第34話 虎口からの脱出
「青梅煮酒」の宴から数日後。
俊樹の元に、待ちわびていた情報が飛び込んできた。
「袁術(えんじゅつ)の残党が、玉璽(ぎょくじ)を持って北上。袁紹(えんしょう)を頼って合流しようとしている」
史実とは少し形が違うが、流れは同じだ。
袁術は死んだが、その勢力が消滅したわけではない。彼らは生き残りをかけて、当時の最大勢力である袁紹の元へ逃げ込もうとしているのだ。
これを許せば、袁紹の力がさらに強大になる。曹操にとっても見過ごせない事態だ。
「兄上。……出番です」
俊樹は劉備の部屋へ走り、声を弾ませた。
「鳥籠から出る鍵が見つかりました。すぐに曹操に、『袁術の残党を討伐したい』と申し出てください」
「し、しかし、曹操は許してくれるだろうか?」
「大丈夫です。今の兄上は『牙を抜かれた農夫』だと思われています。それに、曹操は北の袁紹との決戦に備えて忙しい。兄上ごときを討伐に向かわせるくらい、何とも思いませんよ」
曹操の執務室。
劉備の申し出を聞いた曹操は、書類から目を離さずに考え込んだ。
「ふむ……。袁術の残党か。確かに袁紹と合流されるのは厄介だ」
曹操はチラリと劉備を見た。
そこには、すっかり日に焼けて泥臭くなった、凡庸な男の姿がある。
(こやつなら、野心を持って裏切ることもあるまい。それに、万が一のことがあっても……)
曹操は筆を置き、冷ややかに告げた。
「よかろう。兵五万を貸し与える。直ちに出撃し、残党を殲滅せよ」
「あ、ありがとうございます!」
「ただし、監視役として我が配下の朱霊(しゅれい)と路昭(ろしょう)を同行させる。軍の指揮権は彼らと分担せよ」
やはり、タダでは行かせてくれない。
だが、俊樹にとっては想定内だった。
「承知いたしました」
劉備は深く頭を下げ、退出した。
部屋を出た瞬間、俊樹と劉備は視線を交わし、小さく頷き合った。
(計画通りです)
許都を出発した劉備軍は、北へと進軍した。
道中、監視役の朱霊と路昭は、劉備たちに対して尊大な態度を取り続けた。
「おい劉備! 行軍が遅いぞ!」
「元は筵(むしろ)売り風情が、曹操様のご慈悲で将軍になれたことを感謝するんだな」
二人は曹操の威光を笠に着て、劉備を見下していた。関羽と張飛が殺気を漏らすが、俊樹がそれを制する。
「まあまあ、お二方。今夜は少し早めに宿営しましょう。ご苦労されているお二人のために、一席設けさせていただきますよ」
俊樹は人当たりの良い笑みを浮かべ、二人を接待の席へと誘った。
その夜、本陣の天幕。
上座には朱霊と路昭が座り、酒を煽っていた。
「ガハハ! なかなか良い酒じゃないか!」
「劉備の軍師にしては気が利くな、佐藤とやら!」
二人が酔い始めた頃、俊樹がスッと合図を送った。
幕が上がり、玲花と貂蝉が静かに入ってくる。
二人の絶世の美女の登場に、朱霊たちの目が釘付けになった。
「な……なんだ、あの美人は!?」
「こ、これが噂の……」
特に、眷属として生まれ変わった貂蝉の放つ「魔性のオーラ」は強烈だった。
彼女が微笑み、杯に酒を注ぐだけで、朱霊と路昭の意識はトロンと蕩(トロ)けていく。
「さあ、将軍様。……もっと飲んでくださいな」
貂蝉の声には、吸血鬼固有のスキル『魅了(チャーム)』が乗っていた。
精神力の弱い人間なら、一瞬で思考能力を奪われる。
「へ、へへ……飲む、飲むぞぉ……」
「美人が注ぐ酒は……最高だ……」
二人は瞬く間に泥酔状態に陥った。
俊樹は静かに立ち上がり、二人の前に立った。
先ほどまでの愛想笑いは消え、冷徹な軍師の顔になっている。
「朱霊将軍、路昭将軍。……軍の指揮権を示す『虎符(こふ)』をお預かりしてもよろしいですか?」
「あぁん? な、何言ってんだ……それは曹操様の……」
抵抗しようとする朱霊の背後に、ぬっと巨大な影が立った。
関羽と張飛だ。
「おい。俺たちの軍師が『貸せ』って言ってるんだ。……聞こえねぇのか?」
張飛が指の骨をポキポキと鳴らす。
関羽は無言で青龍偃月刀の柄を床に叩きつけた。
ゴオンッ! という重低音が響く。
「ひぃっ!?」
酔いが一瞬で覚めるほどの恐怖。
魅了による判断力の低下と、物理的な威圧。
二人は震える手で、懐から虎符を取り出した。
「わ、わかった……貸す、貸すだけだぞ……」
「ありがとうございます」
俊樹は虎符を受け取ると、ニッコリと微笑んだ。
「では、お二人はここでゆっくり休んでいてください。……我々は先に行きますので」
「は? さ、先に行くとは……?」
俊樹は答えず、劉備たちと共に天幕を出た。
外に出た瞬間、俊樹は叫んだ。
「全軍、出発! 朱霊と路昭は置いていく! 一刻も早く許都の勢力圏を脱出するぞ!」
翌朝。
二日酔いで目を覚ました朱霊と路昭が見たものは、もぬけの殻になった陣営と、置き去りにされた自分たちの手勢だけであった。
劉備軍の主力和五万は、既に遥か彼方へ消え去っていた。
「や、やられたァァァッ!!」
「虎符を奪われた! 曹操様に殺されるぅぅぅ!!」
二人の悲鳴が荒野に響く。
一方、劉備軍は全速力で東へ駆けていた。
馬上で、劉備は振り返りながら俊樹に問いかけた。
「俊樹よ。あの二人を殺さなくてよかったのか? すぐに曹操に報告が行くぞ」
「いいえ、殺せば曹操を本気で怒らせます。生かして帰せば、曹操の怒りの矛先は『無能な部下』に向く。……それに」
俊樹は前を見据えた。
「もう賽は投げられました。報告が行く頃には、我々は徐州に入っています。……ここからは、時間との勝負です」
鳥籠は破られた。
だが、それは同時に、天下の覇王・曹操孟徳との全面戦争の幕開けでもあった。
自由の代償は、あまりにも大きい。
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