第五話 毒

──三月七日


 土御門殿の広間には、冷えた井戸の底のような静寂が満ちていた。

 灯火はわずか数本、炎は細く痩せ、揺れるたびに座敷の影を濃くした。

 伊勢貞行の座だけが空いている。

 その空席が、誰より雄弁に圧を放ち、天羽父子を畳へと押し伏せるかのようであった。

 畳に額を近づけ伏す静連と静麻の背は、重石を乗せられたかのごとく沈んでいる。

 周囲に並ぶ公家衆は、冷ややかな沈黙の面を並べ、その視線だけで“断罪”の場を形作っていた。

 最初に声を発したのは、日野西資実でも、吉田兼煕でも、吉田宗房でもなかった。叱責よりも静かで、沈黙よりも重い「ため息」だった。誰が吐いたものか判別できぬほど、広間全体が一斉に落胆したかのような、沈む気配。

 その重みに耐えかねたように、日野西が扇をわずかに揺らし、口を開いた。

「……さて、静連。このありさま、どう申し開きをする」

 語気は淡い。だが淡いほどに、刃のような冷たさがあった。

 静連は深々と頭を下げる。

「……弁明の余地もございませぬ」

 兼煕が皮肉げに唇を歪めた。

「まったく…天羽といえば失敗を知らぬ精鋭と聞いておりましたがな。えらく手こずったものです」

 静麻の肩が僅かに震えた。屈辱であり、怒りであり、何より誇りの痛みであった。

 その空気を割るように宗房が静かに言葉を挟む。

「しかし……得たものもある。攻めるものにとって、地形の把握ができたことは何より。そして、武力として惜しいが、あれらは放置できぬ存在であると判じられた。それだけでも収穫ではあるまいか」

 冷徹な現実を告げる声。

 長年、南北朝の混乱を生き抜いてきた男の老獪さが滲んでいた。

「さて──」

 宗房が静連を見据える。

「天羽殿、今後いかがなさるつもりか。そなたが雉裂らを誅殺する手筈と聞いておるが」

 静連は息を吐き、苦渋を押し殺した。

「此度の失態に関わっておらぬ精鋭が、まだ多く控えております。ゆえに──誅殺の任、問題なしと存じます」

 兼煕が机を叩いた。

 裂帛の音が広間を震わせる。

「戯れ言をッ! 今回は絶対に失敗できぬのだぞ!」

 その怒声に、静麻のこぶしが強く握りしめられる。

 爪が掌に食い込む、血が滲むほどに。

 その刹那、日野西が低く、冷たく呟いた。

「……毒を用いるか」

 空気が変わった。湿った紙を裂くような気配が広間を走る。

 兼煕が震えた声で返す。

「ど、毒と申すか……?」

 宗房はゆっくりと目を閉じた。

「確かに……それがもっとも確実でござろう」

 その言葉が落ちた瞬間、静麻は耐えきれず身を乗り出した。

「お待ちくだされ!!」

「控えよ、静麻!!」

 静連が怒号を飛ばす。

「しかし父上!」

 静麻の声は、血の味がにじむほど張り詰めていた。

「誉れ高き我ら神衛衆、毒に頼り誅殺とは……あまりに不名誉にございます!」

「控えよと言っておる!!」

 叱責が雷鳴のように落ち、広間は一瞬で凍りついた。

 その冷気の中で、日野西だけが静かに立ち上がる。足音が、重く、ゆっくりと静麻に近づいてくる。

「……許してやれ、静連」

 穏やかな声だった。

「若さゆえの血気。悪くはない。勇ましいことだ」

 静麻は驚き、顔を上げた。

 その瞬間、日野西は静かに微笑む。

 だがその笑みは、冬枯れの枝のように冷ややかで、少し触れただけで折れそうな、鋭い危うさを孕んでいた。

「静麻と言ったな」

 その声は柔らかいのに、心の奥へ氷の刃を差し込むようだ。

「我は嫌いではないぞ。……だがな、相手と場所を鑑みよ。今は密議の場。いかに志が正しくとも、口を挟む時とて選ぶものぞ」

 扇が静かに閉じられた。

「次は許さぬ」

 静麻の背筋が粟立つ。胸の奥に沈むのは恐怖ではなく、己の未熟への悔恨。

「……申し訳ございませぬ」

 日野西は席へ戻り、扇を軽く開いた。

「毒と言っても、致死のものを使うわけではない。匂いや味で気取られては元も子もないでな」

 兼煕が冷たく笑う。

「弱らす程度、というわけですか」

「そうだ。それで足りる。弱ったところを、兵でも討てよう。天羽は──もしもの時に備えよ」

「はっ」

 静連の声は重く沈んだ。

「静麻よ」

 名を呼ばれ、静麻は真っ直ぐ背を伸ばす。

 日野西の声は、背筋をなぞる氷のように静かだった。

「これは誇りをかけた闘いではない。歴史にも残らぬ。日の目を見ることもない。そなたらの働きも、記録には一切残らぬ。……闇に生き、闇で終える者だけが担える役目よ」

 静麻は奥歯を噛みしめ、血の味を感じた。

 誇りを削られてなお、ただ頭を垂れ、応じるしかできぬ。

「……承知仕りました」

 灯火が一つ、ぱちりと弾けた。

 影が広間をさらに濃く覆い、密議は──ひときわ深い闇の底へ沈んでゆくのであった。

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