第2話前編:致死量のハイボールと、正義という名の750万

第一節:致死量のハイボール


「おい、生四つ! 大至急だ!」


来栖大吾の野太い声が、油と煙にまみれた店内に響き渡る。

ガード下の激安焼肉店『ホルモン大将』。壁紙は長年の脂で茶色く変色し、換気扇は悲鳴のような音を立てて回っていた。


有無を言わさぬ社長命令で、ドン、ドン、ドン、ドンと四つのジョッキがテーブルに叩きつけられる。


「――それじゃあ、記念すべき開幕戦の白星を祝って。乾杯!」

「……乾杯」


真壁悠介は、疲労の滲む声でジョッキを掲げた。

隣の席では、成瀬陽葵が不満げに口をつける。


「……苦っ。私、これ無理」


陽葵は一口つけただけのジョッキを、嫌そうにテーブルへ突き返した。

その時、事務員の二宮 律(にのみや りつ)が静かに立ち上がった。律は、悠介よりも早く、恐らく経営コンサルタント時代から、来栖のもとで働いている事務員だ。

年齢は30半ばというところだとは思うが、悠介は把握していない。


「失礼。少し席を外します」


律は愛用の電卓とバインダーを置いたまま、無表情で店の奥へと消えていく。


「なんだ、律ちゃんのやつ、もうトイレか? まあいい、飲むぞ真壁ちゃん!」

「……はいはい、付き合いますよ」


悠介は来栖のペースに巻き込まれ、ビールを一気に喉へ流し込んだ。空きっ腹にアルコールが染み渡る。


「なんだ、陽葵ちゃんも飲まねえのか? つまらねえ連中だなあ」

「無理なものは無理。すいませーん、レモンサワーください。甘いやつ」


陽葵は来栖の煽りをスルーして、店員に注文し直している。


ものの数分でジョッキを空けた二人を見て、来栖が手を挙げた。

「おーい、追加だ! ハイボール二つ! 濃いめで頼むぞ!」


すぐに店員が新しいジョッキを運んできたのと同時に、律が席に戻ってきた。

彼女はテーブルに戻るなり、陽葵の前に放置されたビールに目を留めた。


「チーフ。これ、残すおつもりですか?」

「あげる。私の口には合わない」

「承知しました。経費の無駄ですので」


律は座るや否や、陽葵の飲みかけのジョッキを引き寄せ、何事もなかったかのように自分の手元にキープした。


「お待たせしました」

澄ました顔をする彼女の横で、悠介は届いたばかりのハイボールを煽った。

その瞬間。


「――ぶっ、ごほっ!?」


悠介は激しく咳き込んだ。喉が焼けるような刺激。炭酸の爽快感など微塵もない。それは、ほぼ原液に近いウイスキーだった。


「……社長。これ、濃すぎませんか? 店員が分量間違えたんじゃ」

「あん? 酒なんてのはアルコールが入ってりゃいいんだよ。消毒だ、消毒」


来栖は気にする様子もなく、ホルモンを網に広げる。

陽葵は、届いたレモンサワーをストローでちびちび吸いながら、悠介のジョッキの中身をジロジロと覗き込んだ。液体は、ハイボールにあるまじき濃い琥珀色をしており、氷も申し訳程度にしか浮いていない。


「うわ。色のついたガソリンみたい。……よくそんなの飲めるね」


律は、咳き込む悠介を見ても眉ひとつ動かさず、メニューを見るより先に電卓を叩き始めた。

その仕草は、熟練の店員が焼肉屋の網を交換するよりも冷たく、正確だった。

「……それより主任。酔いが回る前に、今月の『返済計画』についてご報告があります」


律は、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、ペラペラの封筒をテーブルに置いた。


第二節:透明な搾取


「まずはチーフ。こちらが今回の成功報酬です」


律は、陽葵には厚みのある茶封筒を手渡した。

陽葵は中身を確認し、ふふんと鼻を鳴らす。

「わ、結構入ってる。これなら来期の学費、払えるかも」


「……学費?」

悠介が聞き返すと、陽葵は当然のような顔で言った。

「私、現役の女子大生だよ? 私立は高いの。……奨学金という名の借金を背負って社会に出るのは御免だし。利子がつく前に、今のうちに稼いで払う。それだけ」


二十歳の彼女は、どこまでも現実的だった。

「未来の借金」を消すために、今の怪しいバイトをしているらしい。

悠介は妙な親近感と、自分より遥かにしっかりしている彼女への敗北感を覚えつつ、自分の薄い白封筒を受け取った。


「そして、主任。こちらがあなたの分です」


恐る恐る中を開けると、そこには数枚の小銭と、一枚の紙切れが入っていた。『返済明細書』と印字されている。


「……律さん。これは?」

「今回の報酬から、今月分の返済額と利息、および過去の『事故補填金』を差し引きました。残債は、あと七百五十万円です」


律は事務的に告げ、網の上の肉をひっくり返した。その手つきには一切の無駄がない。


陽葵がレモンサワーを飲む手を止める。

「……七百五十万? あんたも借金持ちなの? 何したの、ギャンブル?」


「……まあ、似たようなもんだよ」

悠介は、明細書を隠すようにポケットへねじ込んだ。

「昔、付き合ってた女に入れ込みすぎてね。高い勉強代を払ったってわけだ」


ヘラリと笑い、誤魔化そうとした瞬間。

陽葵が顔をしかめ、自分の二の腕を強くさすった。


「――嘘」

「え?」

「鳥肌が立った。……嘘つかないでよ」


陽葵は、冷ややかな目で悠介を射抜く。

「あんたが本当に女やギャンブルで身を持ち崩したクズなら、もっと開き直ってるはずでしょ。……なんでそんな、痛々しい顔で嘘つくわけ?」


図星を突かれ、悠介の笑顔が凍りつく。

その様子を見て、来栖がニヤリと笑い、脂ぎった口元を拭った。


「鋭いな、チーフ。真壁ちゃんはな、女遊びよりタチの悪い道楽に手を出したんだよ。**『正義』**っていう、一番高くつく道楽にな」


「……社長。その話は」

悠介が制止しようとするが、来栖は止まらない。

「隠すこたあねえだろ。お前のその、クソ真面目な武勇伝を聞かせてやれよ」


逃げ場はなかった。悠介は深く溜息をつき、濃すぎるハイボールを喉に流し込んだ。

酔わなければ、とても話せる気分じゃなかった。


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