第二話:降水確率と、静寂の選択
気象予報とは、本来、膨大な統計データに基づいた確率の提示に過ぎない。
空の機嫌を完璧に当てることなど、現代の科学をもってしても不可能に近い試みだ。しかし、僕の隣にいる少女に限っては、その不確実な未来を「確定事項」へと書き換えるだけの演算能力を、その細い指先に宿している。
放課後の昇降口。
アスファルトを叩き始めた大粒の雨は、瞬く間に校庭を灰色の煙で包み込んでいった。天気予報の「降水確率十パーセント」という数字を信じ切っていた僕にとって、この不意打ちは論理的な誤算だった。
「……凪。お前、これが降ることを知っていたな」
僕は隣に並び、静かに雨を見つめる凪に問いかけた。
彼女は長い髪を耳にかけ、いつものように感情の読み取れない横顔を僕に見せている。彼女の周囲だけは、湿り気を帯びた空気さえも凪いでいるかのように静止していた。
「……雨雲が、道を間違えたみたいです」
凪は、鈴の鳴るような掠れた声で答えた。
道を間違えた。それが彼女の語る「調律」のメタファーであることを、僕は知っている。彼女が指先をほんの数ミリ、大気の揺らぎに合わせて動かしていれば、この雨雲は僕たちが下校を終えるまで隣町の空に留まっていたはずなのだ。
「お前が何もしなかった、ということか。……それどころか、僕が今日、傘を家に忘れてきたことも知っていて黙っていたな。僕の持ち物リストを把握しているお前が、それを指摘しなかったのは統計的に見て不自然だ」
「……朝陽君の、そういう……隙のあるところも、嫌いじゃないから」
凪は視線を伏せ、微かに頬を染めた。
彼女の視線の先、昇降口は帰宅を急ぐ生徒たちでごった返している。
誰もが「嘘だろ、この雨」「最悪」と口々に不満を漏らし、僕たちのすぐ横を通り過ぎていく。だが、誰も僕たちが並んで雨宿りをしている不自然さにツッコミを入れる者はいない。
彼女が作り出す「透明な結界」は、僕たちの関係をこの騒がしい日常の風景に溶け込ませ、ただの無機物のように人々の意識から逸らしていた。
「非合理的だ。おかげで僕はここで、止むかどうかも分からない不確かな時間を浪費することになった」
「……止みませんよ。少なくとも、あと三十分は」
凪は断言した。自分の言葉がそのまま「世界の決定事項」であることを、彼女は疑っていない。
そして彼女は、鞄の中から一本の折り畳み傘を取り出した。それは彼女が使うには十分なサイズだが、二人で入るには、あまりにも物理的な距離を詰めなければならない大きさだった。
「……これしか、ありませんでした」
「嘘をつけ。お前の家にあるストックなら、僕の身長を考慮した大型のゴルフ傘だって因果的に引き寄せられたはずだ」
「……この傘が、一番……安定していたんです。因果的に」
凪は言い張り、傘を広げた。
彼女は僕の身体には直接干渉できない。だから、僕を濡らさないようにするためには、物理的にその距離を縮めるしかないのだ。
凪が差し出した傘の下に、僕は溜息をつきながら潜り込んだ。
途端に、彼女の体温と、甘い石鹸のような香りが僕の感覚を占拠した。肩と肩が触れ合い、彼女の細い指が僕の腕にそっと触れる。凪は、僕がその「不自然な近さ」を指摘しないことに、小さな満足感を覚えたようだった。
「……行きましょう、朝陽君」
雨の中を歩き出す。
周囲の生徒たちが走って駅へ向かう中、僕たちだけがスローモーションのように、ゆっくりと歩調を合わせて進んでいく。凪は、時折傘の角度を数ミリ単位で調整していた。
不快な水跳ねが僕の靴に飛ばないよう、そして横殴りの風が僕の服を濡らさないよう、彼女は世界を精緻に調律し続けている。
「……ねえ、朝陽君。雨の日も、悪くないですよね」
傘に当たる雨粒の音が、僕たちの周囲に心地よい壁を作っている。
僕は隣の少女を見下ろした。彼女の瞳は、自分が仕掛けた「些細な策略」が成功したことへの、静かな多幸感に満ちていた。
「……ああ。お前のせいで、僕の帰宅時間が三十分遅延することを除けばな」
「……その三十分は、私が……責任を持って、特別なものにしますから」
凪は僕の袖をぎゅっと掴み、より一層体を寄せてきた。
全能に近い彼女が、あえて雨を止めず、あえて僕の失敗を指摘せず、ただ「隣を歩く」という些細な奇跡のために能力を無駄遣いしている。
その非合理な献身に、僕は今回も、厳格な論理を押し黙らせるしかなかった。
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