第五話:静かなる回想、観測の起点

 第五話:静かなる回想、観測の起点

 病み上がりの身体に、図書室の冷たい空気は少しだけ鋭すぎた。  


 放課後の静寂。窓から差し込む斜光が、宙に舞う塵の粒子を一つ一つ数え上げられるほど鮮やかに照らし出している。  


 僕の隣には、いつものように凪が座っていた。彼女は詩集を開いたまま、一度もページをめくることなく、僕の横顔をじっと観察している。


「……凪。そんなに注視しても、僕の体温はこれ以上下がらないし、上がることもしない。正常値だ」


「……確認、しているだけです。朝陽君が、本当に……ここに、戻ってきてくれたか」


 彼女の声は、図書室の静謐に溶け込んで消えてしまいそうなほど頼りない。  


 数日前の看病。あの時、僕の手を握りしめていた彼女の必死な体温を思い出す。万能な力を持ちながら、僕の熱一つに狼狽(うろた)えていた少女の姿を。


 僕が彼女の「力」を知ったのは、中学時代の、ある酷く荒れた日のことだった。  きっかけは何でもよかったのだと思う。凪という繊細すぎる器から、抑えきれなくなった感情が溢れ出した、ただそれだけのこと。  


 けれど、その溢れ出た雫は、世界の因果を書き換える「嵐」となった。


「……覚えているか、凪。あの日のことを」


 僕の問いに、凪の肩が微かに震えた。  


 あの日。街中の時計が数秒間停止し、重力のベクトルが狂い、人々が自分の名前さえ忘れて茫然と立ち尽くした、あの非論理的な数分間。  


 世界というシステムがバグを起こし、誰もがその奔流に飲み込まれていく中で。  


 唯一、システムの外側に置かれていた僕だけが、その嵐の中心にいた彼女の元へ歩み寄ることができた。


「……朝陽君だけが、変わらなかった。私が何をしても、世界をどれだけ壊しても……あなたは、そこにいた」


 凪がぽつりと呟いた。  


 そうだ。僕は彼女の誘導にも、確率の操作にも一切反応しなかった。  


 泣き叫ぶような嵐の真ん中で、僕はただ立ち尽くす彼女の額を、今と同じように指先で弾いたのだ。


『やりすぎだ、馬鹿。お前が世界を止めても、僕の腹は減るし、宿題は終わらないんだぞ』


 それが、僕たちの「約束」の起点だった。  


 神様のような力を持ちながら、誰にも自分の本質を視てもらえなかった少女。  


 そんな彼女を、ただの「女の子」として叱り、境界線を引いて見せたのが僕だった。


「……あの日、僕が言ったことを覚えているな?」


「……『神様としてではなく、隣人として生きてくれ』」


 凪は詩集を閉じ、その表紙を愛おしそうに撫でた。  


 彼女は今、あの日見せたような強大な干渉を自らに禁じている。  

 代わりに行っているのは、僕のペンの落下を止めるような、あるいはお弁当の中身を少しだけ調整するような、「生活の細部における極微な修整」だけだ。  


 それは彼女なりの、僕という隣人に歩み寄るための、最大限の歩み寄りであり、抑制だった。


「お前の力は、僕にとってはただの『非効率な干渉』でしかない。……だが、その干渉がなければ、僕はこうして穏やかに本を読むことさえできないのかもしれないな」


 僕がそう言うと、凪は目を見開いた。  


 そして、顔を伏せながらも、彼女の白い指先が僕の制服の袖をそっと摘まむ。


「……私は、朝陽君がいてくれる世界が……少しだけ、親切であってほしいだけなんです。……あなたが、笑ってくれる確率が、一パーセントでも上がるように」


 彼女の指先から、微かな「温度」が伝わってくる。  


 それは因果の操作などではなく、彼女自身の、剥き出しの意志だ。  

 僕は溜息をつき、空いている方の手で彼女の頭を軽く撫でた。


「……一パーセントも上げなくていい。……お前が隣で黙って本を読んでいるだけで、僕の幸福度の係数は十分に安定している」


 凪は返事をしなかった。  


 けれど、僕の袖を掴む力が、ほんの少しだけ強くなったのを感じた。    


 世界を揺るがす嵐の果てに、僕たちはこの静かな図書室という安寧に辿り着いた。  


 透明な神様の、三ミリの魔法。  


 それに気づき、監視し、時に甘んじる。  


 それが僕に課せられた、世界で唯一の、そして最も幸福な「観測」という義務なのだ。

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