第九話:騒めきの外側、静謐な問い
教室は、無秩序な情報の奔流で満ちている。
昼休み。誰かの笑い声、机を引く乾いた摩擦音、購買のパンを巡る騒がしい議論。それらは私の意識の表層を滑り落ち、意味を成さない不規則なノイズとして処理される。
私は、周囲の認識の解像度をわずかに下げる。
そうすることで、私と朝陽君の周りには、誰にも邪魔されない透明な防波堤が築かれる。クラスメイトたちは、私たちがこうして密着するように隣り合って座っていても、それを「壁に掲げられた予定表」と同じくらい当たり前の光景として受け入れ、思考から除外していく。
完璧な安寧。私が最も望んでいた、凪(なぎ)いだ世界。
けれど、私の指先は、制服のポケットの中で一枚の小さな紙片を探っていた。
――あの日、風に預けて消し去ったはずの、未完成の言葉。
朝陽君が拾い上げた、たった一文字の『――き』。
彼はそれを「ゴミではない」と言い、自分のポケットに収めた。その事実が、私の演算回路にずっと消えないエラーを出し続けている。
「……朝陽君」
本を読んでいた彼の視線が、ゆっくりと私に向けられる。
この教室という喧騒の海で、私を真っ直ぐに、背景としてではなく「隠岐凪」という個体として認識している唯一の観測者。
「……どうして、私と一緒にいてくれるんですか」
私の唇から溢れたのは、因果を操る力では決して答えを導き出せない、最も非論理的な問いだった。
「どうして、とは。お前が僕の隣を『不可侵の座標』として固定しているからだろう。確率論的に、僕はここに座る以外の選択肢を奪われていると言ってもいい」
朝陽君はいつものように、理屈っぽく答える。でも、私は首を振った。
「……違います。私の力なんて、朝陽君には通用しない。……あなたが本気で嫌だと思えば、この椅子を立って、他の誰かの隣へ行くこともできるはずなのに」
そう。私は世界を騙せても、彼だけは騙せない。
私はかつて、この力で世界を壊しかけた怪物だ。彼が私の監視役を引き受けているのは、単なる義務感からなのか。あるいは、私があまりに不器用で、目を離すとまた不吉な奇跡を起こしてしまうからなのだろうか。
朝陽君は本を閉じ、私をじっと見つめた。
「凪。お前は自分の力を『全能』だと思っているかもしれないが、僕から見れば、お前は世界で一番危なっかしい欠陥品だ。……自分の恋心一つ制御できずに、風を吹かせて手紙をバラバラにするような、そんな非効率な女の子を放っておけるほど、僕は冷酷じゃない」
心臓が、跳ねる。
彼の手が、私のポケットに触れた。
「……あの時、拾った一文字の続き。……お前はあれを、どう結ぶつもりだったんだ」
クラスメイトの誰かが、冗談を言って大きく笑った。
その喧騒の外側で、私と彼の間だけが、真空のように静まり返る。
私の能力は、朝陽君の心には干渉できない。
だから、今この瞬間、私の頬が熱くなり、喉が震えているのは、因果の調整などではない。純粋で、不確かな、私の意志。
「……続きは、……まだ、書けていません。……書き上げても、また……風で、消しちゃうかもしれないから」
「なら、今度は風が吹く前に、僕がその手を掴んでやる。……お前が神様を辞めて、ただの隣人でいる限り、僕の観測対象はお前一人だけだ」
朝陽君の手が、机の下で私の手を包み込んだ。
彼の指先は温かく、力強い。
世界を操る私の指先が、その温度に負けて、小さく震える。
ああ、そうか。
私は、彼に自分を管理してほしかったわけじゃない。
私がどれだけ歪めた世界の中にいても、彼にだけは、私の本当の居場所を見つけてほしかったのだ。
「……朝陽君」
「なんだ」
「……三ミリだけ。……もっと、近くにいてもいいですか」
「……お前のことだ。僕が許可しなくても、勝手に距離を調律するんだろう?」
彼は呆れたように溜息をついたけれど、繋いだ手を離すことはなかった。
騒がしい教室の中で、私たちだけが、完璧に凪いだ幸福の中に沈んでいく。
私は、まだ伝えられていない一文字の続きを、心の中でそっと書き留めた。
それはきっと、どんな奇跡よりも不合理で、どんな数式よりも美しい、私の本当の答え。
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