第29話 魔窟の幻影、ツクヨミ覚醒


​ 寿春(じゅしゅん)城の最奥部、皇帝の寝所。

 そこは、この世の欲望を煮詰めたような地獄だった。


 部屋中に漂う甘ったるい香の匂いと、腐臭。

 床には無数の酒瓶が転がり、壁際には鎖に繋がれた大喬(だいきょう)・小喬(しょうきょう)姉妹が、互いに身を寄せ合い震えていた。


​「姉様……怖い……」


「大丈夫よ、小喬。きっと助けが来るわ……」


​ 気丈に振る舞う大喬だが、その顔色は絶望に染まっていた。


 目の前の玉座で、下卑た笑い声を上げている男――偽帝・袁術(えんじゅつ)の存在が、あまりに禍々しかったからだ。


​「カッカッカ! 良いぞ、良いぞ! その怯えた顔こそ、最高の酒の肴(さかな)よ!」


​ 袁術は金杯に入った蜂蜜水を啜りながら、部屋の中央で舞う美女に視線を注いでいた。


 貂蝉(ちょうせん)である。


 彼女は薄衣を纏い、妖艶な舞を披露していたが、その額には脂汗が滲み、呼吸は乱れていた。


​(……限界だわ。体力が持たない)


​ 昨夜の高熱に加え、極度の緊張感。


 それでも彼女は舞い続けた。俊樹たちが来るまでの時間を稼ぐために。


​「ふむ、もうよい。飽きた」


​ 袁術が不意に杯を投げ捨てた。


 ガチャン、という音が響き、貂蝉の動きが止まる。


​「そなたの舞は見事だが、予が欲しいのは芸ではない。……その体だ」


​ 袁術が立ち上がり、よだれを垂らしながら貂蝉に歩み寄る。


​「二喬を味わう前に、まずはそなたで精をつけるとしよう。天下の傾国、その味はいかほどか……」


「へ、陛下。まだ興が乗っておりませぬ。もう少し酒を……」


​ 貂蝉が後ずさるが、袁術は猛獣のような速さで彼女の腕を掴んだ。


​「黙れ! 予は皇帝ぞ! 予が欲した時が全てなのだ!」


​ ビリィッ!!


 貂蝉の薄衣が引き裂かれ、白い肌が露わになる。

 大喬と小喬が悲鳴を上げた。


​「いやッ……! 離して……!」


「抵抗するな! 元はただの踊り子風情が! 貴様は予の慰み者になればよいのだ!」


​ 袁術が貂蝉を寝台に押し倒し、その首に太い指をかける。


 貂蝉の視界が暗くなる。


 (俊樹様……申し訳ありません……私は、ここまで……)


​ その時。


​ ドゴォォォォォォォォンッ!!!!!


​ 分厚い鋼鉄の扉が、紙細工のように吹き飛んだ。

 爆風と共に、三つの影が躍り込む。


​「――その汚い手を、俺の女から離せェェェッ!!!」


​ 雷鳴のような怒号。


 俊樹だった。


 隣には殺意全開の玲花、そして愛する人を救うために修羅と化した孫策(そんさく)がいる。


​「と、俊樹様……!」


「な、何奴だ! 親衛隊! 親衛隊は何をしておる!」


​ 袁術が慌てて叫ぶと、部屋の影や隠し扉から、異様な気配を纏った兵士たちが湧き出てきた。


 数百人の「親衛隊」。


 だが、彼らの目は虚ろで、筋肉は異常に膨張し、皮膚はドス黒く変色している。


​「グルルル……」


​ 薬物強化兵(ドーピング・ソルジャー)。


 袁術が禁断の秘術で作らせた、痛みを感じず命令のみに従う怪物たちだ。


​「殺せ! 侵入者をミンチにしろ!」


​ 親衛隊が俊樹たちに殺到する。


​「大喬! 小喬!」


 孫策が槍を振るい、姉妹の元へ道を切り開こうとするが、強化兵の肉体は鋼のように硬い。槍で貫いても止まらず、数人がかりで孫策の体に組み付いてくる。


​「くそッ! なんだこいつら、ゾンビかよ!」


「俊樹さん、キリがないわ!」


​ 玲花が爪で首を飛ばしても、後続が次々と湧いてくる。


 その隙に、袁術は貂蝉の髪を掴み、ナイフを喉元に突きつけた。


​「動くな! 動けばこの女の喉を掻き切るぞ!」


「くっ……!」


​ 俊樹の動きが止まる。


 袁術は醜悪な笑みを浮かべ、貂蝉の頬にナイフの刃を当てた。ツーッと赤い血が流れ落ちる。


​「美しい顔だ。傷をつけるのは惜しいが……予に逆らった罰だ」


「やめろ……!」


「へへへ、まずは鼻から削いでやろうか?」

​ 愛する女が傷つけられ、恐怖に震えている。

 その光景が、俊樹の脳内で「何か」を焼き切った。


​ ブツン。


​ 理性のヒューズが飛ぶ音。


 同時に、俊樹の胸元の勾玉が、かつてない色――冷たく、深い「蒼」に輝き出した。


​(物理じゃダメだ。……風で吹き飛ばしても、奴らは止まらない)


(肉体じゃない。……壊すべきは、その腐った『認識』だ)


​ 俊樹の意識が、深く冷たい湖の底へと沈んでいく。


 そこで目覚めたのは、スサノオでもタケノミカヅチでもない。


 夜を統べ、精神と幻影を司る静寂の神。


​ ――第5の権能解放。『ツクヨミ(月読命)』。


​「……見ろ」


​ 俊樹が呟いた。


 その声は小さかったが、部屋にいる全員の脳内に直接響いた。


​「え?」


​ 袁術が俊樹を見る。


 俊樹の瞳が、鮮やかな蒼月(そうげつ)のように輝いていた。


 その瞳を見た瞬間、袁術の、そして数百人の親衛隊の世界が反転した。


​ キィィィィィィィン……。


​ 色彩が消え、世界がモノクロームに染まる。

 そして、認識が書き換えられる。


​「あ……あぁ……?」


​ 袁術の手が震え、ナイフを取り落とした。


 彼の目には、腕の中にいる貂蝉が、全身から刃物を生やした死神に見えたのだ。


 そして、周囲にいる親衛隊は、自分を食い殺そうとする餓鬼の群れに見える。


​「ひ、ひぃぃぃッ! くるな! お前ら、予を食う気か!」


​ 袁術が錯乱し、腰を抜かして後退る。


 同時に、親衛隊たちも「敵」の認識を書き換えられた。


 彼らの目には、隣にいる味方の兵士が、憎き侵入者に見えている。


​「ウオオオオ!」


「グァァァァ!」


​ 同士討ちが始まった。


 強化された怪力で、味方同士が殴り合い、噛みつき合い、肉を裂く。


 地獄絵図。


 だが、俊樹たちの周囲だけは、静寂な結界に守られていた。


​「な、なんだこれは……? 奴ら、勝手に殺し合いを……?」


​ 孫策が呆然とする中、俊樹はゆっくりと歩き出した。


 狂乱する兵士たちの間を、幽霊のようにすり抜けていく。兵士たちは俊樹を認識すらできていない。


​ 俊樹は寝台のそばへ行き、震える貂蝉の前に立った。


 幻術の中で唯一、貂蝉だけには、俊樹が光り輝く月の王子のように見えていた。


​「……遅くなってごめん」


​ 俊樹は優しく貂蝉を抱き上げた。


 その腕の温かさに、貂蝉の緊張の糸が切れる。


​「と、俊樹様……。私、私は……」

「よく頑張った。君のおかげで助かったよ」


​ 俊樹は、頬についた血を親指で拭い、そっと口づけを落とした。


​「帰ろう。……君に触れる男は、俺だけでいい」


​ その言葉と『ツクヨミ』の魔力が、貂蝉の心を甘く痺れさせる。

 

 一方、部屋の隅では。


 孫策が枷を引きちぎり、大喬と小喬を抱きしめていた。


​「伯符様!」


「遅くなってすまねぇ! もう大丈夫だ、俺が来たからには指一本触れさせねぇ!」


​ 孫策は大喬を抱き上げ、そして小喬の手を引いた。


 救出された小喬は、涙ながらに孫策に感謝しつつ、チラリと俊樹の方を見た。


 蒼い瞳を輝かせ、数多の怪物を一瞥で自滅させ、愛する女を抱き上げるその姿。


 圧倒的な「神」の如き佇まい。


​(……あの方……素敵……)


​ 吊り橋効果も相まって、小喬の胸に淡い恋心が芽生える。


 だが次の瞬間、俊樹の隣に玲花が並び、さらに腕の中には貂蝉がいるのを見て、彼女は悟ってしまった。


 あそこは、自分が入れる領域ではない、と。


 小喬の瞳から、安堵とは違う種類の涙がひとしずくこぼれ落ちた。


​「ひ、ひぃぃ……助けてくれ……蜂蜜水をくれぇ……」


​ 部屋の中央では、袁術が幻影に怯え、何もない空間に向かって命乞いをしていた。


 俊樹は冷ややかな目でそれを見下ろした。


​「終わりだ、偽りの皇帝。……その悪夢の中で、永遠に怯えていろ」


​ 俊樹たちが部屋を出ていくと同時に、背後で袁術の絶叫が響き渡った。


 それは、自らが生み出した怪物(親衛隊)たちに、生きたまま食い殺される断末魔だった。

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