前世陰キャの俺、悪い神にノリノリで騙されて闇の王へ

のも

第1話 大学

大学の冷房が効きすぎた大講義室。教授の単調な声が、眠気を誘う子守歌のように部屋を支配している。二十歳の大学生、佐藤ミナトは最前列の端、教壇の影になる席で、一人ルーズリーフに向かっていた。


「……よし、ここは『深淵の魔眼』の設定を詰めるか……」


独り言は、自分の耳に届くかどうかの微かな音量。それが、彼がこの場所で息をするための唯一の手段だった。


「――よお、ミナト。またこんなところで、地面と対話してんのか?」


鼓膜を突き抜けるような、高く明るい声。ミナトは深い、深いため息をついた。振り返るまでもない。学部のスター、瀬戸ハルトだ。


「ハルト。何。講義中でしょ。静かにしてくれない?」

「終わったんだよ、さっき。お前、集中しすぎ。何書いてんだよ、ノート見せろよ。またその『深淵』とかいう設定か?」


ハルトは遠慮なくミナトの隣にドカッと座り込み、顔を覗き込んできた。ミナトは慌ててルーズリーフを伏せる。


「だめ。見ないで。これ、ただのメモだから。というか、ハルトはあっちの席に戻れば? 友達待ってるでしょ」

「友達ならここにもいるだろ。なあミナト、今日の夜、サークルの連中と駅前の居酒屋行くんだ。お前も来いよ。お前、たまには外で笑わないと顔が固まるぞ?」


「行かない。俺、そういうの苦手だし」

「苦手だからこそ、克服しなきゃだろ! ほら、女の子も結構来るぜ? 佐々木さんとか、お前のこと『大人しくてミステリアスだね』って言ってたぞ」


「ミステリアス、じゃない。ただ、誰からも相手にされないだけだ。ハルトには分からないだろうけど」

「分かんねえから知りたいんだよ。お前、実はすごい才能隠してる気がするんだよな。自分を解放しろって。お前の中に眠る『何か』をさ!」


「そんなもの、ないよ。自分を解放して、ハルトみたいになれるわけないでしょ。住む世界が違うんだから」


ハルトが屈託のない笑みでミナトの肩をガシッと掴んだその時、廊下の方から騒がしい足音と笑い声が近づいてきた。


「ちょっとハルトー! ミナっちを一人占めとかズルイんだけど!」


香水の甘い香りと共に現れたのは、ギャルのユカ。そしてその隣には、派手な金髪をなびかせたネロ子がいた。


「……うわ。君たち、この講義取ってないよね。不法侵入だよ、それ」

ミナトは今日何度目かわからないため息を漏らす。


「えー、ミナっちに会いに来たに決まってんじゃん! ねえ、ネロ子?」

ユカが笑いながらミナトの右側に座り、当然のように距離を詰めてくる。


「そーそー! ミナっち、今日もいい感じに暗いねー。ウケる!」

ネロ子がミナトの左側に陣取り、スマホのカメラを向けてくる。

「ほらミナっち、ピース! 今日の『保護案件』としてストーリー上げちゃおっかなー」


「ピースなんてするわけないでしょ。撮るなら壁でも撮っててよ」


ミナトが必死にルーズリーフを隠すと、ハルトが楽しげに追い打ちをかける。


「いいじゃん、二人とも。今日の夜、飲み会あるんだけどさ。ミナトが来るなら二人も来るだろ?」

「行く行く! ミナっちの隣キープっしょ!」

「アタシ、ミナっちに無理やりテキーラ飲ませる役やるわー」


「絶対に行かないから。テキーラとか死んじゃうし。そもそも俺、君たちみたいな騒がしい空間、一番苦手なの知ってるでしょ。ハルト、本当にやめて」


ミナトは重い足取りで立ち上がった。

「もう行く。二人とも、勝手にして。ハルトも、もう誘わないで」


ユカが「えー、待ってよ!」と袖を引き、ネロ子が「ミナっち、今日も塩対応最高ー!」とはしゃぐ。後方の席からは「またあの子、構ってもらって……」という毒のような囁きが漏れてくる。ミナトは耐えきれず、荷物を掴んで逃げるように教室を飛び出した。


---


騒がしい教室を脱出したミナトは、学内の賑やかなメインストリートを避け、あえて建物の裏手にある、普段は誰も寄り付かない古びたベンチへと向かった。そこはツタの絡まった古い校舎の陰になっており、日当たりも悪く、リア充たちの視界には決して入ることのない「死角」だ。


「……はぁ。やっと、静かになった」


彼は深く、重いため息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。

リュックの中から、講義の合間に学内スーパーで手に入れておいた、彼にとっての最高級の戦利品を取り出す。


まずは、パックの隅に少しだけ出汁が溜まった「揚げ出し豆腐」。時間が経って衣が少しふやけ、トッピングのネギもしんなりしているが、それが逆にミナトの今の沈んだ気分に心地よく馴染む。次に、持つと指に粉がつく安売りの「コッペパン」。そして、普段の100円の紙パック飲料ではなく、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った、期間限定の「ストロベリー・ビター・コーヒー」だ。


彼は震える手でコーヒーのストローを刺し、まずは一口、その複雑な味を堪能した。

甘酸っぱくて、でも後味が苦い。……俺の人生みたいだ。


そんな自虐的な呟きを漏らしながら、彼はワイヤレスイヤホンを耳に押し込み、スマートフォンのNetflixを立ち上げた。再生するのは、もう何度も見返しているダークファンタジー映画。孤独な魔王が、自分を裏切った世界を圧倒的な力で蹂躙し、漆黒の玉座にたった一人で君臨する物語だ。


映画の重厚な音楽が耳を塞ぎ、周囲の雑音を完全に遮断する。

ミナトは、箸を使わずに割り箸の袋を破り、揚げ出し豆腐を一口齧った。出汁の塩気と豆腐の淡白な味が、ハルトやユカたちに掻き乱された胃の粘膜を優しく保護していく。続いて、パサついたコッペパンをちぎって口に放り込み、それをストロベリーコーヒーの甘みで無理やり流し込む。


いいな……。映画の中の魔王は、誰かに肩を叩かれることも、ストーリーに上げられることもない……。誰にも名前を呼ばれず、ただ畏怖されるだけの存在……。それが一番、気楽なんだよな……


画面の中の魔王が冷酷な視線を放つたび、ミナトは自分がその漆黒の鎧を纏っているかのような錯覚に浸る。コッペパンを齧り、ふやけた豆腐を咀嚼するこの瞬間だけ、彼は「透明な大学生」ではなく、自分の領土を守る「孤高の支配者」だった。


誰にも笑いかけなくていい。

誰の顔色も窺わなくていい。

ただ、冷めた豆腐を味わい、物語に没頭する。


このチグハグな食事と、自分一人の静寂。それこそが、彼が一日の中で最も執着し、守り抜きたいと願う唯一の「贅沢」だった。ハルトの眩しさも、ユカやネロ子の騒がしさも届かないこの場所で、彼はいつまでも、独りきりの白昼夢を貪り続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月12日 17:30

前世陰キャの俺、悪い神にノリノリで騙されて闇の王へ のも @XASA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画