箱庭の魔女 〜神に捧げられるはずだった私が、世界の嘘をぶち壊すまで〜
@roku_ky
第1話 旅立ち
朝霧の残る里に、無情な鐘の音が二度、厳かに響き渡った。
「――嘘っ!」
弾かれたように寝台から飛び起きたベルの瞳に、天窓から落ちる残酷な光が突き刺さる。その角度は、すでに朝の穏やかさを失い、真昼の鋭さを帯び始めていた。 今日は一生に一度の日。一人前の魔法使いとして認められるための、昇格試験の当日だというのに。
「長老様の家まで……急がなきゃ!」
椅子の背にかかったローブをひっつかんで羽織り、もつれた長い髪を指で梳きながら、ベルは扉を蹴るように開け放った。 石畳を駆ける足音が、静寂な通りに高く反響する。 霧に閉ざされたこの里には、魔法使いしか住んでいない。生まれて十六年、ベルの世界はこの狭く美しい箱庭の中だけで完結していた。 けれど、今日を越えれば。 憧れ続けた「外の世界」へ踏み出す資格が得られる。 そのはずだったのだ。この寝坊さえなければ。
長老の館に辿り着いたとき、ベルの肺は焼きつくように熱くなっていた。
「し、失礼いたします……!」
重厚な扉を叩くと、すぐに静謐な声が返ってくる。
「入るがよい、ベル」
薄暗い部屋の奥、長老はすでに椅子に深く沈み込んでいた。遅刻に対する咎めはなく、ただ湖面のように静かな瞳がベルを射抜く。
「今日行うのは、其方が一人前となるための儀式じゃ」
長老は淡々と、しかし重みのある口調で告げた。
「内容は単純。裏山の祠に祀られし『御札』を持ち帰ること」
ベルはごくりと喉を鳴らし、頷く。
「ただし――」
長老の瞳が、わずかに細められた。
「その道中には、試練がある」
それ以上の言葉はなかった。何が起きるのか、どう対処すべきなのか。沈黙だけが、重い意味を含んで漂っていた。
裏山は、里の境界に最も近い禁足地だ。 昼なお暗い森。歪にねじれた木々は苦悶の表情を浮かべているようで、魔力の奔流が不安定に渦巻いている。
「試験は簡単そう。でも……」
ベルは唇を強く噛み締めた。歴代の魔法使いたちも、皆この森で「何か」を乗り越えてきたのだ。 祠はすぐに見つかった。 苔むした石造りの祭壇。その中央に、一枚の御札が青白い光を帯びて浮遊している。
「……行ける」
ベルが意を決して、境界へと足を踏み入れた瞬間――世界が裏返った。
吐き気がするほどの浮遊感。 次に瞬きをしたとき、ベルは自分の部屋に立ち尽くしていた。
「……え?」
使い慣れた机、柔らかいベッド、窓から差し込む優しい陽光。 さっきまでの薄暗い森も、湿った土の匂いも消え失せている。 窓の外を見下ろせば、見慣れた広場があった。友人たちが花のように笑いあっている。
「ベル、試験どうだった?」
「ベルなら余裕でしょ!」
あまりに平和で、あまりに穏やかな日常。誰も違和感を抱いていない。 ――いや、違う。
「……時が、止まってる?」
ベルは戦慄した。 雲の流れも、風の音も、魔力の揺らぎさえも。すべてが精巧な絵画のように固定されている。あまりにも美しすぎる、作り物の楽園。 そのとき、甘い毒のような声が脳髄に直接響いた。
『ここにいれば、安全だ』
『外になど行かずとも、幸せはここにある』
『不安も、恐怖も、傷つくこともない』
その囁きを聞いた瞬間、ベルの胸を冷たい蔦が締め付けた。
「……外に行った人たち」
誰一人として、帰ってこない先輩たち。 「本当は、みんな――」
帰らないのではない。帰れなくなったのではないか。 この甘美な幻影は、真実から目を逸らさせるための檻だ。ここで「幸せ」を受け入れてしまえば、心は永遠にここに囚われる。
(外の世界って、本当は……)
死と隣り合わせの地獄なのかもしれない。 でも里の友人たちは口を揃えて言う。
「外はきっと素敵な場所だから」
「だから戻ってこないんだよ」と。
ベルは震える手で、自らの胸元を握りしめた。
「私は……確かめたい」
与えられた偽りの安心よりも、血の通った真実を。
「たとえ傷ついても、私は私の足で歩きたい!」
ベルは全身の魔力を解放した。 空間が悲鳴を上げる。光が弾け、美しい部屋も、友人の笑顔も、硝子細工のように砕け散っていく。
次の瞬間、ベルは祠の前の冷たい土の上に崩れ落ちていた。 息が苦しい。全身が小刻みに震えている。 足元には、静かに落ちている御札が一枚。
「……これが、試練」
魔法の強さではない。疑いを持ち、安寧を捨ててでも進む覚悟があるか、それを問う試練。 ベルは泥にまみれた手で御札を拾い上げ、里へと歩き出した。
試験の結果は、すぐに告げられた。
「ベルを、一人前の魔法使いと認める」
広場に響く歓声と祝福。友人たちは屈託のない笑顔で、未来への希望を語り合う。
「外の世界、楽しみだね!」
「絶対いい所だよ、綺麗なものがたくさんあるんだって!」
ベルも口元だけで笑った。 ――けれど、胸の奥に刺さった小さな棘は、もう消えることはない。
翌朝。 朝霧が晴れるよりも早く、ベルは静かに里を出た。 見送りは誰にも頼まなかった。振り返れば、決意が揺らぐ気がしたからだ。 愛しい故郷を背に、少女は一歩を踏み出す。 その道の先に、数奇な運命が待ち受けているとも知らずに。
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