第2話 世界の果て

 ベルは愛用の箒に跨り、一気に天へと舞い上がった。  里を包む不可視の結界を通り抜けた瞬間、肌を撫でる空気の質感が劇的に変化する。  魔力の濃度は希薄になり、代わりに湿り気を帯びた重い風が頬を打った。


「……これが、外の世界」


 呟いた言葉は、風にさらわれて霧の向こうへ消えていく。  胸が高鳴っていた。期待と、不安と、そして試練で垣間見たあの不気味な予感――それらすべてを飲み込み、ベルは雲海を抜け、険しい稜線を越え、未知なる海へと針路を取った。


 海は、想像していたよりもずっと静謐だった。  規則正しく繰り返される波の音。どこまでも透徹した、高すぎる空。  ベルは昼夜を問わず箒を走らせた。睡魔に襲われれば適当な岸辺で翼を休め、目が覚めれば再び蒼天へと溶け込んでいく。


「……街が、見当たらない」


 何日もの時を費やし、いくつもの陸地を巡った。  けれど、ベルの瞳に映るのは、手付かずの原生林であり、膝まで埋まる草原であり、峻険な岩山だった。  圧倒的なまでの自然。だが、そこに「人」の営みは欠片も存在しなかった。


「おかしいな……こんなはずじゃ」


 里で聞かされていた話では、外の世界には数え切れないほどの人間が住み、夜も眠らない賑やかな街が連なっているはずだった。


(みんな、どこへ行ったの……?)


 先に里を旅立った、親しい仲間たちの顔が脳裏をよぎる。  誇らしげに胸を張っていた背中。夢を語り合ったあの日の夜。  彼らも、この孤独な緑の海を彷徨ったのだろうか。  不安が、冷たい澱(おり)のように胸の底へ溜まっていく。


 眼下に広がる景色は、確かに美しいはずだった。  陽光にきらめく木の葉。渡る風に波打つ草原。  それなのに――。


「なんだか……怖い」


 誰の視線も存在しないその広大さが、ベルの心をじわじわと圧し潰していく。  夜が来れば、世界から一切の音が死に絶えた。  虫の羽音も、獣の唸りも、鳥の羽ばたきさえも聞こえない。


(生き物の気配が……感じられない)


 その異常な静寂に耐えきれず、ベルは逃げるように再び空へと逃げ延びた。


「……もう少し。もう少しだけ先へ行けば」  


自分に言い聞かせるように、震える手で箒を操り続けた。


 そして。  それは、唐突に姿を現した。


「……え?」


 前方に、理解を絶する「虚無」が横たわっていた。  いや、正確に表現するならば、そこから先の空間そのものが「存在していない」のだ。  地平線は鋭利な刃物で断たれたようにぷつりと途切れ、海も、空も、雲も、すべてがその境界線で終わっている。


「なんなの、これ……」


 ベルは箒を止め、恐る恐るその「世界の縁」へと近づいた。  切り取られた世界の向こう側には、星も闇もない、ただ名付けようのない無色が広がっている。まるで、描き手が飽きて筆を置いてしまった未完成の絵画のように。


「世界の……端っこ?」


 ベルは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くした。  世界は無限でもなければ、自由でもなかった。最初から、何者かによって定義された「箱庭」に過ぎなかったのだ。  なぜ、こんな形をしているのか。誰が、何のために作ったのか。  今のベルに知る術はない。ただ一つ、確信めいた予感が、呪いのように胸に広がった。


(私はきっと……もう、戻れない)


 その時だった。  断絶した世界の端からわずかに離れた場所に、不自然なほど整った建物が目に入った。


「あれは……?」


 ベルは吸い寄せられるように箒を降ろした。  それは、木と石を組み合わせて作られた、慎ましやかで美しい小屋だった。  荒々しい自然の中に、あまりにも計算され尽くした造形。やはり人の気配はない。けれど、そこだけが周囲の静寂から切り離されたような、妙な存在感を放っていた。


「……誰か、いるの?」


 ベルは地面に降り立ち、その小屋の前に立った。  風の音さえ聞こえない沈黙の中。  ただ一つの扉が、招くようにそこにあった。

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