もう誰も来ない
如月幽吏
プロローグ 第一話【亜也】
(1)
視界の端が、白く、ぼんやりと滲んでいる。
重たい瞼を無理やり押し上げると、そこには蛍光灯の無機質な光と、わたしを覗き込む二つの顔があった。母と、父。二人とも、今まで見たこともないような、ひどく狼狽した顔をしている。
「……あ、……亜也ちゃん……?」
母が震える声でわたしの名前を呼ぶ。その声は、どこか遠い場所から響いているように現実感がなかった。
わたしの体は、固くて冷たい板の上に横たわっている。それがストレッチャーだと気づくのに、少し時間がかかった。ガタガタと小さな振動が背中に伝わり、視界がゆっくりと移動を始める。
「今まで、小学校で辛かったみたいだから」
母が、誰に言い聞かせるでもなく、掠れた声でそう呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、わたしの心の中に冷たい石が投げ込まれたような感覚がした。
「違うよ。そうじゃないの」
喉の奥まで出かかった言葉は、乾ききっていて音にならない。
わたしは、見たくなかった。ずっと目を背けて、暗いクローゼットの奥に隠し続けてきたはずの現実に、無理やり引き戻されてゆく。
病院の長い廊下を移動するたび、天井のライトが規則正しく通り過ぎてゆく。一瞬明るくなって、すぐに影が落ちる。その繰り返しが、わたしのこれまでの毎日のようだと思った。
母は、わたしのことを分かってくれてない。
分かろうとしてくれていなかった。
「学校だけ」ではない。
確かに、教室の隅っこで息を潜めている時間は苦しかった。休み時間に誰からも話しかけられず、ノートの端っこに意味のない線を書き殴って、早くチャイムが鳴ることだけを祈る日々。友達が一人もいないこと。独りぼっちで食べるお弁当の味。そんなの、もうずっと前から、わたしの日常だった。
けれど、本当にわたしを壊したのは、そこではない。
学校で居場所がなくても、家に帰れば「おかえり」と言って抱きしめてくれる誰かがいれば、きっとわたしは倒れたりしなかった。
仕事が忙しいから。疲れているから。
そう言って、わたしが学校での出来事を話そうとするたびに、母はキッチンで背中を向けたまま、生返事しかしなかった。
父もそうだ。リビングのソファに深く腰掛けて、テレビの画面やスマートフォンの光に夢中で、わたしの顔なんて見てくれない。
二人の視線の先に、わたしは存在していなかった。
学校で透明人間として扱われることよりも、一番安心できるはずの家で「居ないもの」として扱われることが、何よりも、何よりも辛かったのに。
「わたしが帰ったら、玄関で倒れてて……」
「ストレスで倒れたみたいで……本当に、あの子、そんなに思い詰めていたなんて」
母の声が、救急隊員の人か看護師に事情を説明しているのが聞こえる。
その声には後悔が混ざっているのかもしれないけれど、今のわたしには、それがただの「言い訳」にしか聞こえなかった。
ストレス。
大人は、都合が悪くなるとすぐにそう言う。
わたしは、そんな便利な言葉で片付けないでほしかった。
わたしの心がどれだけ削れて、どれだけ叫んでいたか。その予兆はいくらでもあったはずなのに。夕飯を残すようになったとき。部屋から出てこなくなったとき。夜中にこっそり泣いていたとき。
それを見逃してきたのは、他ならない目の前にいる母と父だ。
やはり、わたしの世界に救いなんてないのだ。
視界が歪む。涙が溢れたのか、それとも意識がまた遠のいているのか。
ガタガタと揺れるストレッチャーの上で、わたしはただ、されるがままに運ばれていった。
分かってくれる人が現れるのは、きっと小説や映画の中だけの奇跡なのだ。
誰にも気づかれず、誰にも触れられず、一人きりの暗闇で震え続けること。それが、わたしの、篠崎亜矢という人間の、変えようのない現実だ。
「亜矢、大丈夫よ。お母さんがついてるからね」
握られた母の手は、驚くほど熱かった。けれどその熱さが今のわたしには、ひどく疎ましくて、たまらなく悲しかった。
もっと早く、その熱さを分けてほしかった。わたしがまだ、自分の足で立っていられた頃に。
重たい空気が肺に溜まっていく。
わたしはまたゆっくりと、光を拒絶したくて目を閉じた。
次に目を覚ましたとき、そこには少しでも、今とは違う景色が広がっているのだろうか。
そんな微かな希望さえ、今のわたしには贅沢すぎる毒のように思えた。
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