【イヤミス】過去へ送れるのは、たった三文字だけ。【分岐】

STUDIO QAZXOO (スタジオ・

過去へ送れるのは、たった三文字だけ。

 研究室の蛍光灯が、かすかに唸っている。


 モニターの青白い光が、俺の顔を照らしていた。画面には送信確認のダイアログ。宛先は十年前の、あの日の、彩(あや)の携帯電話。送信元は俺のアドレス。


 本文はたった三文字。


 『止まれ』


 量子もつれを利用した時間遡行通信。理論の構築に三年、実証に四年、そして実用化に三年。十年という歳月のすべてを、この瞬間のために費やしてきた。


 送信できるのは一度きり。届くのは三文字だけ。過去の特定の時刻にしか届けられない。


 事故発生は十一時四分。その直前に届けば、彩は止まる。交差点に進入しない。そして——生きる。


 モニターの時計は十時五十四分を示している。


 あと十分。


 あの日、彩は親友を乗せて車を走らせていた。交差点での事故で、親友は軽傷で済んだが、彩は——。


 事故の知らせを受けて病院に駆けつけたとき、彩の親友——今の妻の真実(まみ)は、待合室で泣いていた。


「人工呼吸、したの。でも、間に合わなかった」


 彩を救おうとしてくれた。その手が、まだ震えていた。


 葬儀の後、俺は抜け殻になった。研究室に籠もり、誰とも話さなくなった。そんな俺を救ってくれたのが、真実だった。


「彩のぶんも、生きて」


 あの言葉がなければ、俺は今ここにいない。


 三年後、俺たちは結婚した。翌年、希実(のぞみ)が生まれた。




 マウスに手を伸ばしたとき、研究室のドアが開いた。


「パパー」


 希実が駆け込んでくる。後ろから真実の声。


「ごめん、どうしても見せたいって聞かなくて」


 希実が俺の膝に飛び乗り、画用紙を広げた。


「見て、描いたの」


 クレヨンで描かれた三人の人物。大きな丸い頭と、棒のような手足。その下に、たどたどしいひらがなで「ぱぱ」「まま」「のぞみ」と書いてある。


「……上手だな」


「でしょー」


 希実の温かい体重が、膝にかかっている。


 送信ボタンを押せば、彩は助かる。


 そして、この子は消える。


 真実との出会いもなくなる。この家族の記憶は、俺だけのものになる。


「パパ、お仕事?」


「……ああ」


「もうすぐ終わる?」


 希実がモニターを覗き込もうとする。俺はとっさに画面を手で隠した。


「希実、ママのところに行ってなさい」


「えー」


「すぐ行く」


 真実が希実の手を引いて、研究室を出ていく。ドアが閉まる直前、希実が振り返って手を振った。俺も手を振り返した。




 静寂が戻る。


 モニターの時計は十一時三分を示していた。


 あと一分。


 俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


 彩を救いたい。十年間、その想いだけで生きてきた。


 でも——




 俺はマウスに手を伸ばす。


 俺はカーソルを送信ボタンに合わせた。




 ——だめだ。やはり俺には押せない。

 俺はマウスから手を離した。

 (→ 目次の「俺はマウスから手を離した。」を選択してお読みください)

https://kakuyomu.jp/works/822139842968730534/episodes/822139842969476778



 ——彩、今助ける。

 俺は送信ボタンをクリックした。

 (→ 目次の「俺は送信ボタンをクリックした。」を選択してお読みください)

https://kakuyomu.jp/works/822139842968730534/episodes/822139842969540794


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