第36話 敗北の雨、関羽の降伏


​ 徐州の空は、黒煙と絶望に覆われていた。


 曹操が率いる二十万の大軍は、津波のように劉備軍を飲み込んだ。


 多勢に無勢。裏切りや混乱も重なり、劉備軍は一夜にして壊滅した。


​ 劉備は乱戦の中、単騎で北へと逃れた。


 張飛もまた、血路を開いて山中へと姿を消した。

 そして、劉備の妻子を守る任を受けていた関羽は、下邳(かひ)城外の土山にて、曹操軍に完全に包囲されていた。


​「……これまでか」


​ 関羽雲長(うんちょう)は、泥と血にまみれた青龍偃月刀を杖にして立ち尽くしていた。


 周囲を埋め尽くす曹操軍の旗。


 城は落ち、主君の行方は知れず、自分は袋の鼠。

 武人としての誉れを守るならば、ここで敵兵を道連れに玉砕し、果てるのが筋であろう。


​「兄者……。約束を果たせず、申し訳ありませぬ」


​ 関羽が覚悟を決め、喉元に剣を突き立てようとした、その時。


​『関羽殿。死んではなりません』


​ 脳裏に、あの男の声が響いた。


 軍師・佐藤俊樹。


 出陣の直前、彼は真剣な眼差しでこう言ったのだ。


​『もし最悪の事態になったら、一時的に曹操に降ってでも、命と奥方様を守り抜いてください』


『生きてさえいれば再起できます。……これは敗北ではなく、再会のための布石です』


​ 関羽の手が止まる。


​「……生きろ、と言うのか。この関羽に、恥を晒して生きろと……」


​ 葛藤する関羽の元へ、一人の将が馬を進めてきた。


 曹操軍の将であり、関羽とは旧知の友でもある**張遼(ちょうりょう)文遠(ぶんえん)**だ。


​「関羽殿! 死に急いではならん!」


​ 張遼は馬を降り、必死に説得を始めた。


​「今ここで貴殿が死ねば、預かった玄徳殿の奥方様はどうなる? 玄徳殿が生きていた時、誰が助けに行くのだ? ……それは『小義』を守って『大義』を失うことだぞ!」


​ 張遼の言葉は、俊樹の予言と重なっていた。


 関羽は剣を鞘に収め、深く息を吐いた。


​(俊樹よ……お前の言う通りだ。俺がここで死ねば、兄者の妻子も、再会の約束も、すべて水泡に帰す)


​ 関羽は顔を上げ、張遼を睨み据えた。


​「文遠よ。……俺が降伏するには、三つの条件がある」


「三つの条件? 言ってみろ、我が主君に取り次ごう」


​「一つ。俺は漢の天子に降るのであって、曹操に降るのではない」


「……うむ」


「二つ。兄者の二人の奥方には、皇叔の夫人としての礼遇を与え、決して誰も近づけさせぬこと」


「当然だ。御身の安全は保証しよう」


「三つ。……兄者・劉備玄徳の居場所が分かれば、千里の彼方であろうと、俺は即座に曹操の元を去り、兄者の元へ向かう」


​ 張遼が息を呑む。


 三つ目の条件は、「いつでも裏切る」と宣言しているに等しい。


 常識で考えれば、受け入れられるはずがない。


​「……わかった。伝えてみよう」

​                

​ 曹操の本陣。


 張遼からの報告を聞いた曹操は、大笑いした。


​「カッカッカ! 面白い! どこまでも劉備一筋か! それほどの忠義者だからこそ、予は惚れたのだ!」


​ 側近たちは「殺すべきです」と進言したが、曹操は手を振って却下した。


​「構わん、全ての条件を飲もう。……今は劉備の元へ帰るつもりでも、予が厚く遇すれば、いずれ心変わりするやもしれん。賭けてみようではないか」


​ こうして、関羽の降伏は受け入れられた。


 関羽は劉備の妻子を馬車に乗せ、曹操軍の陣営へと入った。


 だが、その心は決して折れてはいなかった。


​(俊樹よ、礼を言う。お前の言葉のおかげで、俺は修羅の道を行く覚悟が決まった)


​ 関羽は北の空を見上げた。


 雨は上がり、雲の切れ間から一筋の光が差していた。


​「待っていてくれ、兄者。……そして俊樹、張飛。必ず生きて、『古城』で会おう」

​                

​ 一方、戦場から遠く離れた山道。


 俊樹、玲花、貂蝉の三人は、追っ手を撒きながらひたすら馬を走らせていた。


​「俊樹さん。関羽さんたちは……」


「大丈夫だ」


​ 俊樹は確信を持って答えた。


​「関羽殿は強い。武力だけでなく、心もだ。……俺たちが心配すべきは、自分たちの足場を固めることだ」


​ 俊樹は地図を広げた。目指すは河北の古城。

 だが、その道中には危険な山賊や、野盗化した敗残兵がはびこっている。


 たった三人の逃避行。強力な護衛が必要だった。


​「急ごう。……あそこで、懐かしい友が待っているはずだ」


​ 俊樹の脳裏には、かつて北の地で共に戦った、白馬の青年将軍の姿が浮かんでいた。

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