第八話:味覚の最適化、親愛の温度
家庭科室という場所は、論理的な調理工程と、多分に情緒的な「振る舞い」が混在する特異な空間だ。
換気扇の唸り、包丁がまな板を叩く不規則なビート、そして焦げた醤油の匂いが充満し、クラスメイトたちの騒がしい声が反響している。この無秩序な喧騒の中で、凪の周囲だけは、やはり静まり返った真空地帯のように澄んでいた。
今日の調理実習の課題は、ごくありふれた親子丼だった。
鶏肉を切り、玉ねぎを煮詰め、卵で閉じる。その単純なプロセスに、凪は世界の滅亡を阻止するかのような精密さで取り組んでいた。
「……凪。お前、火力を弄ったな。コンロのダイヤルは中火を指しているが、鍋の中の対流は明らかに低温調理に近い挙動を示している」
僕は隣の調理台で、自分の不格好な親子丼と格闘しながら指摘した。
凪は菜箸を動かす手を止めず、鍋の中から立ち上る湯気をじっと見つめている。彼女の指先が微かに動くたび、立ち上る蒸気の密度が不自然に変化し、熱伝導の効率が最適化されていく。
「……鶏肉のタンパク質が、凝固するのを……嫌がっただけです。……火は、嘘をつかないから」
「嘘をついているのはお前の因果干渉の方だ。……まあいい。お前のこだわりには付き合いきれない」
周囲の班では、卵が固まりすぎたと嘆く声や、割り下の味が濃すぎると笑い合う声が響いている。けれど、僕たちの班に茶々を入れてくる者はいない。凪が放つ「風景としての透明度」が、僕たちの会話を他者の意識からごく自然に排除していた。
やがて、完成した料理を机に並べる。
凪が僕の前に置いたどんぶりは、盛り付けの色彩から出汁の香りまで、非の打ち所がないほど整っていた。
僕は箸を割り、一口運ぶ。
舌の上に広がったのは、驚くべき「調和」だった。
「……どう、ですか」
凪が、自分の分には手をつけず、僕の反応を伺うようにじっと見つめてくる。
「……非合理的だ。味付けの濃淡が、僕が今朝から感じていた微かな喉の渇きを正確に補完している。鶏肉の弾力も、僕の咀嚼回数を最小限に抑えるよう調整されているな」
僕は確信を持って断言した。
これは単に「美味しい料理」ではない。凪が空気中の成分を微調整し、僕の味覚受容体のコンディションにまで配慮した、僕専用の最適解だ。
「……やりすぎだ、凪。……お前の味がする」
僕がそう言うと、凪は一瞬、思考が停止したように静止した。
そして、顔を真っ赤に染めると、手近にあった教科書を盾にするようにして顔を隠した。
「……味なんて、しません。……私は、ただ、適当に……煮ただけです」
「適当なわけがない。……隠岐 凪という個体が僕に対して抱いている、過剰なまでの配慮と執着を煮詰めたら、こういう味になるんだろう。……正直、これに慣らされるのが少し怖いくらいだ」
凪は教科書の陰で、消え入りそうな声で「……バカ」と呟いた。
けれど、彼女が教科書の下でページをめくるふりをしながら、僕が最後の一粒まで食べ終えるのを、一瞬も欠かさず観測していたことを僕は知っている。
「……朝陽君が、一番いい状態で……食べてほしかっただけだから」
彼女は教科書を閉じ、僕にしか聞こえない音量で言った。
その声には、世界の因果を操る万能感など微塵もなかった。ただ、自分の作ったものを美味しいと言ってもらいたいという、あまりにも初歩的で、あまりにも愛らしい少女の願いだけが、調理室の喧騒の隙間に、一滴の雫のように落ちていた。
僕は溜息をつき、空になったどんぶりを片付け始めた。
凪の「調律」は、僕の胃袋だけでなく、論理的に構築されていたはずの僕の感情まで、少しずつ、けれど確実に書き換え始めているようだった。
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