第33話 雷鳴と英雄論、予行演習の成果


​ 梅雨の季節が訪れた。


 許都の空は連日どんよりとした雲に覆われ、ジメジメとした雨が降り続いていた。


 だが、劉備の屋敷の中では、それ以上に重苦しい「特訓」が行われていた。


​「違います、兄上。もっと情けなく、背中を丸めて!」


「こ、こうか?」


「そうです。視線は合わせず、おどおどと。……いいですか、曹操から何を聞かれても、絶対に自分の意見を言ってはいけません。私が作った『想定問答集』を暗記してください」


​ 俊樹は劉備に一枚の紙を渡していた。


 そこには、袁紹(えんしょう)、袁術(えんじゅつ)、劉表(りゅうひょう)といった群雄たちの名前と、それに対する「当たり障りのない評価」が書かれている。


​「俊樹よ。本当に曹操殿は、私を酒に誘うのか?」


「誘います。梅が熟すこの時期、彼は必ず兄上の腹を探りに来ます。……これは、戦場での戦いよりも危険な、言葉の真剣勝負です」


​ 俊樹の予言は、その日の午後に的中した。


 曹操の護衛隊長である許褚(きょちょ)が、無愛想な顔で迎えに来たのだ。


​「劉備殿。殿が『青梅(あおうめ)が熟したゆえ、共に一杯やろう』と仰せだ」


​ 劉備の顔色がサッと変わる。俊樹は劉備の背中をポンと叩き、小声で囁いた。


​「大丈夫です。練習通りにやれば、必ず乗り切れます。……私も護衛として同行しますから」

​                

​ 曹操の私邸にある庭園。


 東屋(あずまや)では、煮えたぎる酒の鍋から湯気が立ち上り、青梅の酸っぱい香りが漂っていた。


 曹操と劉備が向かい合って座る。俊樹は剣を預け、少し離れた柱の陰に控えた。


​「どうだ玄徳。近頃は畑仕事に精を出しているそうだが」


「は、はい。今は野菜の世話だけが楽しみでして……」


​ 劉備は背を丸め、卑屈な笑みを浮かべて杯を受けた。


 曹操はそれをジッと観察しながら、世間話を始めた。


 そして酒が回り始めた頃、曹操は空を指差した。


​「見よ、あの龍のような雲を。……龍は変幻自在、時に雲に隠れ、時に天に昇る。まさに人界の英雄の如し」


​ 曹操の眼光が鋭さを増す。


​「さて、玄徳。諸国を流浪した貴殿なら知っていよう。……今の世で、龍と呼べる『英雄』は誰か?」


​ 来た。


 俊樹は息を止めた。


 劉備は一瞬ビクリとしたが、すぐに俊樹のカンニングペーパーを脳内で反芻した。


​「そ、そうですな……。淮南(わいなん)の袁術などは、兵糧も多く……」


「あんなものは墓の中の白骨だ。いずれ余が捕らえる」


「では、北の袁紹(えんしょう)殿は? 名門の出身で、人材も豊富ですが」


「袁紹は優柔不断で、決断力がない。大事を為すには臆病すぎる」


「では、荊州の劉表殿は……」


「あれは名声だけの虚像だ」


​ 劉備が挙げる名前を、曹操はことごとく鼻で笑い、切り捨てていく。


 孫策は若すぎる、劉璋(りゅうしょう)は守るだけの犬だ、と。


​「……私の眼力では、もはや分かりませぬ」


​ 劉備が冷や汗を拭いながら頭を下げる。


 曹操はニヤリと笑い、杯を置いた。


​「夫(そ)れ英雄とは、胸に大志を抱き、腹に良謀(りょうぼう)を蔵(おさ)め、宇宙の機を呑む者のことよ」


「そ、そのような人物が、今の世におりましょうか?」


​ 曹操は立ち上がり、指を突きつけた。


 まずは劉備に。


 そして、自分自身に。


​「天下の英雄とは、ただ――使君(しくん:劉備のこと)と、この操(そう)の二人だけだ」


​ ――ッ!!


​ 図星を突かれた衝撃。


 劉備の手から、持っていた箸が滑り落ちた。


 カラン、と乾いた音が響く。


 これは不味い。「動揺した=野心を見抜かれて焦った」と取られかねない。


​ だが、その瞬間。


​ バリバリバリバリッ――!!!!


​ 凄まじい雷鳴が轟いた。


 俊樹は心の中でガッツポーズをした。(ナイスタイミングだ、天気!)


​ 劉備はとっさに机の下に潜り込み、耳を塞いで震えてみせた。


​「ひぃっ! か、雷は苦手で……!」


「ははは! なんだ玄徳、雷が怖いか?」


「聖人ですら、激しい雷鳴には色を失うと申します。ましてや私ごとき凡人が、怖がらぬはずがありません……」


​ 箸を落としたのは、雷に驚いたからだ。


 そう言い訳した劉備の姿を見て、曹操は大笑いした。


​「カッカッカ! 英雄も雷には勝てぬか。……買い被りすぎたようだな」


​ 曹操の目から、殺気じみた警戒色が消えた。


 劉備はただの臆病な凡人だ。そう納得したのだ。

​ 俊樹が安堵の息を吐きかけた時、曹操がふと視線をこちらに向けた。


​「おい、そこの軍師」


「……はい」


​ 俊樹は姿勢を正した。


​「貴様は雷や風を操ると聞いた。……今の雷も、貴様が呼んだのか?」


「まさか。私はただの人間です。天候を操るなど、講談師の作り話に過ぎません」


​ 俊樹は静かに首を横に振った。


 曹操は探るような目で俊樹を見据える。


​「謙遜するな。袁術を滅ぼしたあの力、そして未来を見通すような立ち回り……。貴様、もしや天から遣わされた神ではないのか?」


​ その問いには、畏敬と同時に、「得体の知れない者への殺意」が含まれていた。


 神ならば利用するが、制御できなければ殺す。それが曹操だ。


 俊樹は、曹操の目を真っ直ぐに見返し、穏やかに微笑んだ。


​「丞相(じょうしょう)。私は神などではありません」


「ならば何だ?」


「ただの、欲張りな男ですよ」


「欲張り?」


「ええ。愛する妻たちと、美味しいご飯を食べて、平穏に暮らしたい。そんなささやかな日常を守るために必死なだけの、どこにでもいる小市民です」


​ 俊樹は嘘をつかなかった。


 天下はいらない。権力もいらない。ただ、玲花や貂蝉、そして仲間たちとの居場所を守りたいだけ。


 その言葉に、曹操は毒気を抜かれたように息を吐いた。


​「……ふん。小市民が、神剣を振り回すか。面白い男だ」


​ 曹操は興味を失ったように手を振った。


​「下がってよい。……興が醒めた」

​                

​ 屋敷への帰り道。


 雨は小降りになっていた。


 劉備は足元をふらつかせながら、何度も胸を撫で下ろした。


​「し、死ぬかと思った……。俊樹、お前の言う通りにして助かったぞ」


「お疲れ様でした、兄上。……見事な演技でしたよ」


​ 俊樹も冷や汗で背中が濡れていた。


 だが、これで第一関門は突破した。曹操の警戒は解けた。


 あとは、この檻から出るだけだ。


​「そろそろです。……袁術の残党が動く頃合いだ」

​ 俊樹は北の空を見つめた。


 脱出の好機は、もうすぐそこまで来ていた。

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