第2話後篇::致死量のハイボールと、正義という名の750万

第三節:空白の領収書


「……三年前の話だよ」

悠介は観念して、ポツリと語り出す。


当時、彼はある健康食品メーカーの新商品キャンペーンを担当していた。

商品は完成し、広告も打ち出し、あとは発売日を待つだけだった。

だが、悠介は気づいてしまった。商品のパッケージに記載された成分表示が、実際よりもかなり**「盛られて」**いたことに。

担当者が売上欲しさに意図的にやったのは明白だった。だが、もしバレても「単純な記載ミスでした」とシラを切れる、絶妙なラインの誇張だった。


「俺は、若かったんだな。消費者を騙すのは『悪』だと思った。でも、俺一人の権限じゃ出荷なんて止められない。上司も『余計なことするな』と取り合ってくれなかった」


「……それで、どうしたの?」

陽葵がグラスの縁を指でなぞりながら聞く。


「現場を説得したんだ。箱詰めを請け負っていた下請けの工場長に、直接電話をかけた。不正があること、消費者を騙すことになること。……そして、『あなたの工場から、嘘を世に出すんですか』って」


悠介の言葉を聞いた工場長は、長い沈黙の後、こう吐き捨てた。

『……うちは貧乏工場だが、嘘を詰めるために機械(ライン)動かしてるんじゃねえ』


工場長は、自らの判断と責任でラインを緊急停止させた。

その結果、キャンペーンは物理的に間に合わず、一時ストップした。


当初、クライアントは激怒した。だが、担当者はすぐに態度を翻した。

『いやあ、真壁さんのおかげで助かりましたよ! うっかりミスを見逃すところだった。さすがはプロだ、危機管理がしっかりしている!』


担当者は「意図的な不正」を「うっかりミス」にすり替え、それを未然に防いだ(ことになった)悠介に感謝さえした。

会社からも『手荒だが、結果オーライだ』と評価された。

誰も傷つかず、誰も責任を取らされず、俺の正義は守られた――はずだった。


「でも、俺は見えていなかったんだ。大企業同士が握手をして終わったその足元で、小さな下請け工場が死にかけていたことに」


「……え?」


「納期の遅れ、ラインの停止損害。クライアントは『工場が勝手に止めたんでしょう? 当社は正式な停止命令なんて出していませんよ』とシラを切った。すべての責任と損害賠償を、筋を通した町工場に押し付けたんだ」


「うわ、最悪……」


「俺が工場長を焚きつけたせいで、工場は未払い倒産の危機に追い込まれた。オヤジさんは、俺の言葉を信じてくれたせいで、首を吊る寸前だったんだ」


悠介は自嘲気味に笑う。

それに気づいたのは、すべてが終わった後だった。

そして、その時すでに手を差し伸べていた男がいた。


「そこで介入したのが、社長だ」

悠介の視線を受け、来栖が忌々しげに舌打ちをした。

「あの工場のオヤジには、昔、少しばかり世話になったことがあってな。見捨てるわけにもいかねえだろ」


来栖はハイボールを呷り、不機嫌そうに続ける。

「だが、時間がなさすぎた。それに当時の俺には、まともに動ける『手駒』がいなかった。……だから、一番手っ取り早くて、一番ダサい手を使ったんだよ。俺のポケットマネーで損害を全部埋めるっていう、知性のかけらもない方法をな」


工場の損失補填、銀行への口利き。締めて八百万。

「あの時、俺に十分な時間か、あるいは優秀な策士がいれば、クライアントの弱みを握って逆に金を毟り取ってやったものを。……現ナマで解決なんざ、三流のやることだ」


来栖は本気で悔しそうだった。

悠介は、空になったジョッキを見つめた。

法的には、悠介に支払い義務などない。会社もクライアントも、もうその件は「解決済み」として処理していた。

だが、悠介は来栖に頭を下げたのだ。『その金、俺に払わせてください』と。自分の言葉を信じてくれた工場長への、せめてもの贖罪として。


「……俺の独りよがりな正義の尻拭いをさせてしまった。だから俺は、この借金を背負ってここで働いている」


第四節:アレルギーの不在


店内は喧騒に包まれていたが、悠介たちのテーブルだけ、奇妙な静寂があった。


陽葵は、黙って悠介を見つめていた。

軽蔑するでもなく、同情するでもなく。ただ、珍しい生き物を観察するような目で。

彼女の手が、自分の二の腕に触れる。


「……ふーん」

「なんだよ、成瀬さん。また鳥肌か?」

「ううん。……寒気はしない」


陽葵は、つるりとした自分の腕を見せた。

「あんた、本気で後悔してるんだ。『正しいこと』をした自分を、まるで犯罪者みたいに恥じてる」


「……実際、罪人みたいなもんだろ。俺の独りよがりな正義感のせいで、人が死ぬところだった」


「だから、今の『嘘つき』な自分が一番お似合いだって? ……歪んでるね」

陽葵は、呆れたように、けれどどこか楽しげに笑った。


「無神経な正義漢より、借金まみれの臆病者の方がマシな匂いがするなんて。……あんたも相当、終わってるよ」


それは、彼女なりの最大の賛辞に聞こえた。

悠介は苦笑し、再びジョッキに口をつけた。やはり、致死量に濃い。


第五節:濃度の種明かし


一時間もしないうちに、来栖はテーブルに突っ伏して寝息を立て始め、悠介も足元がふらつき始めていた。

いつもより酔いが回るのが早すぎる。


「……うう、頭痛い。律さん、お水……」

「はい、どうぞ」

律は涼しい顔で水を差し出しながら、スマホで会計の計算を済ませていた。


陽葵が、氷が溶けて薄まったレモンサワーを揺らしながら、ふと律の手元を覗き込んだ。

「……ねえ、さっきから思ってたんだけど、なんで私以外の飲み物がそんなに濃いの?」


陽葵の指摘に、律は悪びれもせず眼鏡の位置を直した。

「ああ、お気づきでしたか」


律は店員の手書き伝票を指差した。そこには『特濃変更 +100円』という、メニューにはないオプションが走り書きされていた。


「乾杯の直後、私が席を外したのを覚えていますか?」

「うん。私のビール持って行ってくれた時でしょ」

「あの時、店員と交渉してきました。『追加で百円払うから、炭酸水を減らして、その分ウイスキーを注いでくれ』と」


「はあ!?」

悠介と陽葵の声が重なる。


律は淡々と説明を続けた。

「飲み放題ではありませんから、杯数を重ねられると経費が嵩(かさ)みます。普通の濃さで五杯飲まれるより、致死量の濃さで二杯で潰れていただいた方が、一人当たり千五百円のコストカットになります」


「うわ、合理的すぎて怖い……じゃあ、席立ったのは裏工作のためだったの?」


「それに、早期解散すれば深夜割増のタクシー代も浮きますし、明日の労働生産性も維持できます。……すべては計算通りです」


「この事務所、まともな人間が私しかいないじゃん。私のレモンサワーは?」

「チーフは、お子様舌で余り飲まなさそうだったので、そのままです」

「……喜んでいいのか分からないんだけど」


第六節:共犯者の帰路


来栖をタクシーに押し込み(もちろん経費ではなく社長の自腹で)、悠介と陽葵は夜風に当たりながら駅へと歩いていた。


「……はあ。ひどい飲み会だった」

「全くだ。頭が割れそうだ」


悠介がこめかみを押さえていると、横から冷たいペットボトルが飛んできた。

陽葵がコンビニで買った水だった。


「あげる。……奢り」

「珍しいな。雪でも降るんじゃないか?」

「うるさいな。……あんたが野垂れ死んだら、私が一人で仕事しなきゃいけなくなるし」


陽葵はそっぽを向いて歩き出した。

その背中が、街灯に照らされて小さく揺れる。


「借金完済までなら、付き合ってあげてもいいよ。せいぜい稼ぎなよ、相棒(パートナー)」


悠介は水を受け取り、キャップを開けた。

冷たい水が、アルコールで焼けた喉に染み渡っていく。


「……手厳しいな、成瀬さん」


悠介の言葉に、陽葵がぴたりと足を止めた。

くるりと振り返り、不満げに眉を寄せる。


「……ねえ、それやめて」

「ん? 何がだ?」

「『成瀬さん』って呼び方。……あんたがそう呼ぶ時、声が半音下がるの。**『仕事用の壁』**を作ってる音(おと)がして、すごく不快」


陽葵は、自分の腕をさすりながら悠介を睨んだ。

「あんたの『他人行儀』は、嘘の匂いがするの。私の前でかっこつけようとしないで」


「……かっこつけてるつもりはないんだが」

「無意識ならもっと重症。……**『陽葵』**でいい。私の嘘を見抜きたいなら、まずはあんたが壁をなくして」


「は? いや、さすがに年下の女性を呼び捨てにするのは……」

「チーフ命令。拒否権なし」

チーフと主任ではどっちが優位か分かったものではない。


陽葵はふんと鼻を鳴らし、再び歩き出した。

「ほら、行くよ。置いてくからね」


取り残された悠介は、呆気にとられた後、小さく苦笑した。

この生意気な相棒は、想像以上に手がかかりそうだ。


「……はいはい。分かったよ、陽葵」



藍上原市のネオンが、酔った視界の中で滲んで見えた。

嘘と借金、そして苦い過去で繋がれたこの関係も、悪くはない。

二十九歳の彼は、そう自分に言い聞かせ、ふらつく足取りで彼女の後を追った。

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無敵の可愛さは、真実を暴くための凶器でした~嘘を吐くと鳥肌が立つ女子大生と、嘘で世界を回す社畜詐欺師~。 三崎 透亜 @misaki_toua

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