第七話:射的の弾道、意図された失敗
夏祭りという空間は、非日常の皮を被った「混沌」の博覧会だ。
湿度を含んだ熱気、油の焦げる匂い、遠くで響く太鼓の音。これらすべての要素が、人々の理性をわずかに麻痺させ、不確かな高揚感へと駆り立てる。
浴衣姿の凪は、その喧騒の中でも、やはり一人だけ静止した絵画のように透明だった。
彼女の歩幅に合わせて因果が整えられ、人混みは僕たちの進む先に、ごく自然な「隙間」を譲っていく。誰も僕たちを邪魔せず、誰も凪を直視しない。完璧に調律された、僕たちだけの回廊。
「……凪。そんなに物欲しそうに見つめるなら、僕が取ってやろうか」
僕は、足を止めた凪の視線の先――古びた射的の屋台を指差した。
彼女が見つめていたのは、景品棚の端に置かれた、あまり可愛げのないペンギンのぬいぐるみだった。
「……あれは、確率的に、落ちにくい場所にあります。……重心が、後ろに、偏っているから」
凪は淡々と分析を述べた。彼女には視えるのだろう。コルクの弾丸が描くべき放物線と、標的が倒れるための物理的な臨界点が。
「お前が指先一つ動かせば、弾道なんていくらでも補正できるだろうに。……まあいい、貸せ。たまには僕の非力な物理的手段を見せてやる」
僕は三百円を払い、安っぽいコルク銃を手に取った。
凪は僕の隣に立ち、じっとその銃口を見守っている。
僕はペンギンの胸元を狙い、引き金を引いた。
パシッ、という乾いた音。
放たれたコルクは、僕の計算通りにぬいぐるみの中心を捉えた。だが、ペンギンは一瞬ぐらりと揺れただけで、粘り強くその場に留まった。
「……惜しい、です」
凪が小さく呟く。彼女の声には、どこか安堵したような響きがあった。
二発目、三発目。
僕は角度を変え、衝撃を一点に集中させるよう慎重に狙いを定めた。しかし、弾丸が当たる直前、僕の目には「不自然な空気の揺らぎ」が映った。
凪の指先が、浴衣の袂の中でかすかに動いたのだ。
弾丸は、本来当たるべき場所から数ミリだけ逸れ、ペンギンの頭を掠めて空を切った。
「……凪。お前、今、僕の邪魔をしたな」
僕は銃を置き、隣の少女を問い詰めた。
凪は視線を泳がせ、手に持った団扇で顔を半分隠した。
「……風が、悪戯をしただけです。……夏祭りの夜は、気流が、不安定だから」
「嘘をつけ。お前の能力なら、僕に全部の景品を攫わせることだって造作もないはずだ。それをあえて外させるなんて、非効率極まりない」
僕が小言を言うと、凪は団扇をゆっくりと下ろし、夜空に咲き始めた小さな打ち上げ花火を見上げた。
「……全部、手に入ってしまったら……すぐに、終わってしまいます。……『残念だったね』って言って、朝陽君と一緒に笑う理由が、なくなってしまうから」
凪の声は、火花の弾ける音に紛れてしまいそうなほど儚かった。
全能に近い彼女にとって、望んだ結果を手に入れることは日常でしかない。
けれど、彼女が求めていたのは「完璧な成功」ではなく、僕と一緒に肩を落とし、失敗を共有し、また次の屋台へと歩き出すための「普通の不運」だった。
彼女は僕のために奇跡を起こすのをやめ、僕と一緒に笑うために、あえて世界を「不完全に」調律したのだ。
「……贅沢な失敗だな。お前のその『意図されたハズレ』のために、僕の三百円が消えたわけだ」
「……その分、長く、一緒に歩けますから」
凪は僕の浴衣の袖を、いつものようにそっと掴んだ。
彼女の指先から、湿った夜風とは異なる、確かな温もりが伝わってくる。
「……溜息が出るよ。……ほら、行くぞ。次は金魚すくいだ。……今度こそ、お前の邪魔が入らないことを祈るよ」
「……金魚は、水の中だから……光の屈折が、もっと、複雑ですよ」
凪は少しだけ楽しそうに目を細め、僕の隣を歩き出した。
完璧な神様が、僕という不確定要素と過ごすために、わざわざ自分を無力へと落とし込む。
夜空に大輪の花火が弾け、その一瞬の光の中に、凪の幸せそうな微笑みが透明に浮かび上がっていた。
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