第3話 停電と祭りと電子の火消し

 その光景は、理科の実験で見かける「象の歯磨き粉」の爆発的膨張に似ていた。だが、あれほどコミカルでもなければ、安全でもない。  水が触れた瞬間、銀色の泥は歓喜の悲鳴を上げるように沸騰した。  ボゴォッ! ジュワワワワッ!!  プランターに収まっていた「それ」は、瞬く間に体積を十倍、二十倍へと膨れ上がらせた。まるで銀色の津波だ。  あふれ出した奔流(ほんりゅう)は、床を舐め、棚を呑み込み、天井へ向かって鎌首をもたげる。


『あちゃー! 火に油……いや、水にナノマシンだねえ!』


 ARウィンドウの中で、さくらが扇子(せんす)で顔を仰ぎながら叫んだ。


『こいつは酷(ひど)い! 水素結合をエネルギー源にしてやがるから、水なんざ極上の栄養ドリンクだ! 見ろよあの勢い、江戸の火消しだって裸足で逃げ出すよ!』


 先生と田中は、あまりの事態に腰を抜かしたまま硬直している。人間、理解の範疇(はんちゅう)を超えた恐怖に直面すると、思考停止に陥るという見本のような反応だ。  銀色の泡が、先生の革靴のつま先数センチまで迫る。  俺は舌打ちを一つ噛み殺し、全速力で「怯える生徒」のマスクを被った。


「先生! 逃げてください!!」


 俺は先生の腕を掴み、力任せに引き起こした。


「田中もだ! 立て! 走れ!」 「あ、あ、ああ……」 「な、なんだこれは……佐藤、これは一体……!」


 先生が震える声で問う。ここで「自己増殖型ナノマシンです」などと真実を告げても、信じてもらえるわけがないし、説明している時間もない。  俺が必要としているのは、理解ではなく、即時の服従だ。  俺は引きつった表情を作り、もっともらしい「嘘」を叫んだ。


「塩素ガスです!!」 「なっ……!?」 「あの銀色の泡、化学反応で猛毒の塩素ガスを発生させてます! この匂い、わかるでしょう!? 吸ったら肺がただれて死にますよ!」


 もちろん、このオゾン臭は塩素とは違う。だが、化学の教師でもない限り、パニック状態でそこまで冷静な判断はできない。  「毒ガス」「死ぬ」という単語は、教育者の脳髄にダイレクトに響いたようだ。


「ど、毒ガス……! いかん、生徒たちを……!」 「そうです! すぐに全員を校庭へ! 風上へ逃げてください!」


 俺は二人を温室の外へ押し出し、重たい鉄製の扉をバァン! と閉めた。すかさず外側からロックをかける。  ガラス越しに見える内部では、すでに温室の半分が銀色に埋め尽くされようとしていた。ミシミシと梁(はり)が悲鳴を上げている。


「さ、佐藤! 君も早く……!」 「俺はまだ中に逃げ遅れた人がいないか確認して、すぐ行きます!」 「しかし、消防署に連絡を……」 「ダメです!!」


 俺は食い気味に怒鳴った。先生がビクリと肩を震わせる。


「あのガスは……水と反応して爆発する性質があるんです! さっき水かけたら膨らんだでしょう!? 消防車が来て放水なんかしたら、学校ごと吹き飛びますよ!」 「ば、爆発……」 「絶対に呼ばないでください! 俺が確認したらすぐ行きますから、先生は生徒の誘導を!」


 俺の剣幕(けんまく)に押され、先生は「わ、わかった! すぐに来るんだぞ!」と言い残して、田中を引きずりながら校舎の方へ走っていった。  数秒後、ジリリリリリリ!! という非常ベルの音が校内に鳴り響く。  俺は大きく息を吐き出し、眼鏡のブリッジを押し上げた。


(……やれやれ。大人はこれだから困る。非常時になると、マニュアル通りの対応しかできなくなる) 『へっ、あのセンコーにしては上出来な走りっぷりだったじゃないか』


 さくらがニヤリと笑う。  周囲から人の気配が遠のいていく。これでようやく、邪魔者がいなくなった。  俺は温室のガラス戸に手を当て、冷徹な目で中の怪物を観察した。  増殖速度は指数関数的だ。さっきまで腰の高さだった銀色の波は、もう私の背丈を超えている。


(状況報告。タイムリミットは?) 『シビアだよ、蓮。今の増殖ペースから計算すると……温室の物理的崩壊まであと十二分。そこから校舎への侵食が始まって、全壊まで十八分。計三十分ってとこだね』


 三十分。  カップラーメンなら十個作れるが、世界を救うには短すぎる。


『問題はその先さ。このナノマシン、ある程度増えると「胞子」を飛ばすように設計されてる。風に乗って拡散しちまったら、風下にあるこの街の住民は、全員肺の中から銀色の花を咲かせることになるよ』 (つまり、ここで食い止めるしかない、か) 『消防隊が来る前にね。連中が到着して「正体不明の化学火災」だと判断して放水した瞬間、ゲームオーバーだ。あたしたちだけでやるしかない』


 皮肉な話だ。  街を守るための消防隊が、世界を滅ぼすトリガーになり得る。  真実を知っているのは、この学校で――いや、この国で、俺とこのAIだけ。


(勝率は?) 『真正面から殴り合ったらゼロだね。だが、アタシとお前さんなら、カツアゲされた小銭を取り返すより簡単さ』 (減らず口を叩く余裕があるなら、解析結果を出せ)


 俺は校舎へ向かって走り出した。  目指すは三階、化学準備室。


『へいへい。こいつの弱点は二つ。「極低温」と「特定分子による架橋(かきょう)結合の阻害」だ』 (動きを止めて、固めるわけか) 『そういうこと。だが、生半可な冷気じゃ効かないよ。マイナス四十度は必要だ』


 マイナス四十度。家庭用冷蔵庫でも到達できない温度だ。  だが、この学校にはある。  いや、「作れる」はずだ。


(さくら、空調システム(HVAC)を掌握しろ。温室へ繋がるダクトを全開にして、冷媒を強制循環させるんだ。リミッターを外せばいけるか?) 『無茶言うねえ! コンプレッサーが焼き切れちまうよ!』 (十分保てばいい。焼き切れる前に、俺がカタをつける) 『……ちっ、しょうがないねえ! 乗ったよ!』


 さくらの指先から、AR空間上に無数のウィンドウが展開される。  高速で流れるコードの羅列。  学校の設備管理サーバーへの侵入。


『へいへい、あたしに任せな! この学校のセキュリティなんざ、雨に濡れた障子紙より薄っぺらいわ! パスワードが「school123」だってさ、笑わせるね!』 (よし、冷却開始と同時に、俺が中和剤をぶち込む)


 俺は階段を二段飛ばしで駆け上がりながら、脳内で化学式を組み立てる。  相手は有機物を分解するナノマシン。  ならば、その分解酵素の鍵穴を塞ぐ「偽の鍵」を大量に流し込めば、増殖プロセスは停止する。  必要な試薬は、エタノール、液体窒素、それから……。  俺の頭脳(データベース)が、理科室の在庫リストと瞬時に照合を行う。  全部、ある。


「反撃開始だ」


 誰もいない廊下で、俺は小さく呟いた。  非常ベルが鳴り響く中、世界で一番静かで、一番過激な実験が始まろうとしていた。

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