第四話:看病の境界線、無力の証明
人体とは、驚くほど精密で、同時に救いようもなく不条理なシステムだ。
恒常性(ホメオスタシス)という名の維持機構を備えながら、ウイルスという微細な異物の侵入を許しただけで、脳は容易に熱という名のバグに支配される。三十八度五分。視界が明滅し、論理的な思考は熱せられたゼリーのように形を失っていく。
自分の部屋のベッドに横たわりながら、僕は天井の木目を数えていた。
本来なら、凪が「僕の健康」という事象に干渉し、免疫細胞の活性を確率的に跳ね上げさせれば、こんな不快な時間は回避できたはずだ。だが、彼女の因果操作は、僕の身体という物理的な壁を越えることができない。
不意に、チャイムも鳴らさずに自室のドアが開いた。
音もなく部屋へ滑り込んできたのは、やはり彼女だった。
「……朝陽君」
凪の顔は、いつも以上に透明で、どこか焦燥の色を帯びていた。
彼女は僕の枕元に膝をつき、震える指先を僕の額に近づける。その瞳は、僕を苦しめている熱の正体――分子の異常な振動を、因果のレベルで「調律」しようと試みていた。
だが、何も起こらない。
僕を包む不快な熱気は、凪の全能の力を持ってしても、一分も、一度も減退することはない。
「……ダメ、です。私の、指先が……朝陽君の熱に、届かない」
凪の声は、今にも壊れそうなほど細かった。
彼女は何度か空中で手を動かしたが、やがてその指を力なく握りしめ、膝の上に落とした。
世界を意のままに操り、雨さえも思い通りに降らせる少女が、今、目の前の少年の体温一つ制御できないという現実に直面し、絶望に近い無力感に打ちひしがれている。
「……いいんだ、凪。僕の体質は、お前の能力にとっての『例外事項』だと言っただろう。……物理的な法則に従って、寝ていれば治る」
「……嫌、です。朝陽君が、苦しいのは。……私が、全部……直してあげたいのに」
彼女は俯き、自分の無力な指先を呪うように見つめていた。
けれど、次の瞬間。凪はふらりと立ち上がり、台所へ向かった。
しばらくして戻ってきた彼女の手にあったのは、桶と、丁寧に畳まれた真っ白なタオルだった。
彼女は能力による「奇跡」を諦め、一人の少女としての「物理的な看病」を選択したのだ。
凪は桶に浸したタオルを、その細い腕で精一杯絞る。
そして、熱に浮かされる僕の額に、そっとそれを置いた。
冷たい水の質感。それは凪がいつも僕に見せてくれる「整えられた幸運」とは対照的な、あまりにも不器用で、生々しい触覚だった。
「……冷たいか、確認、してください。……足りなかったら、すぐ、やり直しますから」
彼女は僕の顔を覗き込み、一滴の汗さえ見逃さないという意志で僕を観測している。
凪の指先が、タオルの端を直すついでに、僕の頬に触れた。
彼女の指は、僕の熱を吸い取っていくかのように冷たく、けれど心強い重みを持っていた。
「……十分だ。凪、お前がここまで……人間らしい看病をするとは思わなかったな」
「……朝陽君に、力が効かないから……。私には、こうすることしか、できないから」
凪は僕の手を、両手で包み込んだ。
その感触には、因果の誘導も、確率の操作も介在していない。ただ、彼女の切実な願いが、皮膚という境界線を越えて直接伝わってくる。
万能な少女が、たった一人のために無力になり、ただの女の子として手を握る。
それは、彼女がこれまでに仕掛けてきたどんな高度な調律よりも、僕の胸を非論理的に締め付けた。
「……変な気分だ。世界を操る神様を、僕の部屋に閉じ込めて、労働させているなんて」
「……神様じゃ、ありません。……今は、ただの看病係、ですから」
凪は僕の手を握ったまま、ベッドの脇に体を預けるようにして座り込んだ。
彼女の存在が、僕の周囲から「外部の不規則な不協和音」を消し去っていく。
能力ではなく、彼女の献身そのものが、僕の視界を穏やかな凪(なぎ)へと変えていく。
「……凪。……ありがとう」
僕の言葉に、凪は一瞬、目を見開いた。
そして、顔を真っ赤に染めると、シーツの上に投げ出した自分の腕の中に顔を埋め、固まってしまった。
「……ずるい、です。弱っている時に、そんなこと言うなんて……」
腕に顔を伏せたまま、籠もった声で彼女が呟く。
その小さな震えが、熱に浮かされる僕の意識を、深い安眠へと誘っていく。
能力という境界線の外側で、僕たちは今、世界で最も無力で、最も親密な時間を共有していた。
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