(2)

退院してからの家の中は、耳が痛くなるほど静かだった。

窓の外からは、近所の子供たちが登校する賑やかな声や、遠くで鳴る工事の音が聞こえてくるけれど、この部屋の中にだけは、どろりとした淀んだ空気が溜まっている。


母は、わたしが倒れた原因を「学校」だと決めつけた。

「そんなに辛いなら、もう行かなくていいから。今はゆっくり休みましょう」


そう言って、母はわたしの担任の先生に電話をかけ、あっさりと不登校の手続きのようなものを済ませてしまった。

学校に行かなくていい。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥でつかえていた重たい石が、ほんの一瞬だけ軽くなった気がした。あの冷たい廊下も、ひそひそと交わされる陰口も、わたしを透明人間として扱うクラスメイトたちの視線も、もう受けなくていいのだ。一人きりで耐え忍ぶ、あの地獄のような休み時間が来ないことに、わたしは確かに安堵してしまった。

安堵しては行けないのに、一瞬少しは安心してしまった。

けれど、その安堵はすぐに、もっと冷たくて暗い、底が見えない不安に飲み込まれていった。

学校に行かないということは、つまり、一日中この家で過ごすということだ。

父と母がいるのに、わたしの心には誰も触れてくれない、この家で。

「亜也、お昼は冷蔵庫に置いておくからね。ちゃんとお食べなさいよ」

仕事に出かける前、母は鏡を見て化粧を直しながら言った。

わたしの方を見ることさえしない。母の中では、わたしを「学校」というストレスから引き離しさえすれば、それで母親としての役目は果たしたと思っているようだった。

パタン、と玄関のドアが閉まる音が響く。

世界から、わたしだけが切り離されたような音がした。

大きな家の中に、わたし一人。

テレビをつければ誰かが笑っているけれど、その笑い声はわたしの耳を素通りしてゆく。

食欲はわかないのに、母に「食べなかったの?」と責められるのが嫌で、味のしないおにぎりを無理やり喉に流し込む。

わたしを見てくれない母。わたしの苦しみの本質に気づこうともしない父。

そんな二人と、この静まり返った箱の中で、これから先ずっと向き合っていかなければならない。

学校より、家の方がずっと地獄かもしれない。

膝を抱えて、自分の部屋の隅っこに座り込む。

ふと、机の上に置かれたままのランドセルが目に入った。昨日まで当たり前に背負っていたはずのそれが、今はもう、触れてはいけない不浄なもののように見えた。

学校に行かなくなったら、わたしはどうなるのだろう。

みんなが勉強して、喧嘩して、笑って、少しずつ大人になっていく中で、わたしだけがこの部屋の隅で、腐ってゆくのではないか。

「普通」というレールから、ガタガタと大きな音を立てて脱線してしまった。その先にあるのは、真っ暗な崖の下だ。

怖い。怖い。

「普通」でいたい。

みんなと同じように学校に行って、たまに愚痴を言って、友達とまではいかなくても、誰かの視界の中に、当たり前に存在していたい。

不登校なんてことになったら、わたしはもう、誰からも相手にされない「おかしな子」になってしまう。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

一人はもう嫌だ。

暗闇の中で、誰にも名前を呼ばれないまま消えていくのは嫌だ。

誰か。

わたしの名前を呼んで、わたしの目を見て、

「ここにいていいんだよ」って、嘘でもいいから言ってほしい。

けれど、部屋の壁は無機質な白さを保ったままで、わたしの願いに答えてくれるはずもなかった。

父も、母も、そして世界中の誰も。

わたしという人間を、ありのまま受け入れてくれる場所なんて、広い世界のどこを探しても、見つかる気がしなかった。


わたしは、自分の吐き出した細い吐息の音にさえ怯えながら、ただ過ぎていく時間を、死んだような目で眺め続けることしかできなかった。

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もう誰も来ない 如月幽吏 @yui903

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