕たちの幸福な不自由は、この春の光の中で、どこまでも続いていく。
(完)
凪の調律、朝陽の溜息 淡綴(あわつづり) @muniyu
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