第32話 血塗られた密勅、歴史の修正と限界


​ 許都での生活は、薄氷の上を歩くような日々だった。


 劉備は俊樹の言いつけ通り、来る日も来る日も屋敷の裏庭で鍬(くわ)を振るい、野菜作りに精を出していた。


​「おお、俊樹。見てくれ、カブの芽が出たぞ」


「いいですね、兄上。その調子です」


​ 俊樹は笑顔で答えつつ、鋭い視線を周囲に配ることを忘れなかった。


 屋敷の周りには、曹操の密偵が常に張り付いている。


 劉備が「野心を捨てた」と信じ込ませるまでは、一瞬の油断も許されない。


​(そろそろだ……。歴史通りなら、あの男が来る)


​ 俊樹が警戒していた人物。


 それは数日後の昼下がり、ひっそりと屋敷を訪れた。


​「国舅(こっきゅう)・董承(とうしょう)殿がお見えです」


​ 門番の報告に、俊樹の心臓が跳ねた。


 董承。帝の義父にあたる高官であり、曹操暗殺計画の主犯となる人物だ。


​「断れ。兄上は今、肥やしを撒いていて臭いから会えないと」


「い、いえ軍師殿。それがもう、強引に入ってこられまして……」


​ 俊樹が舌打ちをする間もなく、董承はズカズカと裏庭まで入ってきた。


​「劉備殿! こんなところで何をなされている!」


「やあ、董承殿。見ての通り、土いじりですよ」


​ 劉備が泥だらけの手で笑う。董承は眉をひそめ、周囲を見渡してから声を潜めた。


​「……皇叔(こうしゅく)に、折り入ってご覧に入れたいものがあるのです。人払いを願えますかな」


​ 来た。


 俊樹は劉備の前に立ちはだかった。


​「申し訳ありませんが、兄上は疲れております。要件なら私が……」


「ならん! 同室の誼(よしみ)として、皇叔に直接お見せせねばならんのだ!」


​ 董承の目は血走っていた。その必死さは、断ればここで騒ぎ出しかねないほどだ。


 曹操の密偵が見ている前で騒ぎになるのは不味い。


​「……わかりました。奥へどうぞ」


​ 俊樹は渋々案内した。


 だが、部屋に入る直前、玲花と貂蝉に目配せをした。


 (誰も近づけるな。盗み聞きさせるな)


 二人の眷属は無言で頷き、廊下の左右を固めた。

​                

​ 密室に入ると、董承は震える手で自らの帯を解き、隠しポケットから一枚の布を取り出した。


 そこには、どす黒い文字が乱雑に書き殴られていた。


​『曹操ハ国ヲ盗ム賊ナリ。忠義ノ士ヨ、決起シテ賊ヲ討チ、漢室ヲ救エ』


​ インクではない。


 それは、帝が自らの指を噛み切り、その血で書いた「衣帯詔(いたいしょう)」だった。


​「な、なんと……! 天子様は、これほどまでに思い詰めておられたのか……!」


​ 劉備は布を握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。

 董承もまた、涙ながらに訴える。


​「曹操の専横は目に余る。このままでは漢王朝は滅びる! ……皇叔、貴殿も立ち上がってくだされ。ここに同志の署名を!」


​ 董承が連判状と筆を差し出す。


 そこには既に数名の高官の名があった。


 劉備の忠義の炎が燃え上がる。彼は迷わず筆を執った。


​「わかった。この劉備、命に代えても天子様のために……」


​ 劉備の筆が、紙に触れようとしたその瞬間。


​「――お待ちくださいッ!」


​ ガシッ!


 俊樹が横から劉備の手首を掴み、強引に止めた。


​「と、俊樹!? 何をする!」


「無礼者! 貴様、曹操の手先か!」


​ 董承が激昂するが、俊樹は冷徹な眼差しで彼を睨みつけた。


​「落ち着いてください。……董承殿、この計画は『失敗』します」


「な、なに……?」


「同志を集めて署名させる? 馬鹿げている。そんな紙切れ一枚、曹操に見つかれば全員処刑だ。署名が増えれば増えるほど、情報が漏れるリスクが高まるとなぜ分からないのです!」


​ 俊樹の言葉は正論だった。


 現代的な危機管理の観点からも、証拠を残すなど愚の骨頂だ。


 だが、俊樹が止めた本当の理由は「歴史」を知っているからだ。


 史実では、この連判状が見つかり、署名した者とその一族は皆殺しにされる。


​「兄上。ここに名前を書けば、それは曹操に対する『殺害予告状』と同じです。……万が一、誰かが裏切ったら? 誰かが拷問で口を割ったら? その時、兄上だけでなく、関羽殿も張飛殿も、そして我々も全員死ぬんですよ!」


​ 俊樹の鬼気迫る説得に、劉備の手が震えた。


 彼は筆を置き、苦渋の表情で天を仰いだ。


​「……俊樹の言う通りだ。今はまだ、その時ではないのかもしれん」


​ 劉備は署名を拒否した。


 董承は絶望し、顔を真っ赤にして罵った。


​「腰抜けめ! それでも皇叔か!」


「腰抜けで結構。……死んで花実は咲きません」


​ 俊樹は冷たく言い放ち、董承を部屋から追い出した。


 連判状に「劉備」の名は刻まれなかった。


 歴史は、ここでわずかに修正されたはずだ。

​                

​ 董承が去った後、俊樹は深いため息をついた。


 劉備は沈痛な面持ちで座り込んでいた。


​「俊樹。……私は、天子様の期待を裏切ってしまったのだろうか」


「いいえ、兄上。……生きてこそ、忠義を果たせるのです」


​ 俊樹は劉備の肩に手を置いた。


 署名は防いだ。物理的な証拠はない。


 だが、俊樹の胸騒ぎは収まらなかった。


​(董承は焦っている。彼は必ずボロを出す。そして捕まった時、拷問に耐えきれず『劉備にも声をかけた』と口走るかもしれない……)


​ 名前を書いていなくとも、密勅を見たという事実だけで、曹操にとっては処刑の理由になる。


 修正できたのは「証拠」だけで、「疑惑」までは消せない。


 タイムリミットは近い。


​「兄上。……脱出の準備を急ぎましょう。遠からず、この許都に血の雨が降ります」


​ 俊樹は窓の外、どんよりと曇った空を見上げた。

 梅雨の季節が近づいていた。


 それは、曹操と劉備が腹を探り合う、あの有名な「酒宴」の季節でもあった。

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