第2話 異文化洗礼

乾いた大地を踏みしめながら、俊樹は丘を下っていた。


 日差しは強く、歩き始めて三十分もしないうちに喉が渇きを訴え始めた。俊樹は立ち止まり、リュックからミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。


​ カシュッ。


​ キャップを開けるプラスチックの音が、この荒涼とした世界にはあまりにも異質に響いた。


 口に含むと、冷たく澄んだ水が乾いた喉を潤していく。日本のコンビニで当たり前に買える「水」が、ここでは宝石以上の価値を持つかもしれない。俊樹はそう直感し、一口だけで飲むのをやめ、大切にリュックにしまい込んだ。


​ やがて、目的の村が近づいてきた。


 遠目にはのどかな田園風景に見えたが、距離が縮まるにつれ、その実態が露わになる。


​「……うっ」


​ 俊樹は思わず鼻を覆った。


 臭いのだ。


 日本の生活では決して嗅ぐことのない、強烈な腐臭が漂っていた。家畜の糞尿、堆肥、湿った藁(わら)、そして何日も風呂に入っていない人間特有の体臭が混じり合った、濃厚で重たい空気。


 下水設備など存在しない時代だ。衛生観念も現代とは比較にならない。


 これが、歴史の教科書には載っていない「リアル」だった。


​ 村の入り口には、土と藁で作られた今にも崩れそうな家々が並んでいる。


 畑で作業をしていた数人の村人が、異邦人の到来に気づき、手を止めた。彼らの視線が俊樹に突き刺さる。


 警戒、恐怖、そして好奇心。


​ 俊樹の服装――新品の学生服にスニーカー、そしてナイロン製のリュックサックは、彼らにとって天界の衣装のように映ったに違いない。それに、現代日本で飽食の時代を生きてきた俊樹の体格は、栄養失調気味の彼らより一回りは大きく、肌も艶やかだった。


​「…………」


​ 沈黙が流れる。


 一番近くにいた初老の男が、鍬(くわ)を握りしめたまま、何かを喚いた。


 言葉は聞き取れないはずだった。しかし、俊樹の胸元の勾玉が微かに熱を帯びた瞬間、その音声は俊樹の脳内で自動的に翻訳された意味となって響いた。


​『お、お前様は……どこの御方だ? 役人の使いか?』


​(言葉がわかる……。これも勾玉の力か。「オモイカネ」の知恵の権能が一部発動しているのかもしれないな)


​ 俊樹は内心で冷静に分析しながら、表面上は人好きのする柔らかな笑みを浮かべた。敵意がないことを示す、計算された笑顔だ。


​「怪しい者ではありません。旅をしていて道に迷ってしまったのです。少し、休ませてもらえませんか?」


​ 俊樹が口を開くと、流暢な漢語(当時の言葉)となって男に伝わったようだった。


 男の背後から、一人の少女がおずおずと顔を出した。


 年は俊樹と同じくらいだろうか。ボロボロの麻の服をまとい、顔や手足は土で汚れているが、その瞳は驚くほど大きく、透き通っていた。服の破れ目からは、痩せているものの若々しい肢体と、日焼けしていない白い肌がのぞいている。


 もし現代日本で化粧をして着飾れば、クラスのアイドルになれるほどの原石だ。


​ 少女の腹が、グゥと小さく鳴った。


 彼女は恥ずかしそうに身を縮めた。


​ 俊樹はリュックを下ろし、中からコンビニで買った菓子パン――あんぱんを取り出した。


 透明な包装袋が太陽の光を反射してキラキラと輝くのを見て、村人たちがどよめく。


​「お近づきの印に、これを」


​ 俊樹は袋を破り、あんぱんを二つに割ると、半分を少女に差し出した。


 少女は祖父らしき老人の顔色を伺い、老人が小さく頷くのを見て、恐る恐るその黒い塊を受け取った。


​ 一口食べた瞬間、少女の目が大きく見開かれた。

​「あ……甘い……!」


​ 砂糖など、この時代の庶民には手の届かない高級品だ。精製された砂糖と小豆の濃厚な甘みは、彼女にとって未知の快楽だったに違いない。


 少女の頬が紅潮し、うっとりとした表情でパンを頬張る。その無防備な姿は、どこか艶めかしく、俊樹の理性をわずかに刺激した。


​「おいしい……こんな美味しいもの、初めて……」


​ 少女の反応を見て、警戒していた村人たちの空気が緩んだ。


 老人が鍬を下ろし、深々と頭を下げる。


​『なんと気前の良い……。見るからに高貴な御方のようだ。何もない村だが、水くらいなら出せる。どうぞ、こちらへ』


​ 俊樹は「ありがとうございます」と丁寧に答え、彼らの後について歩き出した。


 その背中を見ながら、俊樹は冷徹に状況を整理していた。


​(文明レベルは極めて低い。食料事情も最悪だ。だが、人は良い。……逆に言えば、無防備すぎる)


​ 平和ボケした村人たち。


 だが、俊樹は知っている。この時代が、そんな牧歌的な生活を許すほど甘くはないことを。


 遠くに見える山脈の向こうから、血生臭い風が吹いてくるような気がした。


​ 村の広場へ向かう道中、俊樹は食べ終わったあんぱんの包装ゴミを、無造作に捨てることはせず、小さく結んでポケットに入れた。


 この世界を汚したくないという倫理観ではない。

 自分が「異質」である証拠を、不用意に残さないための警戒心からだった。

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