第2話 深層(ディープ)と義理と虚構の歌姫

 校舎裏にある園芸部の温室までは、全力疾走で三分とかからない。  俺は息を切らすこともなく、温室のガラス戸の前で足を止めた。  外から見る限り、火の手は上がっていない。煙も見えない。  だが――「音」が聞こえる。  ジュワ、ジュワ、ピチ、ジュワ……。  まるで熱したフライパンにバターを落とした時のような、あるいは炭酸飲料が弾けるような、湿った溶解音。  それに混じって、鼻をつく異臭が漂ってきた。焦げ臭さではない。オゾン臭と、腐った果実が混ざり合ったような、生理的な嫌悪感を催す甘ったるい匂いだ。


(さくら、内部スキャン。フィルター濃度を上げろ) 『合点だ。……うわぁ、こいつぁ酷(ひど)いねえ。目が腐りそうだ』


 さくらが顔をしかめるのと同時に、俺はガラス戸を乱暴に開け放った。


「う、うわあぁぁぁ……!」


 中に入った瞬間、悲鳴が鼓膜を打った。  そこにいたのは、クラスメイトの田中だった。園芸部に所属する、大人しくて目立たない男子生徒だ。彼は腰を抜かしてへたり込み、ガタガタと震えながら目の前の「プランターだったもの」を見上げていた。  俺は息を呑んだ。  そこにあるのは、植物ではなかった。  かつてマリーゴールドやパンジーが植えられていたはずの場所は、一面の「銀世界」に変貌していた。  だが、雪の白さではない。水銀のような、重く濁った金属光沢を持つ銀色だ。  葉も、茎も、花弁も、すべてがその銀色の物質に置換され、ドロドロと溶け崩れている。  恐ろしいことに、それは「生きて」いた。  銀色の泥の表面には、幾何学的な結晶のような模様が浮かんでは消え、そのたびに植物の組織を食い荒らし、さらに体積を増やしていく。  美しい、とすら思える光景だった。死そのものが結晶化したような、冷徹な美しさ。  だが、その正体が何であるかを知る者にとっては、地獄の釜の蓋が開いた光景に他ならない。


「た、田中!」 「さ、佐藤くん……? ち、違うんだ、僕はただ……!」


 俺が声をかけると、田中は縋(すが)るような目でこちらを見た。その手にはスマートフォンが握りしめられている。


「ネットで……『一晩で大輪の花を咲かせる奇跡の肥料』のレシピを見つけて……生成AIに作らせただけで……! ちゃんと、手順通りにやったのに!」 「……そのスマホ、貸せ」


 俺は有無を言わせず、田中からスマホをもぎ取った。  画面には、海外の掲示板サイトと、生成AIが出力した複雑な化学式の羅列が表示されている。


(さくら!) 『任せな! スキャン開始……解析完了まで〇・五秒!』


 ARウィンドウの中で、さくらが腕を組み、仁王立ちになった。彼女の視線が、田中のスマホ画面上のコードを高速で走査していく。  そして次の瞬間、彼女は柳眉(りゅうび)を逆立て、真っ赤な顔で怒鳴り散らした。


『なんてこったい! どこのどいつだ、こんなふざけたモンを「肥料」なんて名前でばら撒いた野郎は!』 (落ち着け。正体は?) 『見りゃわかんだろ! こいつぁ肥料なんかじゃねえ! 『有機物分解・再構築ナノマシン』……通称〝グレイ・グー〟の出来損ないだ!』


 グレイ・グー。  自己増殖するナノマシンが、地球上のあらゆる物質を分解・摂取して増殖し続け、最終的に世界を灰色の泥(グレイ・グー)に変えてしまうという、ナノテクノロジーにおける最悪のシナリオ。  SFの中だけの話だと思われていた「世界の終わり」が、今、片田舎の高校の温室で産声を上げている。


『炭素結合を触媒にして増殖するタイプだね。しかも、軍事用のプロテクトがかかってやがる。普通のガキがネット検索したぐらいで出てくる代物じゃねえよ。誰かが悪意を持って、一般サイトに偽装して罠を張ってやがったんだ!』


 さくらは悔しそうにキセルを噛んだ。  俺は冷ややかな目で、震える田中を見下ろした。  彼に悪意はなかっただろう。ただ、花を早く咲かせたかった。誰かに褒められたかった。そんな些細な欲望と、知識の欠如。  現代において、無知は罪だ。  ポケットの中のスマホ一つで核兵器の設計図にアクセスできる時代に、自分が何を触っているのか理解していないこと。それは、目隠しをして高速道路を横断するのと同じ自殺行為だ。


「佐藤くん、これ……どうすれば……水? 水をかければいいのかな!?」 「動くな! 余計なことをするな!」


 俺が鋭く制止した時だった。  ジュルッ、という湿った音と共に、プランターから溢れ出した銀色の粘液が、床を這い、温室のプラスチック製の壁に触れた。  瞬間、プラスチックが発泡し、白煙を上げて溶け始めた。  有機物なら何でも食うのか。


『マズイよ蓮! プラスチックを食って増殖スピードが上がった! このままだと三分で温室が崩壊、十分で校舎への延焼……いや、侵食が始まる!』 「くそっ……!」


 俺は周囲を見回す。消火器? いや、粉末消火剤に含まれる成分が化学反応を起こすリスクがある。  まずは隔離だ。こいつをここから出してはいけない。


「田中、お前は外へ出ろ。誰にも近づかせるな」 「で、でも……!」 「いいから行け!!」


 俺が怒鳴ったのと同時に、温室のドアが開いた。  現れたのは、田中ではなく、先ほどの数学教師だった。息を切らし、額に汗を浮かべている。


「さ、佐藤! ここにいたのか! 貧血はどうした……って、なんだこれは!?」


 教師は眼鏡の位置を直し、銀色に蠢(うごめ)く惨状を見て絶句した。  だが、すぐに教師としての顔を取り戻し、叫んだ。


「火事か!? いや、薬品漏れか!? とにかく消さなくては!」


 教師の視線が、入り口付近にある散水用のホースリールに向く。  俺の心臓が跳ね上がった。


(さくら、解析! 水との反応は!?) 『最悪だ! こいつの構成式、水素結合を取り込んで活性化する構造になってやがる! 水なんてかけたら、ガソリンを注ぐようなもんだよ!』 (爆発的増殖……か)


「先生、待ってください! 水はダメです!」


 俺は手を伸ばして止めようとした。  だが、教師の動作は速かった。パニック特有の視野狭窄(きょうさく)に陥っている彼は、俺の言葉など耳に入らない様子で、ホースの蛇口を捻(ひね)った。


「下がってなさい! すぐに洗い流すから!」 「やめろッ!!」


 俺の制止も虚しく、ホースの先から勢いよく水が噴射された。  透明な水流が放物線を描き、銀色の悪魔へと吸い込まれていく。  ARウィンドウの中で、さくらが頭を抱えて絶叫した。


『あーあ! 肥溜めに落ちたような顔してんじゃねえよ! やっちまったなぁ、おい!!』


 水がナノマシンに着弾した瞬間。  ジュワアアアアアッ!!  鼓膜を劈(つんざ)くような爆音と共に、銀色の泥が沸騰したように膨れ上がった。

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