第26話 蜂蜜の皇帝と、叶わぬ夜の疎外感


​ 中華の勢力図が大きく揺れ動いていた。


 南の淮南(わいなん)の地にて、名門・袁術(えんじゅつ)が突如として「皇帝」即位を宣言したのである。


 国号は「仲(ちゅう)」。


​「見よ! この玉璽(ぎょくじ)の輝きを! 天命は我にあり!」


​ 寿春(じゅしゅん)の巨大な宮殿で、袁術は黄金の玉座にふんぞり返っていた。


 だが、その実態は酷いものだった。即位の儀式のために重税を課し、逆らう村を焼き払い、美女を後宮にかき集める。民は飢え、袁術の好む「蜂蜜水」を作るために井戸の水すら奪われていた。


​ 自称皇帝・袁術。


 その歪んだ欲望の魔手は、北の徐州と、東の江東へと伸びようとしていた。

​                

​ 一方、徐州城。


 嵐の前の静けさの中、夜は更けていた。


 主である俊樹の寝室には、いつものように甘い吐息が満ちていた。


​「んっ……俊樹さん……」


​ 天蓋付きのベッドの上、俊樹の腕の中には玲花がいた。


 彼女は毎晩、当然のようにここへ来る。


 吸血鬼である彼女にとって、主である俊樹からの「吸血」は食事であり、愛情表現であり、絶対的な契約の確認作業でもある。


​ 俊樹は玲花の首筋に唇を寄せ、わずかに血を吸い上げる。


 その行為は、性行為以上に濃厚な快楽と一体感を二人にもたらしていた。


​「……ふふ、俊樹さんの血の味がする。私、体の中まで俊樹さんで満たされてる……」


​ 玲花がうっとりと頬を染め、俊樹の胸に顔を埋める。


 その睦まじい様子は、誰が見ても理想の夫婦――いや、それ以上に深い絆で結ばれた「主従」だった。


​ だが、その光景を壁一枚隔てた隣室で感じている者がいた。


 貂蝉(ちょうせん)である。


​(……ああ、また)


​ 貂蝉は冷たい寝台の上で、膝を抱えて震えていた。


 吸血鬼の聴覚を持たない彼女には、隣室の会話までは聞こえない。だが、漏れ聞こえる気配や、翌朝の玲花の満ち足りた表情を見るたびに、胸が張り裂けそうになる。


​ 自分は「家族」として迎え入れられた。


 俊樹は優しく、紳士的だ。


 だが、それだけだ。


 玲花お姉様のように、肌を重ねることも、血を交わすこともない。自分だけが、ガラスの壁の向こう側にいる「部外者」のように感じられた。


​(私も……俊樹様と繋がりたい。心も、体も、命さえも)


​ 貂蝉の瞳に、暗い炎が宿る。


 彼女はかつて、董卓や呂布といった野獣たちに体を狙われ、それを拒絶してきた。


 だが今は違う。


 この身の全てを捧げたいと願う相手に、触れてもらえないことが、これほど苦しいとは。


​ 衝動は抑えきれなかった。


 貂蝉は薄衣一枚を羽織ると、おずおずと、しかし決意を持って俊樹の寝室の扉を叩いた。


​「……俊樹様。貂蝉です。入っても、よろしいでしょうか」

​                

​「どうしたんだ、貂蝉。こんな夜更けに」


​ 俊樹はベッドから起き上がり、貂蝉を招き入れた。玲花も嫌な顔ひとつせず、むしろ心配そうに貂蝉を見ている。


 貂蝉は俊樹の前に進み出ると、その場に平伏した。


​「俊樹様。……お願いがございます」


「お願い?」


「はい。……私を、玲花お姉様と同じ『眷属』にしてください」


​ その言葉に、俊樹の表情が強張った。


 玲花も小さく息を呑む。


​「……貂蝉。眷属になることの意味を、わかっているのか?」


​ 俊樹はベッドを降り、貂蝉の前にしゃがみ込んだ。その瞳は真剣そのものだ。


​「ただ強くなれるとか、若さを保てるとか、そんな生易しいものじゃない」


​ 俊樹は貂蝉の顎を持ち上げ、その瞳を覗き込んだ。


​「俺の眷属になるということは、俺と命が繋がるということだ。もし俺が戦場で死ねば、君も同時に死ぬ。俺という存在がある限り、君は死ぬことさえ許されない」


​ 俊樹の声が低く、重くなる。


​「そして、君は俺の『所有物(モノ)』になる。俺の命令には逆らえない。思考も、行動も、全て俺に縛られる。……それは、君がやっと手に入れた『自由』を捨てるということだぞ?」


​ 俊樹は、彼女を大切に思うからこそ、あえて残酷な事実を突きつけた。


 董卓や呂布の呪縛から逃れ、自由な人間として生きてほしい。そう願っていたからだ。

 

 しかし。


 貂蝉の反応は、俊樹の予想を裏切るものだった。


​「……あぁ」


​ 貂蝉は、恍惚とした表情で頬を染めたのだ。


 彼女の瞳が潤み、熱っぽい視線が俊樹を絡め取る。


​「俊樹様が死ねば、私も死ねるのですか? ……俊樹様の所有物となり、一生離れられないのですか?」


「えっ……?」


「それこそが、私の望みです!」


​ 貂蝉は俊樹の手に頬を擦り付けた。


​「自由などいりません! 貴方様と無関係な場所で生きる自由より、貴方様の鎖に繋がれる不自由のほうが、私にとっては幸福なのです。……どうか、私を貴方様の『モノ』にしてください」


​ その愛は、重く、深く、そして狂おしいほど純粋だった。


 俊樹は圧倒された。


 彼女の中にある、穏やかな外見とは裏腹な、激しい情念。


​「……俊樹さん」


​ 後ろから玲花が声をかけた。


​「受け入れてあげて。この子の想い、本物よ。……それに、私も貂蝉となら、俊樹さんを共有してもいいわ」


​ 玲花の言葉に、貂蝉がパァッと顔を輝かせる。


 俊樹は深い溜息をつき、そして覚悟を決めたように貂蝉の肩を抱いた。


​「……わかった。俺の負けだ」


​ 俊樹の言葉に、貂蝉が感極まって涙を流す。


​「ですが、今はまだだ」


「え……?」


「南の袁術が動き出した。これから激しい戦いになる。眷属への転生は、体への負担が大きい。……この戦いが終わり、袁術を倒したら、その時に必ず君を迎え入れる」


​ 俊樹は貂蝉の涙を指で拭った。


​「それまでは人間として、俺を支えてくれ。……約束だ」


「はい……! はいっ、俊樹様!」


​ 貂蝉は俊樹の胸に飛び込んだ。


 俊樹はそれを優しく受け止め、玲花もまた二人を包み込むように抱きしめた。


​ 歪んだ皇帝・袁術の欲望が迫る中、徐州の一室では、血と魂で結ばれることを誓った三人の絆が、静かに、しかし熱く燃え上がっていた。

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