第六話:未投函の恋文、消去された勇気

 アナログな通信手段は、あまりに不確定要素が多い。  


 ペン先に込める筆圧の揺らぎ、紙の繊維が吸い込むインクの微量な滲み。それらは計算式で導き出せる「記号」ではなく、制御不能な私の「体温」そのものだ。


 私は、自分の部屋の机で一通の手紙を綴っていた。  


 普段、世界の因果を調律する際に使うリソースのすべてを、たった数百字の文章を構築するために浪費する。それは非効率極まりない行為だったけれど、朝陽君にだけは、私の指先が直接生み出した「言葉」を届けてみたかった。


『好きです』


 白い便箋の上で、その三文字だけが異質な質量を持って鎮座している。  


 因果を操作して彼を私の隣に誘導することは容易(たやす)い。けれど、この言葉だけは、彼に「選択」を委ねるしかない。私の能力が及ばない、唯一の空白地帯へと踏み出すための、これは片道切符だった。


 翌日の放課後。私はその手紙を制服のポケットに忍ばせ、誰もいない図書室の廊下で彼を待っていた。  


 心拍数が、私の意志を無視して加速していく。末梢血管の収縮。体温の微かな上昇。  朝陽君の足音が聞こえてくる。規則正しく、論理的な、私にとって世界で一番心地よいリズム。


(……できない)


 彼の姿が視界に入った瞬間、私の思考回路は致命的なエラーを吐き出した。  


 この手紙を渡してしまえば、私たちの「凪いだ関係」は壊れてしまう。彼が私を拒絶する確率はゼロではない。その不確定な未来を、私は許容できなかった。


 私は、ポケットの中で指先を数ミリ、鋭く動かした。


 瞬間、密閉された廊下に、あり得ないはずの局所的な突風が吹き抜けた。  


 気圧の急激な変動。気流の渦。  


 私の指先から解き放たれた「嵐」は、私の手から便箋を奪い取り、それを鋭い風の刃で引き裂いていく。


 シュレッダーにかけられたような紙片が、雪のように廊下に舞った。  


 私は、自分の臆病さが作り出したその光景を、ただ茫然と眺めていた。  


 これでいい。伝えなければ、失うこともない。私は再び、彼の「隣にいるだけの風景」に戻ればいい。


「……凪?」


 風が止んだ静寂の中、朝陽君の声が響いた。  


 私は何事もなかったかのように、足元に散らばった白い破片を認識から外そうとした。


「……風が、悪戯をしたみたいです。……何でも、ありません」


 私は俯き、彼から視線を逸らした。  


 私の勇気は、今、物理的に消去された。世界の因果は再び、私の望む「停滞」へと収束していくはずだった。




 唐突な大気の不規則振動だった。  


 窓も閉まり、空調も止まっているこの廊下で、今の突風は明らかに自然現象の枠を超えている。  


 凪は顔を伏せ、耳元まで赤くしながら立ち尽くしている。彼女が何かを「なかったこと」にしようとしたのは明白だった。


「……凪。お前、また無駄に力を使ったな。この場所で今の風速を実現するためのエネルギー係数を考えろと言っただろう」


 僕は呆れながら、足元に散らばった紙片を眺めた。  


 彼女は「何でもない」と言ったが、その破片の一つが、僕の靴のすぐそばに落ちていた。


 凪の能力は、僕の身体には干渉できない。  


 だから、僕がその破片を拾い上げるという「事象」も、彼女には止めることができない。


 僕は屈み込み、三角形に引き裂かれた小さな紙片を指先でつまみ上げた。  


 そこには、凪の筆跡で、たった一文字だけが記されていた。


 『――き』


 送り仮名か、あるいはもっと別の、感情の終端か。  


 前後の文脈は風に消され、因果の彼方へ葬り去られている。けれど、その一文字に込められたインクの濃淡が、言葉にできない熱を持って僕の指先に伝わってきた。


「……朝陽君、それは……捨てて、ください。……ゴミ、ですから」


 凪が僕の袖を掴み、消え入りそうな声で懇願する。  


 僕はその紙片をポケットにしまい、彼女の額をいつものように軽く小突いた。


「ゴミかどうかは、僕が判断する。……凪、お前はもう少し、物理的なバックアップの重要性を学んだ方がいい。……この一文字の続きは、今度、お前の口から直接聞かせろ」


 凪は顔を上げ、驚いたように目を見開いた。  


 そして、言葉にならない小さな声を漏らすと、弾かれたように深く俯き、長い黒髪で顔を隠すようにして僕の隣に身を寄せた。


「……っ、…………バカ」


 髪の隙間から、熱を持った吐息が漏れる。  


 掴まれた袖を引く力が、先ほどよりも微かに強くなった。


 世界の因果を書き換える少女が、たった一文字の「答え」から逃げ出そうとしている。  


 その非合理なまでの愛らしさを、僕はポケットの中の小さな紙片とともに、静かに噛み締めていた。

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