第28話 二喬の悲劇と、第五の権能
翌朝、同盟軍の本陣に激震が走った。
袁術(えんじゅつ)からの使者がもたらした書状。そこに記されていたのは、およそ皇帝を名乗る者が書いたとは思えぬ、卑劣極まりない脅迫だった。
『我が軍は、江東の喬公(きょうこう)の館を制圧し、その娘である大喬(だいきょう)・小喬(しょうきょう)の二人を保護した。
この姉妹の美しさは、まさに国色(こくしょ)。予の後宮に相応しい。
もし彼女たちの命が惜しくば、直ちに兵を解き、孫策と劉備は予の前に平伏せよ。
さもなくば――姉妹を全軍の前で辱め、処刑して見せしめとする』
バンッ!!
孫策(そんさく)が机を拳で叩き割った。
「あの豚野郎ォォォォッ!! 殺す! 今すぐ殺してやるッ!!」
孫策の髪が逆立ち、殺気が周囲の空気を歪ませる。
彼にとって、大喬は将来を誓い合った許嫁のような存在だ。義兄弟の周瑜(しゅうゆ)にとっても、小喬は想い人である。
常に冷静な周瑜でさえ、扇を持つ手が白くなるほど震えていた。
「……落ち着いてください、伯符(はくふ:孫策の字)。挑発に乗れば、相手の思う壺です」
「これが落ち着いていられるか! あいつは今すぐにでも二人を……!」
「わかっています! ……ですが、正面から攻めれば、人質は確実に殺される。袁術はそういう男です」
周瑜が苦渋の表情で唇を噛む。
二十万の軍勢に守られた寿春(じゅしゅん)城。
力攻めは不可能。かといって降伏すれば、姉妹どころか全員が処刑されるだろう。
詰みか。
重苦しい沈黙が支配する中、俊樹が静かに口を開いた。
「……潜入しよう」
全員の視線が俊樹に集まる。
「少数の精鋭で城内に侵入し、人質を奪還する。それと同時に、外の軍が総攻撃を仕掛けるんだ」
「潜入だと? 無茶だ! 寿春城は今、袁術が薬物で強化した親衛隊で埋め尽くされているんだぞ!」
周瑜が反論する。確かに、正気ではない作戦だ。
だが、俊樹は揺るがなかった。
「僕には風を操る力がある。気配を消し、壁を越えることくらいはできる。……それに、適任者がいる」
「誰だ?」
「僕と、玲花。そして、当事者である孫策だ」
俊樹の提案に、孫策がハッとして顔を上げた。
俊樹はニヤリと笑った。
「自分の女くらい、自分で助け出したいだろ? 小覇王」
「……へっ、違いねぇ! 恩に着るぜ、俊樹!」
方針は決まった。
だが、問題はどうやって警戒厳重な城内深部――袁術の寝所までたどり着くかだ。風で姿を隠しても、人の出入りがあれば気付かれる。
内部の注意を引きつける「何か」が必要だった。
「――その役目、私が引き受けます」
天幕の入り口から、透き通るような声が響いた。
貂蝉(ちょうせん)だった。
昨夜の高熱で顔色はまだ悪いが、その瞳には鬼気迫る光が宿っていた。
「貂蝉? 君はまだ寝ていなきゃ……」
「俊樹様。袁術は『美女』を求めています。……私が、袁術への貢ぎ物として投降します」
その言葉に、場が凍りついた。
「はぁ!? お前、正気か!? 虎の口に自ら飛び込むようなもんだぞ!」
孫策が叫ぶ。
袁術は好色家だ。絶世の美女である貂蝉が投降すれば、間違いなく寝所へ招く。
それはつまり、貞操の危機どころか、命の危険に直結する。
「却下だ」
俊樹は即座に否定した。
「そんな危険な真似、させられるわけがない。君はここで待っていろ」
「いいえ、引けません!」
貂蝉はその場に跪き、床に額を擦り付けた。
「袁術の警戒心は異常です。風の術だけで深部まで行くのは賭けになります。ですが、私が内部から手引きすれば……確実に隙を作れます」
「だからって、君を犠牲には……」
「俊樹様ッ!!」
貂蝉が顔を上げ、叫んだ。
その目からは、ボロボロと涙が溢れていた。
「私は……貴方様の役に立ちたいのです! ただ守られているだけのお荷物では嫌なのです!」
昨夜の俊樹の言葉が蘇る。
『眷属になるということは、俺の所有物になるということだ』
『俺の命令には逆らえない』
貂蝉は濡れた瞳で、俊樹を真っ直ぐに見つめた。
「これは、試験だと思ってください。……私が貴方様の『所有物』として、命を懸ける価値があるかどうか、試してください」
狂気じみた忠誠。
いや、それは愛という名の執着だった。
彼女は自分の命をチップにして、俊樹との繋がりを求めているのだ。
「もし私が失敗して死んだら、それまでの女だったと捨ててください。……でも、もしやり遂げたら」
貂蝉は声を震わせながら、しかしハッキリと告げた。
「その時は、昨夜の願いを……叶えてくださいませ」
――眷属にしてほしい。
――貴方のモノにしてほしい。
俊樹は拳を握りしめ、爪が食い込む痛みを感じた。
止めるべきだ。人間として幸せになってほしいなら、絶対に止めるべきだ。
だが、彼女の覚悟を否定することは、彼女の存在理由を否定することになる。
長い沈黙の後。
俊樹は深く息を吐き、貂蝉の手を取って立たせた。
「……わかった。許可する」
孫策と周瑜が息を呑む。
俊樹は貂蝉の肩を強く掴み、その瞳を覗き込んだ。
「ただし、条件がある。……絶対に死ぬな。どんなに汚い手を使っても、時間を稼げ。必ず俺たちが助けに行く」
「はい……! 仰せのままに、我が主よ」
貂蝉は恍惚とした表情で、涙に濡れた頬を俊樹の手に寄せた。
その日の午後。
寿春城の門前に、白旗を掲げた馬車が到着した。
中から現れたのは、豪奢な衣装を纏った貂蝉。
その美しさに、城門を守る兵士たちは息を呑んだ。
「皇帝陛下にお目通り願います。……劉備軍での扱いに耐え兼ね、陛下の威光を慕って参りました」
妖艶な演技。
報告を受けた袁術は、疑うよりも先に欲望が勝った。
「ほう! あの董卓や呂布が愛した傾国か! よいよい、通せ! 今夜の宴に花を添えさせよ!」
城門が開く。
貂蝉は、飲み込まれるように城内へと消えていった。
それを見届けるように、遥か上空――雲の切れ間から、三つの影が見下ろしていた。
俊樹、玲花、そして風の結界に包まれた孫策である。
「……行ったな」
「ああ。命懸けの芝居だ。無駄にはしない」
俊樹の胸元の勾玉が、不穏なほど冷たい光を放ち始めていた。
怒り、焦り、そして愛する者を危険に晒さざるを得なかった己への無力感。
それらの感情が渦巻き、俊樹の精神の奥底で、新たな扉(権能)を叩いていた。
(待っていろ、袁術。……その首、必ず俺がへし折ってやる)
夜の帳が下りる。
魔窟・寿春城を舞台に、最後の決戦が始まろうとしていた。
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