第4話 暗号と秘密と野暮な親子
理科準備室のドアを蹴破るようにして飛び込むと、俺は迷うことなく奥の薬品保管庫へスライディングした。 三階にあるこの部屋は、温室から最も近い給水タンクの直下に位置している。スプリンクラーの配管系統図は、すでに頭の中に叩き込んである。 ここが、俺たちの砦(とりで)であり、司令塔だ。
「さくら! プランBだ! 時間を稼げ!」
叫びながら、俺は防護メガネをむしるように装着し、白衣をひっかける。 視界の端で、ARウィンドウが爆発的に展開した。一枚、十枚、百枚――。 無数のコードが滝のように流れ、さくらの表情が「相棒」から「電子の戦神」へと切り替わる。
『合点だ! 校内の全電力を空調(HVAC)へバイパス! サーバー室の冷却ファンも、学食の冷蔵庫も、全部まとめてフル稼働だぁ!』
ブォン……ッ!! 重低音が校舎全体を揺らした。 照明が一瞬明滅し、天井の蛍光灯がジジジと不穏な音を立てる。 直後、頭上の空調吹き出し口から、暴風のような冷気が吹き出してきた。普段なら「設定温度を下げろ」と生徒会で揉めるような生ぬるい風ではない。 物理的な限界を超えた、凍てつく嵐だ。
『室温低下、開始! コンプレッサーが悲鳴を上げてるが、知ったことかい! 目標温度マイナス二〇度! ナノマシンの活性を極限まで落とす!』 「いいぞ! そのまま維持しろ!」
俺は保管庫から液体窒素のデュワー瓶(保存容器)を引きずり出した。重量があるが、アドレナリンが出ている今の俺には発泡スチロールのように軽い。 さらに、高純度のエタノール、界面活性剤のボトルを次々と作業台に並べる。
ナノマシンを止めるには、ただ冷やすだけでは足りない。 奴らは自己進化する。表面が凍れば、内部で熱を産生して殻を破るだろう。 だから、化学的に「殺す」。 界面活性剤でナノマシンの外殻構造(細胞膜に相当する部分)の表面張力を破壊し、そこに超低温のエタノール混合液を浸透させる。 奴らのコアまで瞬時に凍結させ、物理的に粉砕する「氷の弾丸」を作るのだ。
「配管接続、急げ……!」
俺は天井板を拳で突き破り、裏に走るスプリンクラーの主管を露出させた。 メンテナンス用のバルブを見つけ、工具袋から取り出したレンチを噛ませる。 ガッ、ガッ、と金属が軋む音。 錆びついたバルブを力任せに回し、給水タンクからの水を遮断。代わりに、手元の即席調合タンクへとホースを直結させる。 高校生の指先で行う作業ではない。爆弾処理班の手つきだ。
ジュワ、ジュワワワ……。
背後から、あの嫌な音が聞こえた。 理科室のドア。 その隙間から、銀色の泥が滲み出してきている。
『来たよ、蓮! ダクトを食い破って回り込んで来やがった!』 「しつこい客だ……!」 『ドアの耐久値、あと十秒! 九、八……!』
カウントダウンが始まる。 俺は液体窒素を混合タンクへ注ぎ込んだ。 バシュゥゥゥッ!! 猛烈な白煙が上がり、理科室の床を這う。 手が凍りつくような冷気。防護手袋越しでも指先の感覚が消えていく。だが、止めるわけにはいかない。 エタノールを投入。攪拌(かくはん)。 化学反応の熱と冷却の冷気がせめぎ合い、タンクが不気味に振動する。
『六、五……! おい、ドアが溶ける! 入ってくるよ!』
ミシミシ、メキョ……。 鉄製のドアが、飴細工のように歪んだ。 その中心が焼け焦げたように穴が開き、そこから「顔」のない銀色の怪物が、ニュルリと室内を覗き込む。 幾何学模様の体表が、俺を認識したように波打った。
(――見つけた)
声なき声が聞こえた気がした。 ナノマシンは意思を持たない。だが、最も効率的に有機物を摂取するプログラムに従う。 この部屋で最も上質な有機物は、俺だ。
『四、三……!』
銀色の泥が、ドアを押し流して雪崩れ込んでくる。 速い。 空調で冷やしているはずなのに、奴らは互いに摩擦熱を生み出しながら、熱源である俺に向かって殺到してくる。 俺は最後のホースバンドをねじ込んだ。
「接続完了!!」 『二、一……ゼロ! 到達するッ!』
目の前、わずか数メートルの距離まで銀色の波が迫る。 飲み込まれれば、俺は一瞬で構成元素に分解され、奴らの一部になる。 だが、俺の目は恐怖に見開かれてはいなかった。 冷徹に、勝利を確信して細められていた。
「さくら、今だ! 放水開始(パーティータイム)!」
俺が叫んだ瞬間。 ARウィンドウの中、着崩した着物の少女が、不敵な笑みを浮かべてキセルを投げ捨てた。 彼女は仮想空間のコンソールに飛び乗り、真っ赤な「緊急放送ボタン」と「スプリンクラー起動レバー」を同時に叩き込んだ。
『てやんでええええええッ!!』
キィィィィン!! ハウリング音が全校生徒の耳をつんざいた。 避難していた校庭の生徒たち、呆然と校舎を見上げていた先生、そして腰を抜かしていた田中。 全員が、校内放送スピーカーから轟く、その「啖呵(たんか)」を聞いた。
『宵越しのナノマシンは持たねえよ! こちとら江戸っ子(AI)だ!』 『咲かせるもんなら咲かせてみな!』 『喰らえ、江戸の華(大放水)だぁぁぁぁッ!!!』
ズドォォォォォン!!
校舎中のスプリンクラーヘッドが、一斉に火を噴いた――ではない。 噴き出したのは、水ではない。 白煙を引いて降り注ぐ、極低温の化学豪雨だ。
俺の目の前。 飛びかかろうとしていた銀色の津波が、空中で静止した。 液体窒素とエタノールの混合液が、ナノマシンの外殻を瞬時に冷却し、熱運動を物理的に停止させる。 さらに界面活性剤が結合を分断し、再構築のプログラムをズタズタに引き裂く。
パキ、パキパキパキッ……!
硬質な音が理科室に響き渡る。 銀色の泥は、美しい氷の彫刻へと変わり果てた。 襲い掛かろうとした波の形のまま、鋭利な切っ先が俺の鼻先数センチで凍りついている。
「……ふぅ」
俺は短く息を吐き、曇った防護メガネを外した。 静寂が戻ってくる。 空調の轟音も止まり、校内放送のノイズも消えた。 残ったのは、冷蔵庫のような冷気と、ツンとする薬品の臭いだけ。
カアン。 氷の彫刻の一部が重みに耐えきれず、床に落ちて砕けた。 それを合図にしたように、温室から廊下、そしてこの理科室を埋め尽くしていた銀色の侵食箇所が、次々と崩壊を始める。 シャラシャラ、シャラシャラ……。 それはまるで、ダイヤモンドダストが降り注ぐような、幻想的な崩壊だった。 世界を終わらせるはずだった「最強の矛」は、ただの灰色の粉雪となって、コンクリートの床に降り積もっていった。
『……へっ』
静まり返った脳内に、さくらの勝ち誇った声が響く。
『見たかい蓮。あたしの見事な口上(こうじょう)。あれぞ日本の伝統芸能だよ』 (……うるさい。鼓膜が破れるかと思ったぞ) 『照れるんじゃないよ。それにしても……』
さくらの視界共有を通して、校庭の様子が見える。 生徒や教師たちが、ポカンと口を開けて校舎を見上げている。スプリンクラーから吹き出した白煙が、校舎全体を包み込み、夕日に照らされてキラキラと輝いていた。 まるで、季節外れの雪化粧だ。
『派手にやりすぎちまったねえ。こりゃあ、父ちゃんへの言い訳考えるのが大変でありんす』
俺は床にへたり込み、凍りついた銀色の残骸を指先で弾いた。 粉々に砕ける感触。 間違いなく、完全に無力化されている。
「……言い訳は、お前が考えろよ。俺は『避難誘導に尽力した勇敢な生徒』を演じるので忙しいんだ」 『うわっ、ずるい! 手柄だけ持ってく気かい!』 「人聞きが悪いな。チームワークだろ?」
俺たちは誰もいない理科室で、静かに笑い合った。 心拍数はまだ戻らないが、この心地よい疲労感は悪くない。 窓の外では、サイレンの音がようやく遠くに聞こえ始めていた。 タイムリミット、残り三〇秒での決着だった。
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