第三話:空白の座席、誘導される動線
「くじ引き」というシステムは、公平性を担保するための最も原始的で、かつ信頼された手段の一つだ。
参加者全員が等しい確率の下に運命を委ねる。そこには私情も作為も介入する余地はない――はずだ。だが、その数学的な前提は、僕の隣に座る少女の前では、あまりにも容易く無効化される。
二ヶ月に一度、教室で行われる席替えの時間は、僕にとって「確率論の敗北」を再確認する儀式でしかなかった。
「次、瀬戸。引けよ」
教壇に置かれた、中身の見えない抽選箱。僕は促されるまま、その中に手を入れた。 指先が数枚の紙片に触れる。その瞬間、箱の中の空気がわずかに震えた。まるで、特定の紙片だけが僕の指に吸い付くような、不自然な吸着力。
引き当てた紙片には「二十四番」と記されていた。窓際の最後列、教室の隅という、僕にとっては理想的な観測地点だ。
僕は自分の席へ向かう。そして、その隣の「二十三番」の席に、既に当然のような顔をして座っている人物を視て、深い溜息を吐き出した。
「凪。お前、今度は何をした。全出席者三十五名。くじを引く順番は出席番号順。僕とお前が再び隣り合わせになる確率は、天文学的とは言わないまでも、偶然で片付けるには無理がある数字だ」
隠岐 凪(おき なぎ)は、新しく自分のものとなった机を指先でそっとなぞっていた。
彼女は僕の追求を気にする様子もなく、まるで春の陽だまりを慈しむような、穏やかな、けれどどこか勝利を確信したような笑みを口元に浮かべている。
「……紙の重さが、ほんの少しだけ、違ったんです」
凪は、僕にしか聞こえない微かな声で答えた。
紙の重さ。
彼女は僕がくじに手を伸ばす数秒前、箱の中の湿度や気流を微細に操作し、僕の指が迷わずその一枚を選び取るように誘導したのだ。あるいは、他の生徒たちがその番号を引こうとした瞬間に、無意識下で「避ける」ような、心理的な死角を作り出したのかもしれない。
「非合理的だ。席替えの目的は、クラス内の交流を促し、人間関係の硬直化を防ぐことにある。お前が因果を歪めるたびに、僕はこの教室というコミュニティから隔離されていく」
「……隔離、していません。私はただ、凪(なぎ)を作っているだけです」
凪は詩集を開き、そのページの間に僕から見えるように、一枚のしおりを挟んだ。 そこには彼女が引いた「二十三番」の文字。
周囲のクラスメイトたちは、新しい席に一喜一憂している。だが、不思議なことに、僕たちの関係に疑問を呈する者は一人もいない。
「あ、瀬戸の隣、また隠岐さんなんだ。……まあ、なんかあの二人はいつもセットって感じだよな。しっくりくるわ」
近くを通った友人が、事もなげにそう言い残して去っていった。
本来なら「またかよ!」「どんだけ仲良いんだよ」と冷やかされてもおかしくない状況だ。しかし、凪の「調律」は人々の認識にまで及んでいる。彼女が放つ静かな強制力は、この異常な連投を「ごく当たり前の日常風景」としてクラス全体に受容させていた。
「……お前のせいで、僕の隣は常に『空白』だと思われている。認識の死角に僕を閉じ込めて、楽しいか?」
「……空白じゃありません。私が、います」
凪は顔を上げ、僕の目を見つめた。
その瞳には、自分の能力を駆使してでも僕の隣という「不可侵の座標」を守り抜いたことへの、静かで、底知れない執着が宿っている。
「……朝陽君の隣に他の人が座ると、世界が……ざわついてしまうから。私は、静かにあなたの隣で本を読んでいたいだけなんです」
凪は僕を支配しようとしているのではない。ただ、僕を取り巻く世界から「自分以外の不確定な揺らぎ」を丁寧に間引いているだけなのだ。その慎ましくも徹底した管理は、時に空恐ろしさを感じるほど純粋だった。
「……溜息しか出ないよ。お前のその、三ミリ単位の誘導に気づくのが僕だけでなければ、世界はもっと大騒ぎになっていただろうな」
「……気づくのが、朝陽君だけでいいんです。……他のみんなは、何も知らなくていい」
凪は満足げに目を細め、再び詩集の海へと沈んでいった。
窓から差し込む午後の光が、彼女の横顔を透明に照らしている。
確率論も公平性も、彼女の恋心という名の不合理な力の前では、塵ほどの価値も持たない。
僕は新しい席の座り心地を確かめながら、彼女が用意したこの「完璧に誘導された安寧」を受け入れるしかなかった。
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