第3話 血の識標

 ベルは、吸い込まれるように小屋の扉へと手をかけた。  蝶番が鳴る音さえなく、扉は滑らかに開く。


「……失礼します」


 掠れた声で告げ、一歩中へ踏み出した。  そこは、驚くほど整然とした空間だった。埃ひとつ落ちていない床、磨き上げられた調度品。外の荒涼とした無の世界が嘘のように、ここには確かな「生活の温もり」が満ちていた。


 ふと、部屋の中央にあるテーブルに目が留まる。  そこにはカップが並べられ、漆黒の液体が注がれていた。


「……これはコーヒー?」


 恐る恐る指先を触れ、ベルは息を呑んだ。  陶器越しに、柔らかな熱が伝わってきたのだ。


(誰かが、ついさっきまでここに……?)


 その熱は、あまりにも生々しかった。


「……すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」

 呼びかけても、返るべき声はない。  外も、中も、耳が痛くなるほどの静寂が支配している。  テーブルの傍らには、一冊の革装綴じの日誌が置かれていた。使い込まれた風合いに、ベルの胸の鼓動が早まる。もしかしたら、先に里を出た仲間たちが残したものかもしれない。  期待に手を震わせながら、頁をめくる。

一枚。二枚。


「……白紙?」


 どれほどめくっても、そこには何も記されていなかった。  インクの跡も、筆圧の凹みさえない。まるで記録されることそのものを、世界が拒んでいるかのように。  ざわつく胸を抑え、ベルは奥の寝室へと向かった。そこには簡素なベッドとクローゼットが置かれているだけだった。人の姿も、旅の荷物も、誰かがいた痕跡は何ひとつ見当たらない。


 ――ただ、温かいコーヒーだけがそこにある。  理解の範疇を超えた事態に、長旅の疲労が重くのしかかった。鉛のような倦怠感が思考を麻痺させていく。


(少しだけ……目を閉じる……だけ……)


 抗いがたい睡魔に誘われ、ベルは吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込んだ。


 次に瞼を開けたとき、ベルは肌を刺すような寒気に襲われた。


「……夜?」


 窓の外は、濃密な闇に塗り潰されていた。  上半身を起こし、周囲を見渡した瞬間――ベルの喉が、引き攣った悲鳴を飲み込んだ。


「……っ……あ……!」


 先ほどまでの端正な小屋は、どこにもなかった。  壁は黒ずみ、天井からは腐った梁が牙のように突き出している。床は湿った土のように崩れ、今にも崩落しそうな廃屋が、闇の中に口を開けていた。


(私が眠っている間に、何が……?)  

(それとも、最初から……幻を見せられていた?)


 背筋を、氷のような冷たさが這い上がる。


 ふらつく足取りでテーブルがあった場所へ向かう。  そこには、ひび割れた陶器の破片と、干からびて焦げ付いたような黒い染みが残されていた。  そして――あの、日誌。  ベルは震える手で、再びその頁をめくった。


 そこには、狂気そのものが刻まれていた。  ページを埋め尽くしていたのは、どす黒く変色した血の文字。


『モドレ』


 次の頁をめくる。指先が血の感触を覚えているかのように震える。


『モドレ モドレ モドレ』


 さらにめくれば、文字は次第に歪み、重なり合い、紙を突き破らんばかりの執念で叫んでいた。


『モドレモドレモドレモドレモドレモドレ』


「……っ……やめて……なにこれ、なんなのよぉ……!」


 喉の奥からせり上がる嗚咽を抑え、最後の一頁を開く。  そこには、弱々しく、今にも消えてしまいそうな震える筆致で――ただ、一言だけが記されていた。


『タスケテ』


 ベルは悟った。  この地へ辿り着いた仲間たちに、何が起きたのかを。  いや、今この瞬間も、彼らはどこかで「これ」を書き続けているのかもしれない。


「嘘だと言ってよ……」


 外の世界は、自由への希望などではなかった。  そこは、甘い誘惑で人を招き入れ、その魂を二度と帰さない「終わりの檻」なのだ。


 ベルは日誌を痛いほど胸に抱きしめ、立ち上がった。  震える足で、闇が広がる戸口を見つめる。  もう、後戻りなどできない。この絶望の先にある真実を暴くまでは。

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